2019年2月11日月曜日

「自分らしさ」は自分じゃないでしょう


 昨日、テレビを点けたら『みうらじゅん最後の講義』とい

う番組をやっていた。

 テーマはまぁ “自分らしさ” ということだったけど、「自

分って、無い」という話で、面白かった。


 現代では、誰でも “自分らしさ”ということを考えてしま

うことがあるだろうけれど、「らしさ」とか「らしい」とい

う言葉は「そう見える」という意味です。

 「あの鳥は、ウグイスらしい・・・」という時は、ウグイ

スだと確定していないわけです。「ウグイスっぽい・・」と

いうことですね。

 ならば「自分らしい」というのは、「自分っぽい・・」と

いうことです。「自分のように見える・・」ということで

す。「自分らしい」というのは、その言葉を使う側のイメー

ジに反して、自分が確定できていないことです。


 人が「自分らしさ」を求めたり、「自分らしさ」を感じた

りしている時は自分の在り方に確証が持てない時なんです

ね。


 人は何かに夢中になったり、必死になったりしている時に

は、「自分らしさ」なんてことは考えもしません。そんなこ

とどうでもいいわけです。だって、そこには “自分” が在

る。

 その存在をどう定義すればいいのかは知らないけれど、何

かをしている “自分” がいる。

 本来の “自分” には、意味が無い。「意味の世界」に存在

しているもんじゃない。「自分」というのは、社会の中での

その時の「役割」であって、“自分” に属するものじゃな

い。

 「自分」というものは、社会の方にあるのであって、“自

分” には「自分」が無い。



 “自分” には「自分」が無いので、何かに夢中になったり

していなくて、自分のことを考える暇が出来ると、その捉え

どころの無さに不安を感じてしまう。だって、無いんだか

ら・・・。

 そして不安のあまり、「自分探し」なんかを始めたり、

「自分らしさ」を装ったりし始めてしまう。「自分」という

ストーリーをでっち上げ始める。


 でも、その「自分」はでっち上げです。でっち上げという

言い方がきつければ、その場しのぎです。そのウソはほどな

くして自分にバレ、再び不安がやって来て、また次の「自分

探し」や「自分らしさ」を取り繕う努力が始まります。

 終りはありませんね。「無いものを有ることにする」努力

なんて。

 それにしても、「自分」が無いのなら、“これ” はいった

い何だ?


 “これ” がいったい何か分からなくて不安になるのだか

ら、こんなことを言いだしたら堂々巡りですね。あるいは

「思考停止」ということになるでしょうが、その「思考停

止」が尊いと思うんですね。


 「思考停止」したって、 “これ” は在る。

 「自分」だかなんだかしらないけれど、“これ” は在る。

在るんだからそれでいいじゃないかという立場が尊いと思う

んです。何かに夢中になってる時はそうです。”これ” が何

かなんて考えずに生きてる。だから人は夢中になれるモノを

求める。

 ただねえ、その夢中になれるモノが、社会的評価の対象で

ある場合が多いので、結局、その活動が途切れたときには、

すぐに「自分が無い」ことの不安に取り囲まれる。そして、

その状況から逃れる為にあわてて活動に戻ることになる。依

存症ですね。やっぱりその場しのぎなんです。


 私が尊いと思うのは、「自分」というものに対して「思考

停止」したまま生きることです。「自分が無いまま」に生き

る。

 「自分」から解放されると、“自分” を生きられるように

なるんですよ。そこが尊い。そこがしあわせ。


 わたしたちが「オギャア」と生まれた時に、そこには「取

説」も「仕様書」も「値札」も付いてきません。「意味」以

前の “存在” としてこの世に現れて来ます。それがわたした

ちの本質でしょ? そうとしか言えないですよね?

 それから、わたしたちは意味付けされ、意味を教え込ま

れ、「意味の世界」に放り込まれ、意味で構築された仮構の

世界に住むことになる。

 それは人類が言葉を持った時からの事でしょうし、人はそ

うして生きざるを得ませんが、今や「意味の世界」は常軌を

逸した念の入りようで、人は本来の在り方から遠く隔てられ

て、あまりにも手の込んだ幻想を生きている。命は幻想に浪

費され、使い果たされて終りを迎える・・・。

 それが「生きる」ということなら、あまりにもバカバカし

いと思うのだけれど、やはりそれも「生きる」ということな

んでしょう。私は嫌だけどね。


 エゴという、“「自分」というストーリー” を仮定せざるを

ないものが、わたしたちを根無し草のような存在にしてし

う。


 ネナシカズラという植物がありますが、ネナシカズラは文

字通り根を持たず、他の植物に絡みついてその栄養を吸収し

ながら生きて行くのですが、わたしたちのエゴもそのような

ものかもしれない。

 自分の基盤を持たず(持てず)、世の中というストーリー

にしがみ付き、他者に絡みついて互いに幻想という栄養を吸

収しながら生きて行く。けれどそれは大地から離れた存在の

まま・・・。


 そうやって人は「自分は、自分は」と言いながら生きて行

くけれど、それでしあわせに生きているのかと言えば、そう

でもなさそうです。



 バーノン・ハワードというアメリカの光明思想家がいま

す。その人の『スーパーマインド』(日本教文社)という本

の中に、彼の講演会での質疑応答のひとつでこんなやりとり

があります。


  わたしは既に一生を貫く信念をもっています。

     正直にいって、今振り返ってそれがあなたに何を

     してくれましたか?


 というものですが、これを読んだ時、私は「信念」という

言葉を「自分」に置き換えたのです。


     正直にいって、今振り返って「自分」が自分に

     何をしてくれましたか?


 「自分」というものにこだわり、「自分」を守ろうと必死

になり、人を押しのけても「自分」を通して行こうとす

る・・・。

 そこに生まれて来るのはゴタゴタばかり・・・。

 「自分」が自分にしてくれたことで、良かったと思える事

も、後から思えばその時だけの事だった・・・。

 今振り返っても良かったと思える事は、「自分」が留守の

時に起こった気がする・・・。


     正直にいって、今振り返って「自分」があなたに

     何をしてくれましたか?


 「自分」がすることは、要求ばっかりです。




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