2019年2月1日金曜日

大事な事が、大事(おおごと)になる。


 アタマは「悪さ」をする。

 ほとんど、「悪さ」しかしないと言ってもいいが、アタマ

のする「悪さ」の中でも一番厄介なのは、物事を「深刻に捉

える」「大袈裟に扱う」ということ。とにかく、なんでもか

んでも、プラスでもマイナスでも、やたらと「盛る」ので

す。

 「話を大きくしよう」

 「話しを重くしよう」

 「話しを派手にしよう」

 というのがアタマの基本姿勢で、完全にビョーキです。


 〈逃がした魚は大きい〉というけれど、釣り人は自分が釣

った魚の大きさを人に話す時、必ず一割程度は大きく言う

(一割ならまだ良心的だ)。ましてや逃がした魚の話をする

時には、実際に掛かっていたよりも倍ぐらいあったと言うだ

ろう。

 何も魚に限った事ではなく、〈逃がした魚は大きい〉とい

うのは、人が話を盛ることの象徴的な慣用句ですね。人は話

を「盛る」。


 人に話をする時だけではない。人は自分の体験、自分の感

覚、自分の苦しみ、自分の喜びなど、自分自身に対しても話

を「盛る」。

 良い事はより良く。悪い事はより悪く。自分に関わる事

は、意味の深い、“大した事” だと思いたくてしょうがない

のが、わたしたちのアタマです。

 自分が関わっている事が重要なら、それに関わっている自

分の存在や能力も重要であるかのように感じられ、自己肯定

感が増すからです。


 なので、自分のした事や、自分の考えを人に伝えた時に、

「そんなの大した事ない」とか、「それがどうした」といっ

た扱いを受けると、非常に不機嫌になります。ほとんど、相

手に対して憎しみを持ちます。あるいは、信じられないくら

いヘコみます。二三日は立ち直れないくらいだったりするの

はザラだろうし、事によると一生のトラウマになる。

 自己肯定感を強めたいが為に、自分が肯定している事の重

要度を高めようという意識が働いて、人はむやみに「盛

る」。しかし、それが裏目に出て、否定されたときの衝撃は

大きくなってしまう。人は「深刻」になってしまう。


 わたしたちが苦しむのは、「深刻」に考えてしまうからで

す。

 わたしたちの、自己肯定感を得たいという欲求は非常に強

い。強いと言うより、その為に生きていると言ってもいい。

 しかし、わたしたちの自己肯定感は、しょっちゅうグラつ

く。そしてすぐに「深刻さ」が湧いて出て来て、怒る、泣

く、嫉む、恨む、ヘコむ、拗ねるといった “不機嫌モード” 

に入ってしまう。つまり、苦しむ。


 物事を「深刻」に取らなければそんな事にはならないのだ

けれど、自分が大事に思っていることは、当然ながら自分で

大した事ない」とは思えない。そして、それを「大事」だ

と思っているのは自分の事情でしかないので、すぐに否定的

な見解や状況に出くわしてしまう。「大事な事」を持ってい

る限り、人は「深刻」になることを避けられない。


 それにしても、「大事な事」はそれほど「大事」なのだろ

うか?


 「大事な事」というのは、“自分に都合の良いお話” とい

うことでしかありません。

 世界は「自分の都合」の為にあるのではありませんから、

「自分の都合」なんて吹けば飛ぶようなものですし、「自分

の都合」なんて、他の人間からすれば、たいてい邪魔なもの

でしかありません。だって、みんな「自分の都合」が優先で

すからね。


 それにしても、わたしたちはなんだかんだと「大事な事」

を持ち過ぎです。

 「大事な事」がそんなにあるなんて異常です。病気です。


 「そんなにたくさん大事な事なんて持っていない」


 そう思う人も多いかもしれませんが、毎日小さな “イラつ

き” や “ムカつき” を何度も感じながら暮らしているでし

ょ? それらは、誰もが「大事な事」をたくさん持っている

証拠ですよ。わたしたちは、本当に、取るに足り無いつまら

ない事を、「大事」だと思い込んで数え切れないくらい抱え

込んでいます。


 「はい」と返事をするか、「ああ」と返事をするかでケン

カにになったりする。そんな取るに足りないようなことが

「大事」だなんて、わたしたちは「大事」ということそのも

のを疑ってみるべきではないでしょうか?


