2019年2月15日金曜日

社会の行う「虐待」



 千葉で、小学四年生の女の子が虐待されて死んでしまった

事件は、まだ報道が続いている。社会が変わる一つのキッカ

ケとなりそうだけれど、変わるのは表面的な事だけだろう

な。


 どんな出来事であれ、その本質にアプローチせずに対処療

法に力を入れるだけでは本当の解決は無い。どうせ「どう管

理するか?」ということしか考えていないだろう。

 こんな名言があった。《オオカミに道理を説くのは良い。

だが、飢えたままにしておいてはいけない》


 今回の事件を起こした父親は、なぜ子供を虐待したのか? 

言葉を変えれば、なぜ子供の存在を否定しようとしたの

か? 

子供の存在を否定することで、何を守ろうとしたのか?


 人が攻撃的になるのは、自身の何かを侵害されると感じ

て、それを守ろうとする時です。いったい、十歳の、それも

我が子である女の子に「侵害」されると感じるような “何” 

に、自分の存在意義を持たせていたのか? そこを見据え

て、広く社会に知らしめなければ、子供の虐待は減らせない

でしょう。管理を強めることで、虐待の数を減らせたとして

も、その抑圧された “負のエネルギー” は、違う形で社会に

噴出して来ることだろう。“オオカミを飢えたまま” にして

おいてはいけない。


 その “飢え” がいったい何なのかは知らない。ケースバイ

ケースでさまざまな個別の事情があるだろう。

 「経済的」に飢えているのか、「愛情」に飢えているの

か、「社会的評価」に飢えているのか、いろいろなケースが

あるだろうが、“飢えたオオカミ” は、その「飢え」をしの

ごうと弱い者に噛みつく。

 具体的な個別の問題を抱えているとしても、どの「飢え」

も結局は “自己肯定感” が決定的に足りないのだろうと思

う。たぶん、強く自分を否定されながら生きて来たのだろ

う。その「飢え」(欠損)を埋める為に、他者を支配するこ

とで “自己肯定感” を持とうとする。その手法が「暴力」で

あり、その対象が子供に象徴される「弱者」なので、世間は

嫌悪し激高する。

 世間が嫌悪し激高するのは当然だ。私も気分が悪い。けれ

ど、その “自己肯定感” の「飢え」を埋めようとする手法が

「経済」だったらどうか?


 我が子を虐待したりはしない。けれど、「経済的成功」の

為に自らの才覚でのし上がり、その過程で多くの人から搾取

するという「経済的暴力」は、この社会ではほとんど不問に

処される。

 搾取しなければ「経済的成功」は有り得ない。その搾取の

過程で、苦しめられる者の中には当然 “子供” もいる。貧困

にあえぐ子供がいる一方で、「儲かった!儲かった!」と大

口開けて笑っている者がいる。それは “社会の行う「虐

待」” ではないだろうか?


 話をすり替えるつもりは無い。

 私は “社会の行う「虐待」” が、巡り巡って子供に象徴さ

れる「弱者」に及んでいるのだと思っているだけだ。その可

能性は、誰も否定できないだろう。


 社会は、一見「暴力」に見えない “暴力” は容認する。そ

れをもてはやしたりさえする。

 社会は、社会を動かしていく為の手法として、「暴力」も

必要としている。


 ところが、誰もがそれにどっぷりと浸かっているので、そ

れが「暴力」であることに気付けない。気付けないまま「暴

力」を受け、傷付く。傷付きたくない者は、その力(暴力)

を自分より弱い立場の者へとスルーし、最終的に、逃げ場の

ない者(子供たちのようなね・・・)が、それ(暴力)にさ

らされることになる。「身体的暴力」だけではなく、さまざ

まなやり方で・・・。


 社会が「虐待」を生み、それを制御しようと「管理」し、

その「管理」の息苦しさが、(見えない所で)さらに「虐

待」を生むという悪循環になるのではないかと本気で心配し

ている。


 この社会では、“自己肯定感” を得る為に他者を否定す

る。

 物心付いた時から、比較することに馴らされ、「自分が優

位である時にだけ自己肯定してよい」という意識を叩きこま

れるので、「自分が落ち着く為には他者を否定するしかな

い」と無意識に思い込んでいる。それ以外に “自己肯定” の

仕方を知らない。

 そんな “自己肯定” の為の、「強者から弱者への “否定” 

のドミノ倒し」の最後に立っている者はどうなるのか?

 心を病んでしまう。

 虐待されて死んでしまう。

 いじめられて自殺する。

 社会に対して反抗に出る。「殺すのは誰でもよかっ

た・・・」、だってドミノ倒しがどこから始まったのか知ら

ないんだもの・・・。

 (「犯罪者を許せ」なんて言ってるんじゃないよ。犯罪者

は社会で裁かれ、罪を償わなければばらない)


 比較し、他者  人には限らないが  を否定しなけれ

ば “自己肯定感” を持てない社会を作ってしまったことに目

を向けて、そのバカさ加減を認めない限り、こんな吐き気の

する様な出来事は起り続けるだろう。

 “比べる社会” は、必然的に「弱者」を生む。「弱者」を

生んでおいて、「弱者」を守れとか言う。それで何か良い事

をしているつもりでいる・・・。ちょっとは本気で考えろ

よ。次は自分が「弱者」の側に回るかも知れないんだから。


 「弱者」って、弱いんだぜ・・・。





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