2019年2月3日日曜日

本当の自由。


 毎回、好き勝手を書いている。

 仕事でも何でもないので好きな事が書ける。まったく自由

です。けっこう、けっこう。で、今日は〈自由〉についての

お話です。


 普通は、したいことをしたいようにできるのが〈自由〉と

いう事だと考えますね。でもそれは “エゴの自由” というも

のです。言葉を換えれば「勝手」ということで、「エゴの想

いのまま」ということですが、それに対して、自由というも

のにはもうひとつあると私は考える。 “命の自由” というも

のです。

 (この “命” というのは、「生き死に」のことではありま

せん。〈いま存在しているこの自分そのものの在りよう〉と

でもいうもののことです)


 〈自由〉というと、さっきも書いたように、「したいよう

にできる」ということですが、何かを「したい」ということ

は、その「したい事」に囚われているわけですね。自分とい

う存在が、「したい事」に誘導されたり、圧力を受けている

とも言えるわけです。

 囚われ、誘導され、圧力を受けている状態が、果たして

〈自由〉と呼んでいいものでしょうか?


 「したい事ができるんだから、それでいいじゃないか。何

をつまんない理屈を言っているんだ」。そう思われるかも知

れません。いや、そう思われるに違いない。

 でも、そう思う人でも、自分のその「したい事」が何故

「したい」のかは分かっていないはずです。さしあたりの理

由付けはできるでしょうが、すこし詰めて考えると、自分が

それを「したい」理由なんて分からなくなるはずなんです。

人が何かを「したい」のは、自分の意思(意志)ではなく

て、自分の身体と深層心理と環境に動かされてしまっている

からです。そこに “個としての自分” は関わっていません。

 一見、自分の意思で自分の「したい事」をしているように

思えますが、実は状況の道具として動かされているに過ぎま

せん。それぞれの人は、世界の道具立ての一つでしかないの

です。それが “エゴの自由” 。普通に言うところの〈自由〉

です。


 〈自由〉というものがそういうものであり、「まやかし」

だと気付いてしまうと、人は真に自由になりたいと感じるの

ではないでしょうか?

 本当の自由とは。“命の自由” のことです。

 「したい事が無い」というのが、本当の自由です。

 「したい事が無い」ということは、何にも囚われていない

ということだからです。


 「したい事」があればあるほど、本当は自由ではない。

 何かをすることによって自分の存在意味を確かめようとす

る〈エゴ〉にとっては、何でも出来ることは大きな価値であ

り、必要不可欠なことです。でも実際は、状況に動かされて

しまっていることに、エゴにとって都合の良い意味付けをし

ているだけです。

 している事は、「してしまっている事」や「させられてし

まっている事」を、「したい事」だとすり替えているだけで

す。

 本当は「したい事が無い」のが〈自由〉なのです。


 とはいうものの、例えわたしたちがエゴを持たなくても、

状況に動かされて生きているということに変わりはありませ

ん。ですが、完全に状況に任せ、「状況の在るがままに動く

のだ」という理解の下に生きれば、わたしたちは「自分の力

で生きるのだ」とか、「自分の人生は自分で切り開くのだ」

といった欺瞞と徒労から解放されます。そこには〈自由〉と

呼ぶにふさわしい「軽やかさ」が生まれます。


 「したい事が無い」という人は、けっこうな割合でいま

す。

 「したい事が無い」ということを悩んでいたりもします。

 でも、「人にはしたい事があるはずだ」というのは、社会

が刷り込んだお話です。


 「したい事が無い」という人は、満足している人なんで

す。社会は、社会の維持の為に人に動いてもらわなければ困

りますから、人に満足されては困るのです。それ故、満足し

ないように、何かを「したい」と思わせるように、個人に働

きかけるのです。そしてそれは数千年に亘って、ほとんどの

人間に対して成果を上げて来ました。

 人は社会の刷り込みのままに、欲望を持ち、努力をし、ひ

とときの満足を得ては失望して、失望故に次の欲望へと駆り

立てられて、そのために生きて来ました。自分の “命” をな

いがしろにして・・・。


 しかし、時折、釈迦や老子やソクラテスのような人が現れ

て、本当の〈自由〉を生きます。本当の〈自由〉を語りま

す。


 残念ながら、私のような人間には、本当の〈自由〉を生き

るほどの気概のようなものは、今のところありません。た

だ、普段ひとが口にするところの〈自由〉というものは、

「まやかし」に過ぎないんだと気付いていたい。

 本当の〈自由〉、“命の自由” というものを一瞥する瞬間

というものを、一日に一度でも持ちながら生きて行きたいの

です。


 何をするか、何をしないかではではなく。

 「いま、自分がどう在るか?」に囚われず、「どうでもい

い」という “肯定的なあきらめ” の中に身を置きた

い・・・。

 せっかく生まれて来たのです。

 自由になりたい。

 いや、自分が本当は自由であることに寄り添っていたい。


 人は皆〈自由〉です。本当の意味で。

 それが分かっていないだけなのです。



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