2020年2月28日金曜日

「美しさ」が問いかけるもの



 我が家のクレマチスの芽が動き始めて、「そういえば、去

年ブログにそういうことを書いたなぁ。あれは、いつだった

っけ?」と思って、その時のブログを見返した。

 日付は三月三日になっている。今年は一週間ほど芽吹きが

早いのだ。


 そのままブログを読み進めると、最後にこんなことを書い

ている。



  〈 春、さまざまな命が、“移ろい” の力によってこの世

界に押し出されて来る・・。“美しさ” という「問い」をた

ずさえて・・・。〉(『春を探す』2019/3/3)


 「へぇ~」などと思う。

 “美しさ” は、「問い」なんだ・・・。


 “美しさ” は、何を問うているんでしょう? かなり「深

い」ことを問いかけているように思います。ほとんど、「命

の根源」とか「生きる意味」ぐらいのレベルのことのように

感じますが、それをこれから探りましょう。(ああ、無謀

だ・・・)


 と、思ったんですが、もうすでに『美しいとは』

(2018/6)という話を以前に書いていた。もう、ネタ切れ

なんだな。でも、まぁそのラインで話しを進めてみよう。


 今朝も、自分が育てている花を見て「きれいだなぁ」と思

っていた。

 いつも、ほんとうに不思議なんです。なぜ、人は花を見て

キレイだと思うのか。

 花は、植物の生殖器官です。その色や形状は、ほとんどの

場合昆虫を引き寄せる為に適応・進化して今に至っている。

そこに人間の影響は無いはずです。なのに、なぜ人間が花を

「きれいだ」と思うのか?


 花は、昆虫を引き寄せて受粉し、実を付けます。その実が

人間の食糧になることも多いので、人間が植物の実を見て

「キレイだ」というような肯定感や期待を持つのなら自然だ

と思うけれど、なぜ具体的な価値を持たない花を見て、「美

しい」といった肯定感を持つのか? それは単なる文化的な

影響の産物なのか?

 けれど、それが文化的な産物になるためには、最初の一人

が「きれいだ」という思いを抱く必要がある。結局、なぜ

「きれいだ」と思ったのかという話に戻ってしまう。

 そもそも「きれいだ」という感情はいったい何か?


『美しいとは』という回で書いたのは、「美しさ」とは “言

葉には出来ない世界の肯定感” みたいなことだったんですが

(もっとメンドクサイ言い回しでしたが)、なぜそれが「問

い」なのか?


 世界が、存在が、美しさを見せて語りかけているのでしょ

うね、「これを見ろ。いったい何の不服がある?」と。


 わたしたちは、エゴのフィルターを通して世界を見るの

で、普段は思考(言葉)によって加工された世界を見てい

る。けれど、その思考を突き抜けるようにしてわたしたちの

意識に飛び込んでくるものがある。それが「美しさ」の正体

だろうと思う。

 「美しさ」はわたしたちの “加工された価値観” を破壊す

る。


 ここで言う「加工」とは、アタマのつじつま合わせという

ような意味合いですが、「美しさ」は、そのつじつま合わせ

とは違う次元でわたしたちの意識に届く。霧の中でも声が聞

こえるように。

 それは、感性のバイブレーションとでも言うべきもので、

考を透過して人の意識に届き、命の本質的な部分を揺さぶ

ので、アタマはそれを恐れる。放っておけば「つじつま合

せ」が崩壊してしまうので。


 「美しさ」は語りかける。「これを見ろ。いったい何の不

服がある?」。

 その問いは、常に「足りない」と言い続けるエゴにとって

恐怖であり、嫌悪の対象でもある。なので、エゴは「美し

さ」をダイレクトに受け止めないようにフィルターをかけて

いる。(『感動から逃げるな』2017/11参照)

 エゴも必死ですが、「美しさ」がそのフィルターを突破し

た時、人は世界の本質を一瞥する。そして人は変容する。そ

して、本当のしあわせを感じる。


 「美しさ」は美しい。


 

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