2019年2月24日日曜日

抜けないトゲ



 私には妄想癖がある。

 「この『アタマが悪い』というブログ自体が妄想だ」と言わ

れても、積極的に反論もできない。「さもありなん」と思う。

 時には、ひとりで感動話を妄想して、ひとりで涙している

事さえある。始末が悪い。けれど、それで誰かに迷惑を掛け

るわけでもないので別に問題も無い。しかし、このブログに

は問題があると言えばあるでしょう。


 このブログを見る人は、“たまたま見てしまう” いわば

「通りすがりの人」です。その人がごく常識的に生きていら

っしゃる人の場合(そういう人の方が多いわけですが)、い

きなり《正しいとはそういうことにしておけば気が済むとい

うこと》だとか、《人には自由意志というものは無い》など

ということが冒頭に書かれていたりするのを見てしまうと、

駅で人身事故の現場に居合わせてしまったような、なんとも

イヤな気分になるのではないかと思うのです。消したいけど

消せない記憶というか、「抜けないトゲ」がささるという

か、そんな感じになりかねない。

 私の価値感やしあわせの定義とは違い、常識的なものの見

方で、それなりに落ち着いて暮らしてらっしゃる人に、こん

なものせていいのか? という思いも有るわけです。


 一休さんの歌に、《 釈迦という いたずら者が 世に出でて

多くの人を惑わすかな 》というのがありますが、余計な事

を言う奴がいるから、かえって人が要らない悩みを抱えると

いうことも確かに有りますね。そういう意味では「申し訳な

いなぁ」と思いますが、一休さんの歌も一休さん独特のアイ

ロニーであって、「釈迦などいない方が良かった」と言って

いるわけではない。釈迦がいなければ、一休さんもいない。

そんなこと一休さんは百も承知ですね。

 人は皆、普通の常識の中で惑いに惑っているのですから、

釈迦に惑わされた方が良いわけです。私もそう思います。だ

から、このブログで「抜けないトゲ」が刺さる人も、それが

ご縁だと思ってもらったらいいでしょう。世の中何が起こる

か分かりません。人間万事塞翁が馬。(それはともかく、自

分とお釈迦さまを同列に扱うのもどうなの?)


 話は意外な方へ飛びますが、騒音防止や地震の揺れを抑え

る考え方で、逆の位相の波を当ててそれを抑える方法が有り

ますね、ノイズキャンセリングヘッドホンなどに使われてい

る・・。お釈迦さまの語った事というのは、そういうことだ

と思うんです。人の常識が肯定している事を否定し、否定し

ている事を肯定するという。

 常識の波(常識の思考)に揺さぶられて苦しんでいる人間

に対して、それを相殺する考えをぶつけることで、心が波立

つのを抑えて平静にしてしまおうとするんですね。


 もともと、この世界は是も非も無い平静な世界なのに、エ

ゴが偏った見方で捉えてしまう為に、わたしたちの心は波立

ち乱れ、世界が凸凹に見え、騒々しくなってしまう。だから

「是非善悪は偏見だよ」と、是にはその非を、非にはその是

を、善にはその悪を、悪にはその善を示して、「本来はなん

でもないんだよ」と気付かせようとしている・・・。


 今まで何度かその言葉を引用していますが、沢木興道老師

はこんなことも言っています。

《 なんともないところへ誘い込もうというのが仏法じゃ 》


 「なんともないんじゃつまんない・・」と思うのが普通で

しょうが、それは不安をごまかそうと刺激を求めることに慣

れ切ってしまって、「なんともないこと」を体験していない

だけですね。「なんともないこと」は、ただ退屈なだけだと

思っているだけ。「なんともないこと」を、ちゃんと、深

く、心で味わってみた事が無いのです。常に、アタマで世界

と対応しているから、世界が平静であることに耐えられな

い。アタマは自分が特別だと思いたいですから、「世界がす

べてなんともない」なんて許せないのです。

 でもその結果、「自分は特別だ」と思おうとして、余計な

事をして自分で苦しむ。アタマが悪い。


 だから、アタマが聞きたがらない言葉が役に立ったりする

わけです。

 「ヤだな・・・」と思うということは、その事が自分にと

って大きな意味を持っている証しですね。そのことが、自分

を苦しめている “自分という在り方” を解消する鍵になる。


 「抜けないトゲ」が抜けないのは、トゲのせいではなく

て、そのトゲが刺さっているアタマ(エゴ・思考)がカチカ

チだからです。

 自分(エゴ)を守ろうと、あまりにも防御を固め過ぎてい

るからです。極端に言えば、そもそも自分が無ければトゲの

刺さりようが無いわけですから。


 「明日死ぬかもしれないよ」とか、「自分なんて思い込み

だよ」なんて言われて、不安になったり不愉快になったりす

るのは、防御を固め過ぎているからですね。だって、わたし

たちは本当に「明日死ぬかもしれない」し、自分でも自分の

事が分かっているわけじゃないですから。


 「なんでもないこと」が「すばらしいこと」だと思えるな

ら、それは “特別” じゃないでしょうか?

 私は、「なんでもないこと」の広大無辺さを知る方がいい

と思っていますけどね。




2019年2月18日月曜日

「神秘」は無い



 前回、「私は『神秘主義』らしい」と書いた。

 『神秘主義的合一』と呼ばれる “世界との一体感” らしい

ものを感じたことがあって、それに最高の価値を見い出して

いるという意味のことを書いた。

 「神秘的」という言葉は、わりあいよく使われる言葉だけ

れど、そんなもの誰も深く考えて使ってはいない。「神秘」

とはなんぞや?


