2020年2月2日日曜日

人は誰でも、死ななければならないんだけどね・・・ コロナ ②



 新型コロナウイルスの件で、こんなことを考えた。


 このウイルスは、今回の騒動以前にすでに世界中の多くの

人に広がっていたが、病原性が弱くて発症者が少なく、発症

しても症状が軽かった為に、どこでも病原の特定などは行わ

れずにいたのではないか? たまたま今回、武漢市で免疫力

の落ちていた人が発症して重症化し、病原が何かを調べるこ

とになって、新型のコロナウイルスが見つかったということ

なのかもしれないと。

 なので、他の国でも、感染が疑われる人に対して検査を行

ったら、無症状の感染者(「不顕性感染」と言います)がい

っぱいいて、次々に見つかっているのではないか。

 それでも話のつじつまは合うので、実はすでに世界中に感

染者はいっぱいいるのに、中国から発生したと思い込んで

「中国に押し留めておこう」と無駄なことをしているだけか

もしれないよ。


 実際のところ、いったい何が怖いのか? 私にはさっぱり

分からない。

 「永遠に死にたくない」という人には大変な事なのかもし

れないが、私は「人は一分後に死んでも不思議じゃない」と

思っているので、今回のような事は何とも思わない。

 もちろん、なるだけ死にたくはないし、自分が大切に思っ

ている人にも死んでほしくはないけれど、「生きている」と

いうことは、「必ず死ぬ」ということなので、「自分や、自

分が大切に思っている人がいつ死ぬかも分からない」という

ことに対して、それなりに覚悟はしている。


 例えに出すのは本当に失礼で申し訳がないのだけれど、一

昨年の大阪の地震で、気の毒にも小学生の女の子が亡くなっ

てしまったことがあった。あの子の親御さんは、「いってら

っしゃい」と送り出したほんの五分後ぐらいで、我が子が死

んでしまうなんてまったく思わなかっただろう。いや、思っ

たわけがない。

 「一分後、我が子や自分自身が死ぬかもしれない」という

意識を常に持ちながら日常生活を送ることなど出来はしない

が、「それは誰にでも起きうる」ということを、人は肝に銘

じておいた方がいいだろう。「生きる」とは、そのようなこ

とも含んでいることだから。


 かなり薄情で冷酷なことを言っているのは承知している。

けれど、その「冷酷な事」が誰にでも起こり得るのが、わた

したちの人生であり、この世界というものだ。自分が、い

つ、その「冷酷な事」に直面する者になってもなんの不思議

もなければ、文句の言いようもないのだ。


 その「冷酷な事」が、例え誰かの過失や悪意によるもので

あったとしても、起こった事は元には戻せない。誰かや現実

を責めたところで、失ったものは帰りはしない。その「冷酷

な事」が起きた自分の人生を、泣きながら、地べたに這いつ

くばりながらでも受け止めざるを得ない。受け止めきれなく

て、自分が死んでしまうことになったとしても、それはそれ

でしようがない。私がそうなるかもしれないが、それならそ

れでしようがない。〈命〉には、「生」も「死」も含まれて

るのだから。


 そのような私たちの「生」を考えるとき、今回のような騒

動の無意味さや、人々が、いかに「生きているということ」

を上っ面でしか受け止めていないかという現実を目の当たり

にして、悲しく思う。


 実際に「自分が死ぬこと」や「自分の大切な人が死ぬこ

と」と、「死ぬかもしれない病気が流行っているらし

い・・・」ということを同列に思い込んで、かえって要らぬ

不安や不幸を背負いこんだり、他人を理不尽に不安にさせた

り不幸にさせたりするのは、あまりにも愚か過ぎる。


 人は誰でも、死ななければならない。

 誰も、その時を、その死に方を、自分で決めることはでき

い。自殺でさえ、そう追い込まれてしまってのことなんだ

ら・・・。


 「人は、いつ死ぬか分からない」

 その事実を “無いこと” にして、何になる?

 私には、それが不思議でたまらないし、それが良い事だと

も思わない。

 「冷酷」かもしれない。けれど、その「冷酷」の向こう

に、本当の「暖かさ」と「安らぎ」があると、私は思ってい

る。そして、誰もが、そこに「しあわせ」を見いだして欲し

いと思っている。

 その「しあわせ」は、常識の範疇にはないものだけれど

・・・・・。








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