 ある人にとって「大事な事」も、別の人には大事じゃな

い。

 ある民族にとって「大事な事」も、別の民族にとっては大

事じゃない。

 百年前の「大事な事」が、今ではぜんぜん大事じゃない。

 普遍的な「大事さ」は存在しない。「大事さ」は、その

時々、その場所、その人の都合でしかないものです。人の命

だって、ある状況下では大事じゃない。


 普通の感覚では、「命ほど大事なものはない」というのが

当たり前ですが、人はみんな死にますね。死は避けられな

い。

 いずれは必ず失うものを「大事」だと思っていると、失う

事に対する恐れを持ち続けなければなりません。またそれが

「大事な人」の命だと、失った時の衝撃はとてつもなく大き

い。そんな「命」を大事だと思っている事は、妥当なことで

しょうか?


 このブログの主は、しょっちゅうとんでもないことを言い

出す人ですが、今のはちょっと酷いですね。自分でもちょっ

と躊躇したんですが、“大事な事” なので書いちゃいまし

た。

 「命」は大事なのでしょうか?


 「命」は大事です。

 それは間違いない。当たり前。疑う余地もない。


 け・れ・ど。

 「命」は必ず失われるものです。いつ失われるかも分から

ないものです。自分の都合は関係ありません。

 仮に、あなたやあなたの大事な人が、いつ・どのように死

んだら納得できますか?

 納得できる死に方はあるのでしょうか?

   あるとすれば、それはどのような死に方でしょうか?


 「どうもこうもない。死ぬことはまったく納得できない」

という人もいるかもしれませんが、大抵の人は「百歳越えた

ら、まぁいいんじゃない」といった感覚をもっているんじゃ

ないでしょうか。


  なぜ「大事さ」が薄れるのでしょうか?
 

 「そんなもんだから」ということでしょうね。

 さしものアタマも、「それ以上は盛れない」と思うのでし

ょう。

 ですが、「命」だって状況次第で「まぁ、そんなもんだか

ら」という程度の「大事さ」になってしまうというのは、

「大事さ」というものが、あくまで恣意的なものだというこ

とを決定的に物語っています。「命」でさえそうなのですか

ら、他の「大事さ」の恣意性は推して知るべしです。


 当たり前すぎてわざわざ言うのも変ですが、「大事」とい

うのは “思い込み” でしかありません。

 何かを思い込んで、そのことによって「大袈裟」に言い立

てたり、「深刻」に考え込んだりするのがわたしたちのアタ

マです。言い換えると、わたしたちはアタマの思い込みによ

って右往左往しているだけです。


 わたしたちの抱く「大事さ」というのは、自然の摂理を認

めたくないという “わがままさ” だったり、自分のストーリ

ーの要素にしている事柄に固執することだったりしますが、

いずれにしても妄想です。自分で勝手に妄想して、それが

「現実と違う」と言っては怒ったり泣いたりしています。

「下手の考え休むに似たり」「骨折り損のくたびれ儲け」な

どという言葉が浮かんできますね。人というものは、なんと

“ご苦労さん” なものでしょう。

 世界というものは  人間の世界という小さな意味ではな

くて  、本当は何も「深刻」なものではありませんね。


 日々、数え切れないほどたくさんの生き物が死んで行きま

す。

 地形も、どんどん形を変えて行きます。

 出来事は無限に起り過ぎて、本当は個々の「出来事」とし

て分けることなど出来ません。“物” でさえ、物と物との関

係性の中で変化して、「ある状態」に止まることがないので

す。


 そんな世界の中で、「大事な事」など存在しようがないの

ですが、ただ人間だけが、ただエゴだけが、世界のあちこち

にピンを刺し、「これ、大事!」と言って保存しようとす

る。そして、「保存できない・・」と深刻になる・・・。


 アタマは思い違いをしているのです。

 “「大事」な何か” があるように思っているんです。

 あるのは、分けることなど出来ない、まるごとの

「大            きな、ひとつの世界」だけな

のにね。

 「下手(アタマ)の考え休むに似たり」

 休んでるのなら、まだ上等ですがね。



 (『「深刻」がイケナイ』という話を書こうとしたのに、

どうしても話を「深刻」に持っていけなかった。「あれれ」

と思ったけど、まぁそんなことで深刻になる必要も無い。お

わり。)


 と、ここまで書いたところで、玄関で何やら大きな音がし

たので見に行くと、野良猫が、私の大事な鉢植えをひっくり

返していて、鉢が割れていた。ハラが立った・・・。

 なんだかなぁ・・・・・。アタマが悪いなぁ。








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