 【神秘】 人知では知り得ない不思議。神によって秘めら

れたもの。


 ホントに知り得ないの?

 ホントに秘められてるの?

 もともと無いものを「有る」と思ってるだけかもしれない

よ?

 見えているのに見ていないだけのことかもしれないよ?

 神は隠し事をするの? 何の為に?


 ホントは「神秘」なんて無いでしょ。

 人間は恐がりで、疑り深いだけでしょうよ。ひとりで勝手

に「何かある・・・・」と思ってるだけ。隠し事をするのは

人間だけ。


 《遍界不曾蔵》(へんかいかつてかくさず)  「この世

界は何も隠していない」。これは道元禅師が教えを乞うた阿

育王山寺(いくおうさんじ)の典座(禅寺の料理係)和尚の

言葉。

 《晴天白日誤人多》(せいてんはくじつひとをあやまるこ

と多し》  「何もかも大っぴらになっていると、人はかえ

って何かあるんじゃないかと疑って、愚かなことをする」と

いった意味。こちらは大智禅師の偈頌(げじゅ)にある言

葉。


 世界は何も隠していない。

 見えないものがあるとしても、それは「今ここからは見え

ない」だけ。なんでも見えていて欲しいなんて欲張るんもん

じゃない。それは不安が立ち上げてくる「管理主義」だ。

 人として見える必要があるものは全部見える。

 人として聞こえる必要があるものは全部聞こえる。

 臭い、味、感触、どれもそう。

 障害がある人には感じ取れないものもあるけれど、その人

に必要なものは全部感じられる。

 人それぞれ、その人の境遇によって、その “感じ取れる全

部” は違う。人それぞれの命の在り方は違うのだから当然

だ。人生は一律ではない。

 それぞれが、それぞれに見えているそれぞれの世界に生き

る。それで全部なんだからしょうがない。


 自分がいる場所に、同時に別のものが存在することはでき

ない。

 生まれてから死ぬまで、自分が見て聞いて感じる世界は、

自分だけが感じられる世界だ。世界が始まってから終わるま

  始まりと終わりがあるかどうかはしらないが  の間

で自分だけに与えられた特権だ。


 とんでもない苦しい思いをするかもしれない。理不尽なこ

との連続かもしれない。とても容認できない日々かもしれな

い。けれど、それがその人の世界であり、全部だ。

 意味を離れ、価値を取り下げ、過去を手放し、未来を来る

に任せ、自分が見ている自分の世界に自分を投げ入れて、自

分も世界の一部になってしまうなら、世界を自分にしてしま

うなら・・・。


 自分が有るから、世界からの働きかけが悩み苦しみにな

る。

 自分が世界になってしまえば、働きかけられる自分が消え

れば、いったい “何” が悩む? “何” が苦しむ?



 なるほど、私は神秘主義だわ。

 でも、「神秘」なんて無いんだね。

 『神秘主義』なんていうのは、一神教との関わりから生ま

れた言葉や概念であって、本当は『真現実主義』とか、『観

現実主義』とでも呼ぶべきだろうね。

 でも、「主義」と呼ぶのはそもそもおかしい。

 「主義」じゃないからね。

 「だって、それが本当だから」というのが当事者の感覚だ

から。


 世間は「こっちが現実で、アイツらは妄想の世界に住んで

る」と言うだろうし、こっちは「世間は幻想を現実だと信じ

込んで追いかけている」と確信してる。

 どっちが正しいか知らない。

 自分が本当に、心の底からしあわせだと感じて、笑ってい

られてるんならどっちでもいいんじゃない。それぞれの世界

だ。

 でも、ホントに現実が、世界が見えてる?


 《 縁無き衆生は度し難し 》


 世界が違えば、仏陀でも救う事ができない。

 おあいにくさま。

 (って、「私は救われてんのか」という話だけど、そうい

うことにしてあるので、それでOK!)




2019年2月17日日曜日

信仰の果ての果て・・・



 昨日、ウィキペディアでマイスター・エックハルトの項を

読んでいたんだけど、エックハルトの思想の解説を読んでい

る内に『歎異抄』を読んでいる気分になった。


 マイスター・エックハルトはキリスト教の神学者だけれ

ど、その言説は完全に神秘主義で、晩年にキリスト教会か

ら “異端” とされた人です。「言ってる事が『歎異抄』な

ら、そりゃあキリスト教では “異端” だわなぁ」と思いなが

らウィキペディアを読み進めていると、「私の言っている事

もどうやら神秘主義らしい」と分かって来た。


 私のやって来た事は、いろんな宗教や思想のつまみ食いだ

し、自分では自分の考えがどういうカテゴリーに属するのか

なんてどうでもいいのだけれど、世の中のカテゴリーでは神

秘主義に属するようだ。まぁ、世の中と言っても、一般社会

の中に『神秘主義』などというものは受け入れられていない

ので、「 “ある世の中” の中では私は神秘主義だろうな」と

いうことだけども。


 なぜ、「いろんな宗教や思想のつまみ食い」が『神秘主

義』になるのかと考えるに、どんな宗教や思想も行き着くと

ころは『神秘主義』なんだろうなと思う。

 「信仰を突き詰めて、信仰を突き抜けると神秘主義に至

る」ということになるんだろう。


 この「信仰」には、哲学や科学なんかも含まれる。

 哲学であれ科学であれ、「この思考・思惟が、自分に良い

ものをもたらすか、良い場所へ導いてくれるはずだ」とい

う、合理的な根拠のない信頼がなければ続けられない。よう

するに「信仰」の一形態だと言える。

 「科学が正しい事は、科学で証明されている」とか、

「“哲学的に正しい事” は、哲学的に正しい」なんて言った

ら、バカですからね  「哲学の正しさは、科学で証明され

ている」なんて言ったら、もっとバカだし・・。


 いろんな人がそれぞれに拠って立つ所でいろんなことを考

えて、「最終回答」を求めて考えに考えて、行き詰まって、

それでも考えようとして、遂に破綻する・・。

 放棄する、諦める、絶望する・・・。自分の無力、「思

考」の無力を認めざるを得なくなって、アタマで考えていた

「信仰(根拠のない信頼)」さえ砕かれる。「信仰」を突き

抜ける。その時、何も無くなった自分の意識が、実は「《無

いもの》で満たされている」ことに気付く(《無いもの》と

は、「意味を持っていないもの」ということ)。


 それは「神性」だとか「仏」だとか「タオ」だとか「ブラ

フマン」だとか、それぞれの立場で違う呼ばれ方をするけれ

ど、“思考によって意味付けできない《在るもの》” を指し

ている。


 こんな言葉はどうだろう。


 《 信仰は、信仰を超えることを要請している 》


 「言葉」も「思考」も、存在するものを(不完全に)指し

示すことが出来るだけで、「そのもの」ではない。しかし、

その指し示すところへ進んで行けば、いつか、存在するもの

を「体験・体感」する時が来るかもしれない(来ないかもし

れない・・)。


 私は三十年以上も前に、偶然それを「体感」した。

 こうして面倒なことを考え続けているのは、あの「体験」

をもう一度したいから、できるならあの「体験」の中に生き

たいから。いや、もうすでにその中に生きている事をできる

だけ感じていたいから・・・。


 《 究極の欲望は、欲望を超えることで達成される 》


 経験した《至福》を、忘れることはできないね。



2019年2月15日金曜日

社会の行う「虐待」



 千葉で、小学四年生の女の子が虐待されて死んでしまった

事件は、まだ報道が続いている。社会が変わる一つのキッカ

ケとなりそうだけれど、変わるのは表面的な事だけだろう

な。


 どんな出来事であれ、その本質にアプローチせずに対処療

法に力を入れるだけでは本当の解決は無い。どうせ「どう管

理するか?」ということしか考えていないだろう。

 こんな名言があった。《オオカミに道理を説くのは良い。

だが、飢えたままにしておいてはいけない》


 今回の事件を起こした父親は、なぜ子供を虐待したのか? 

言葉を変えれば、なぜ子供の存在を否定しようとしたの

か? 

子供の存在を否定することで、何を守ろうとしたのか?


 人が攻撃的になるのは、自身の何かを侵害されると感じ

て、それを守ろうとする時です。いったい、十歳の、それも

我が子である女の子に「侵害」されると感じるような “何” 

に、自分の存在意義を持たせていたのか? そこを見据え

て、広く社会に知らしめなければ、子供の虐待は減らせない

でしょう。管理を強めることで、虐待の数を減らせたとして

も、その抑圧された “負のエネルギー” は、違う形で社会に

噴出して来ることだろう。“オオカミを飢えたまま” にして

おいてはいけない。


 その “飢え” がいったい何なのかは知らない。ケースバイ

ケースでさまざまな個別の事情があるだろう。

 「経済的」に飢えているのか、「愛情」に飢えているの

か、「社会的評価」に飢えているのか、いろいろなケースが

あるだろうが、“飢えたオオカミ” は、その「飢え」をしの

ごうと弱い者に噛みつく。

 具体的な個別の問題を抱えているとしても、どの「飢え」

も結局は “自己肯定感” が決定的に足りないのだろうと思

う。たぶん、強く自分を否定されながら生きて来たのだろ

う。その「飢え」(欠損)を埋める為に、他者を支配するこ

とで “自己肯定感” を持とうとする。その手法が「暴力」で

あり、その対象が子供に象徴される「弱者」なので、世間は

嫌悪し激高する。

 世間が嫌悪し激高するのは当然だ。私も気分が悪い。けれ

ど、その “自己肯定感” の「飢え」を埋めようとする手法が

「経済」だったらどうか?


 我が子を虐待したりはしない。けれど、「経済的成功」の

為に自らの才覚でのし上がり、その過程で多くの人から搾取

するという「経済的暴力」は、この社会ではほとんど不問に

処される。

 搾取しなければ「経済的成功」は有り得ない。その搾取の

過程で、苦しめられる者の中には当然 “子供” もいる。貧困

にあえぐ子供がいる一方で、「儲かった!儲かった!」と大

口開けて笑っている者がいる。それは “社会の行う「虐

待」” ではないだろうか?


 話をすり替えるつもりは無い。

 私は “社会の行う「虐待」” が、巡り巡って子供に象徴さ

れる「弱者」に及んでいるのだと思っているだけだ。その可

能性は、誰も否定できないだろう。


 社会は、一見「暴力」に見えない “暴力” は容認する。そ

れをもてはやしたりさえする。

 社会は、社会を動かしていく為の手法として、「暴力」も

必要としている。


 ところが、誰もがそれにどっぷりと浸かっているので、そ

れが「暴力」であることに気付けない。気付けないまま「暴

力」を受け、傷付く。傷付きたくない者は、その力(暴力)

を自分より弱い立場の者へとスルーし、最終的に、逃げ場の

ない者(子供たちのようなね・・・)が、それ(暴力)にさ

らされることになる。「身体的暴力」だけではなく、さまざ

まなやり方で・・・。


 社会が「虐待」を生み、それを制御しようと「管理」し、

その「管理」の息苦しさが、(見えない所で)さらに「虐

待」を生むという悪循環になるのではないかと本気で心配し

ている。


 この社会では、“自己肯定感” を得る為に他者を否定す

る。

 物心付いた時から、比較することに馴らされ、「自分が優

位である時にだけ自己肯定してよい」という意識を叩きこま

れるので、「自分が落ち着く為には他者を否定するしかな

い」と無意識に思い込んでいる。それ以外に “自己肯定” の

仕方を知らない。

 そんな “自己肯定” の為の、「強者から弱者への “否定” 

のドミノ倒し」の最後に立っている者はどうなるのか?

 心を病んでしまう。

 虐待されて死んでしまう。

 いじめられて自殺する。

 社会に対して反抗に出る。「殺すのは誰でもよかっ

た・・・」、だってドミノ倒しがどこから始まったのか知ら

ないんだもの・・・。

 (「犯罪者を許せ」なんて言ってるんじゃないよ。犯罪者

は社会で裁かれ、罪を償わなければばらない)


 比較し、他者  人には限らないが  を否定しなけれ

ば “自己肯定感” を持てない社会を作ってしまったことに目

を向けて、そのバカさ加減を認めない限り、こんな吐き気の

する様な出来事は起り続けるだろう。

 “比べる社会” は、必然的に「弱者」を生む。「弱者」を

生んでおいて、「弱者」を守れとか言う。それで何か良い事

をしているつもりでいる・・・。ちょっとは本気で考えろ

よ。次は自分が「弱者」の側に回るかも知れないんだから。


 「弱者」って、弱いんだぜ・・・。





2019年2月14日木曜日

「死」から生まれて来た


 「死」という言葉ほど、わたしたちにネガティブなイメー

ジを持たせる言葉はないだろう。わたしたちが最も忌み嫌う

事を表わしているのだから。

 わたしたちが死ぬと、死の世界に入る訳だけれども、そこ

はわたしたちが生まれる前に居たところでもある。わたした

ちは「死」から生まれて来た。


 こういう表現に違和感を覚える人も多いことと思う。“死

んだら「死」” 、というのは当然だけども、“「死」から生

まれる” というのは、何やら心穏やかではない感じです。

 けれど、自然界では「死」は次の「生」へと循環してい

る。わたしたち人間も例外ではない。


 当然だけど、この地球上のすべての生き物は、物質で出来

ている。その身体を作っているのは、海や大地や大気が持っ

ている成分と同じであって、生き物はその成分の循環の中に

組み込まれている。そして、地球の物質の総量に比べて、生

き物の総量は圧倒的に少ない。この地球の上で、生き物が存

在するベースとなっているのは “物質” だということは疑い

ようが無いことです。

 生き物が死ぬと、その身体はいったん生物では無い状態に

戻る。身体の内外で、即、細菌が増殖し始めたりするので、

厳密にはそうとも言い切れないですが、“その個体” として

は、無生物に戻る。

 生き物が生まれる時は、親の身体に取り込まれた物質が卵

細胞として再構成され、そこから新たな命がスタートする

(細菌などはまた違うけれども)。死んでから存在する所

と、生まれる前に存在する所は同じです。その世界は「生」

ではない世界ですから、つまり「死」の世界です。わたした

ちは「死」から生まれて、「死」へと戻って行く。


 「死」なんて言葉を使わずに、「あの世」とか言えばもう

少し当たり障りが良いのかもしれませんが、「あの世」では

ちょっと宗教臭いというかオカルトっぽいので、使いたくな

いという気分があります。

 今回「死」と何度も書いているのは、「死」という言葉の

イメージを変えてもいいんじゃないかと思ったからです。

 「死」=「おわり」ではなくて、「死」=「生の母体」と

いったイメージに捉えてみたいんです。



 わたしたちは生きているので、どうしても「生」の側から

「死」を捉える。

 「死」が何か分からないし、「生」がいまの自分の在り方

で、常に生きようとする衝動に突き動かされているので、

「死」に対して否定的な思いを抱かざるを得ない。

 けれど、先ほど書いたように、この世界は「死」がベース

になっている。「生」は、「死」から生み出される存在の

り方の一つの形式です。

 わたしたちは、「死」を、わたしたちより大きく、わたし

たちを包括するものとして捉え直した方が良いのだと思う。

どんなに否定しても、どうせ必ず死ぬしね。


 「生」は、「死」から生み出される。

 わたしたちが “自分” や “自分の大事な◯◯” という個体

にこだわらなければ、恐ろしいものではない。逆に、「死」

は “「生」へのモーメント” に満ちた、限りなく豊かな世界

と捉えることが出来る(「だったら死んでみろ」なんて、せ

かさないでね)。


 老子が語った〈タオ〉とは、「死」のことだともいえるで

しょう。

 〈タオ〉というのは、「生」さえ懐に入れた、「死」とい

う “世界の働きの根源” のことだと。


 「死」は冷たく停止しているのではない。

 「死」は、動き続け、変わり続ける。

 「生」よりも高次の存在。

 「生の母体」であり、《命》の総体。

 わたしたちはそこから生まれて、そこへ帰る。


 自爆テロをするような「死を怖れない」という意味じゃな

く、普通に生きて普通に死ぬ暮らしの中で、「死は『生の母

体』」と捉えて「死」を怖れなくなれば、人は穏やかに生き

られるはずです。なぜなら、「死」がわたしたちの不安の

源であり、不安がわたしたちの愚行の根源だからです。


 「死」は「生」の破壊ではない。

 「生」は「死」から作られる。

 わたしたちは「死」から生まれて来た。

 ほんとうは、「死」は温かい(ような気がする・・)。

2019年2月11日月曜日

「自分らしさ」は自分じゃないでしょう


 昨日、テレビを点けたら『みうらじゅん最後の講義』とい

う番組をやっていた。

 テーマはまぁ “自分らしさ” ということだったけど、「自

分って、無い」という話で、面白かった。


 現代では、誰でも “自分らしさ”ということを考えてしま

うことがあるだろうけれど、「らしさ」とか「らしい」とい

う言葉は「そう見える」という意味です。

 「あの鳥は、ウグイスらしい・・・」という時は、ウグイ

スだと確定していないわけです。「ウグイスっぽい・・」と

いうことですね。

 ならば「自分らしい」というのは、「自分っぽい・・」と

いうことです。「自分のように見える・・」ということで

す。「自分らしい」というのは、その言葉を使う側のイメー

ジに反して、自分が確定できていないことです。


 人が「自分らしさ」を求めたり、「自分らしさ」を感じた

りしている時は自分の在り方に確証が持てない時なんです

ね。


 人は何かに夢中になったり、必死になったりしている時に

は、「自分らしさ」なんてことは考えもしません。そんなこ

とどうでもいいわけです。だって、そこには “自分” が在

る。

 その存在をどう定義すればいいのかは知らないけれど、何

かをしている “自分” がいる。

 本来の “自分” には、意味が無い。「意味の世界」に存在

しているもんじゃない。「自分」というのは、社会の中での

その時の「役割」であって、“自分” に属するものじゃな

い。

 「自分」というものは、社会の方にあるのであって、“自

分” には「自分」が無い。



 “自分” には「自分」が無いので、何かに夢中になったり

していなくて、自分のことを考える暇が出来ると、その捉え

どころの無さに不安を感じてしまう。だって、無いんだか

ら・・・。

 そして不安のあまり、「自分探し」なんかを始めたり、

「自分らしさ」を装ったりし始めてしまう。「自分」という

ストーリーをでっち上げ始める。


 でも、その「自分」はでっち上げです。でっち上げという

言い方がきつければ、その場しのぎです。そのウソはほどな

くして自分にバレ、再び不安がやって来て、また次の「自分

探し」や「自分らしさ」を取り繕う努力が始まります。

 終りはありませんね。「無いものを有ることにする」努力

なんて。

 それにしても、「自分」が無いのなら、“これ” はいった

い何だ?


 “これ” がいったい何か分からなくて不安になるのだか

ら、こんなことを言いだしたら堂々巡りですね。あるいは

「思考停止」ということになるでしょうが、その「思考停

止」が尊いと思うんですね。


 「思考停止」したって、 “これ” は在る。

 「自分」だかなんだかしらないけれど、“これ” は在る。

在るんだからそれでいいじゃないかという立場が尊いと思う

んです。何かに夢中になってる時はそうです。”これ” が何

かなんて考えずに生きてる。だから人は夢中になれるモノを

求める。

 ただねえ、その夢中になれるモノが、社会的評価の対象で

ある場合が多いので、結局、その活動が途切れたときには、

すぐに「自分が無い」ことの不安に取り囲まれる。そして、

その状況から逃れる為にあわてて活動に戻ることになる。依

存症ですね。やっぱりその場しのぎなんです。


 私が尊いと思うのは、「自分」というものに対して「思考

停止」したまま生きることです。「自分が無いまま」に生き

る。

 「自分」から解放されると、“自分” を生きられるように

なるんですよ。そこが尊い。そこがしあわせ。


 わたしたちが「オギャア」と生まれた時に、そこには「取

説」も「仕様書」も「値札」も付いてきません。「意味」以

前の “存在” としてこの世に現れて来ます。それがわたした

ちの本質でしょ? そうとしか言えないですよね?

 それから、わたしたちは意味付けされ、意味を教え込ま

れ、「意味の世界」に放り込まれ、意味で構築された仮構の

世界に住むことになる。

 それは人類が言葉を持った時からの事でしょうし、人はそ

うして生きざるを得ませんが、今や「意味の世界」は常軌を

逸した念の入りようで、人は本来の在り方から遠く隔てられ

て、あまりにも手の込んだ幻想を生きている。命は幻想に浪

費され、使い果たされて終りを迎える・・・。

 それが「生きる」ということなら、あまりにもバカバカし

いと思うのだけれど、やはりそれも「生きる」ということな

んでしょう。私は嫌だけどね。


 エゴという、“「自分」というストーリー” を仮定せざるを

ないものが、わたしたちを根無し草のような存在にしてし

う。


 ネナシカズラという植物がありますが、ネナシカズラは文

字通り根を持たず、他の植物に絡みついてその栄養を吸収し

ながら生きて行くのですが、わたしたちのエゴもそのような

ものかもしれない。

 自分の基盤を持たず(持てず)、世の中というストーリー

にしがみ付き、他者に絡みついて互いに幻想という栄養を吸

収しながら生きて行く。けれどそれは大地から離れた存在の

まま・・・。


 そうやって人は「自分は、自分は」と言いながら生きて行

くけれど、それでしあわせに生きているのかと言えば、そう

でもなさそうです。



 バーノン・ハワードというアメリカの光明思想家がいま

す。その人の『スーパーマインド』(日本教文社)という本

の中に、彼の講演会での質疑応答のひとつでこんなやりとり

があります。


  わたしは既に一生を貫く信念をもっています。

     正直にいって、今振り返ってそれがあなたに何を

     してくれましたか?


 というものですが、これを読んだ時、私は「信念」という

言葉を「自分」に置き換えたのです。


     正直にいって、今振り返って「自分」が自分に

     何をしてくれましたか?


 「自分」というものにこだわり、「自分」を守ろうと必死

になり、人を押しのけても「自分」を通して行こうとす

る・・・。

 そこに生まれて来るのはゴタゴタばかり・・・。

 「自分」が自分にしてくれたことで、良かったと思える事

も、後から思えばその時だけの事だった・・・。

 今振り返っても良かったと思える事は、「自分」が留守の

時に起こった気がする・・・。


     正直にいって、今振り返って「自分」があなたに

     何をしてくれましたか?


 「自分」がすることは、要求ばっかりです。




2019年2月10日日曜日

ホントに、「子供は大事」だと思ってるのか?


 そのことを知った人に、やりきれない思いを抱かせな

がら子供が死ぬ。


 殺されたり、自殺したり。いったいそれは何なんだろう

か?

 なぜそうなるのだろうか?
 

 生まれて来た限り、人は必ず死ぬ。

 いくつで死んだら OKで、いくつで死んだら NGだという

ものではないだろうけど、子供が死ぬのは、まして自殺した

り殺されたりするのはやりきれないね。やっぱり何かおかし

いね。
 

 私が今こうして生きているということは、子供の頃に死な

なかったということで、それゆえに、子供が死ぬことに理不

尽さを感じるのかも知れない。「そうじゃないだろ」と。


 子供は弱い。

 それゆえに、社会からの圧力が強まると、そのしわ寄せは

子供に対して大きく表れる。あらゆる面で。


 「子供は大事」「子供は宝」なんて公式見解を口にしなが

ら、社会は本当に子供を大事に思っているのか?


 今の社会にとって、子供は “お荷物” だろう。だって、子

供は「生産性が無い」(©杉田水脈)のだから。“子供は将

来社会に役立てる為の道具” か “言う事を聞くペット” のよ

うなものかもしれない。

 満足な教育を受けられなかった貧しい国で、女性がちゃん

とした教育を受けられるようになり、知的水準が上がると、

出生率が下がると聞いた事がある。人はものを考えるように

なると  観念的になると  あまり子供を欲しがらなくな

るのかもしれない。種の生存のためのロジックが変わるのか

もしれないね。


 養老孟司先生が昔から言われているけど、「子供は自然

で、都市化した社会に生きる現代人は、自然を嫌い、子供を

疎ましく思う。コントロールしづらいからだ」と。

 青山の児相関連施設の計画にも反対する人間がいるし、幼

稚園の建設計画が持ち上がれば反対されるし、その嫌がられ

方はゴミ焼却場火葬場に匹敵する(!)。この社会は、ホ

ントに「子供は大事」なのか?


 日本が都市化し、人々のコントロール願望が強まり、「人

生は自分のコントロールし易いものであるべきだ」という意

識が普通になり、インフルエンザも麻疹もノロウイルスも制

御し、アンチエイジングに必死になり、仕事も勉強も遊びも

効率化が第一義で、「人生は人生設計通りに行くものだろ

う」という人間が増えると、そりゃぁ、面倒な子供という存

在は疎まれるだろう。少子化が進んでもしょうがないね。で

も、生まれて来た子が虐待されたり、自殺に追い込まれるの

は酷い話じゃないか。


 「現代日本人は、本当は子供を大事だと思っていないんじ

ゃないんですか?本気で、正直に考えてみて下さい」と、公

に問い掛けてみたらどうだと思うね。問題提起の意味でね。

 そうして、大人がみんな、自分の胸に手を当てて考えてみ

るといい。お為ごかしの公式見解はもういい。


 それで、結果が「いいや。みんな、子供が大事だと本気で

思っている」というのであればそれでいい。その想いは一層

強くなるだろうから。逆に「『子供が大事』なんていうの

は、建前だったような気がする。ホントは自分が邪魔されず

に好きに生きたいのが本音だな」という深層心理が表沙汰に

なれば、それはそれで子供への接し方が意識的で冷静さを持

ったものになるだろうと思うしね・・・。


 この世には、「自分の考えが及ばない事が有るのだ」とい

うことを無視して、「すべてが考えの及ぶ範囲のことである

べきだ」という前提に立って生きようとする人間がとても増

えている。ところが、そう考えている当の本人の身体も感情

も考えも「考えの及ぶ範囲」では収まらない。

 「なぜだ!」「おかしいだろ!」と、自分に対して苛立

ち、他者に対しても苛立ち、その苛立ちが、更に自分たちの

考えの範囲に収まらず、コントロールし難い “子供” に集約

されて行く・・・。それが、今の日本の社会なんじゃない

か・・・。まぁ、今に始まった事でもないだろうけど。


 今の社会は、ある意味で、一度解体してみなきゃいけない

んじゃないんだろうかと思う 。 

 昔っから、社会というものは必要悪だっただろうと思うけ

ど、ちょっと酷過ぎるんじゃない? 今は?


 「社会」という “人間の約束事” に、人間が押し潰される

なんて本末転倒もいいところだよ。

 押し潰すにしても、それは「社会」を作って、それをやっ

ている大人の間でやるべきでしょう。そうしたら「社会」の

不具合が減って少し良くなって行くかもしれないし(さらに

悪くなる可能性も大きいけどね)・・・。



 私の家の前は、小学校の通学路ですよ。

 子供たちは、ほんとにカワイイですよ(中には憎たらしい

のもいるけどね。ご愛嬌だけど)。

 「社会」がおかしな価値感を刷り込まなければ、彼らは今

のわたしたちより、ずっとマトモな人間になれるはずだと思

う。完璧には成れはしないけれどね。
 

 人生は自分の都合に合わせて進んでくれないし、世界は自

分の都合に合わせて動いてくれないけれど。それは、誰か

せいでは無い 。


 その当たり前の事を、もう一度誰もが見据えて、それを受

け入れて、それを肝に銘じたら・・・、子供たちが惨い死に

方をすることは、ずっと少なくなるんじゃないのかなぁ。


 (と、こんな事を書いていても、しばらくしたら私は今回

の事件の事を忘れ、次に同じような事が起るまで思い出さな

いのだろう。それは人が落ち着いて暮らして行くための〈能

力〉の一つだろうから・・・。なんか、嫌なことだけど

ね・・・)



 

2019年2月9日土曜日

女の子を死なせたのは、世の中かもしれない・・・。


 ここのところ連日ニュースで取り上げられている、小学四

年生の女の子が父親に虐待され死んでしまった事件だけど、

まるで児童相談所と教育委員会が殺したとでも言わんばかり

の報道ですね。殺したのは父親ですけどね・・・。・・親に

殺されるなんて本当に可哀相だけどね・・・。


 児相や教育委員会にあからさまな不手際や怠慢があったの

なら、それは確かに問題だと思うけれど、糾弾するなら、そ

のあたりの事をキッチリ確かめてからにすべきだと思うんだ

けどなぁ。正義ぶりたい人間は多いからねぇ。


 マスコミの扱いなんかを見ていて、私が気になっているの

は、担当していた児相の職員の事なんですね。ああいう仕事

というのは、気の毒な立場にある親子や、問題のある親など

と直接関わらなければならない。人間の闇や、社会の暗部を

目の当たりにする仕事であって、けっしてお気楽に、いい加

減に続けて行けるものではないでしょう。現場の人たちは一

所懸命だと思いますよ。きっと。

 「不手際があった」「判断を誤った」「能力不足だっ

た」・・・。いずれにせよ、今回女の子が亡くなった事で一

番ショックを受けているのは、担当した児相の職員じゃない

のかなぁ。

 「自分たちは失敗した・・・・・・」と。

 「最悪の結果を招いてしまった・・・」と。


 児相の対応の詳細を、十分に確かめも出来ていない段階に

も関わらず、あのような「まず批判ありき」といったムード

を作るのは、見ていて気分が悪い。

 もしそれで、担当していた職員が自殺でもしたら、マスコ

ミや公に批判する人間がしていることは、あの父親が娘にし

たことに類するものではないか?

 亡くなった女の子は本当に可哀相だ。そんな目に会うため

に生まれて来たのか?なんでそんな運命なんだ?ほんとに可

哀相で涙が出る・・。

 だからといって、「児相の仕事が完璧じゃなかった」とい

う理由で、まるで人殺しの様に責めようとするのは違うだろ

う。

 さらに気にかかるのは、その児相の職員にも家族があると

いうこと。小中学生の子供を持つ人も当然あるだろう。この

報道をきっかけに、その子供たちがイジメに会わないとも限

らない。もしそうなったら、マスコミの罪は大きい。本当

に、慎重に扱わねばならない問題なのに・・・。


 ひとつの本当に不幸なケースが生じてしまった。

 けれど、これまでに、そこに至ろうとする問題を数十倍の

数、収めてきたかもしれないではないか。いや、そうだった

ろう。

 大変な努力をして、酷い事が起らないように・起らないよ

うにして来ても、その実績は評価されない。地味で目立たな

いから・・・。しかし、失敗は目立つ。その一つの失敗(痛

すぎる失敗だけど・・・)だけを取り上げて吊し上げる人間

は、これまでよほど完璧な人生を歩んで来たのだろうね。


 もしかして、今回の児相の仕事が本当にずさんだったのか

もしれない。けれどそれは、そのことがハッキリしてから問

題にすればいい。


 今度の事件で怒っている人間たちを見ていると、殺した父

親よりも、児相や教育委員会に怒りを向けているようだ。

 彼らの怒りの深層には、殺された女の子を思っての悲しみ

ではなく、「ちゃんと世の中をコントロールしろよ!」とい

う “安心安全原理主義” が隠れているのではないか?


 「社会が、社会をきっちりコントロールして、わたしたち

が不安なく生きられるようにしろよ!その為に税金払ってん

からな!」と。

 そのためには、「よその家庭だろうがズカズカと入り込ん

で、頭のおかしい親なんか力ずくでねじ伏せて、何を仕出か

すか分からない人間は完璧に制御しろ!」と。

 そして自分はテレビのバラエティー番組でも見て笑って

る。そして、自分の子供に、深く考えもせずに「勉強し

ろ!」などと言っているかもしれない。


 あの子を直接殺したのは父親だ。けっして許されない。

 でも、その父親を許しがたい暴力に向かわせたのは、もし

かしたら現代の日本の、「人間のあらゆる行動までコントロ

ールしようとする働き」がもたらす、圧力だったかもしれな

いではないか。

 当事者を弾劾して済ませられる話ではないと、私は思って

いる。


 恐かったろうね・・・。
 
 苦しかったろうね・・・。

 痛かったろうね・・・・。

 私にも一千万分の一ぐらいの責任があるような気がする。

ンね。

 人間は、ほんとうに出来損ないだよ・・・・。

 
 
 

2019年2月6日水曜日

寝てなさい!


 さっき、廊下の柱に足の小指をぶつけてヘタりこんでいた

のだが、せっかく痛い思いをしたのだから、これをネタにブ

ログを一本書いてやろうと思った。転んでもタダでは起きな

いのだ。

 しかし、転んだらそのまま寝ているという手もあるだろ

う。起きるのはエネルギーが要る。『三年寝太郎』の話もあ

るではないか。

 《 世の中に 寝るほど楽はなかりけり 浮世の馬鹿は起

きて働く 》

 すばらしい!

 そうありたいものです。


 今の世の中を眺めると、「みんな、もっと寝てなさい!」

と思う。動き過ぎですよ。

 動き回って何をしてるかといえば、ただの暇つぶしです。


 『起きて働く「浮世の馬鹿」』が、どう馬鹿なのかという

と、単にほんとうの “楽” を知らないというだけにとどまら

ず、資源を怖ろしいほどムダ使いして、ゴミの山を作って、

競争し合って否定し合っている。ちょっと寝てなさいよ!寝

なさいよ!


 やり過ぎ。大袈裟。自己満足。誇大妄想。

 一週間ほど前に「人工流れ星」のニュースを見たけど、

「バチ当たり」としか思わなかった。(何のバチが当たるの

かは知らないけど、必ずバチが当たるだろう。その方が私的

に楽しい!)


 誰も彼もが、寝る間も惜しんで働いたり遊んだりしてい

る。

 《浮世の馬鹿は起きて働く》の「働く」という言葉は、仕

事だけを指しているのではなくて、現代では遊びも含まれて

いると思う。なぜなら、遊ぶことまでが “自己実現” や “社

会的評価” の為だと見えるからだ。

 「遊ぶ」というのは、自分が「楽しい」からのはずだが、

スポーツをしたりバンドをやったりダンスをしたりインスタ

をやったりなどというのは、多分に人の目を意識している。

「遊び」としては不純で、ある意味「仕事」だろう。

 さっき「自己満足」と書いたけれど、「自己満足」という

のは “自分で満足している” という個人としての充足感では

なくて、“他人の評価を得られると思い込んで満足している”

という意味合いです。現代は(昔もある程度はそうだったろ

うが)「自己満足」さえ、他人経由です。


 寝てなさいよ。

 寝ていようよ。もう少し。
 

 この前もブログで書いたと思うけれど、社会というのは、

人間に動いてもらわなければ困るのです。だから、人間が生

まれてくると、徹底的に目的志向を刷り込んで、「動かない

と不安を感じる」様にしてしまう。『行動病』とでも呼べる

ような状態にしてしまう。遊んでるつもりが、世の中の食い

物にされてるだけだったりする。


 『三年寝太郎』という昔ばなしが存在するというのは、人

が昔から『行動病』であって、その事を揶揄する気持ちもあ

ったという事を物語っている。今も昔も人間は変わらない。

相変わらずなんでしょう。(『三年寝太郎』は、「やったら

出来る!凄い!」みたいなオチがあったりして、やらしかっ

たりもするんだけど・・・)

 とはいえ、現代の “やり過ぎ” はとてつもなく「やり過

ぎ」ですよ。

 環境問題だけを言っているのではなくて、鬱病やらパニッ

ク障害やらがよくある事になっているのは、「動かなけれ

ば・・・」という社会のプレッシャーが怖ろしく大きくなっ

ているからだと思うね。


 ・・・十時半か・・・。もう、ブログなんか止めて、風呂

に入って寝よう。


 このブログも「自己満足」で「誇大妄想」で「やり過ぎ」

で「大袈裟」なのかもしれない。『語るに落ちる』という見

本なのかも知れない。でも、「足の小指をぶつけて」こんな

ことやってるんだから、やっぱり「遊び」なんでしょうよ。


 ・・・寝よう。

 おやすみなさい。