2019年2月18日月曜日

「神秘」は無い



 前回、「私は『神秘主義』らしい」と書いた。

 『神秘主義的合一』と呼ばれる “世界との一体感” らしい

ものを感じたことがあって、それに最高の価値を見い出して

いるという意味のことを書いた。

 「神秘的」という言葉は、わりあいよく使われる言葉だけ

れど、そんなもの誰も深く考えて使ってはいない。「神秘」

とはなんぞや?


 【神秘】 人知では知り得ない不思議。神によって秘めら

れたもの。


 ホントに知り得ないの?

 ホントに秘められてるの?

 もともと無いものを「有る」と思ってるだけかもしれない

よ?

 見えているのに見ていないだけのことかもしれないよ?

 神は隠し事をするの? 何の為に?


 ホントは「神秘」なんて無いでしょ。

 人間は恐がりで、疑り深いだけでしょうよ。ひとりで勝手

に「何かある・・・・」と思ってるだけ。隠し事をするのは

人間だけ。


 《遍界不曾蔵》(へんかいかつてかくさず)  「この世

界は何も隠していない」。これは道元禅師が教えを乞うた阿

育王山寺(いくおうさんじ)の典座(禅寺の料理係)和尚の

言葉。

 《晴天白日誤人多》(せいてんはくじつひとをあやまるこ

と多し》  「何もかも大っぴらになっていると、人はかえ

って何かあるんじゃないかと疑って、愚かなことをする」と

いった意味。こちらは大智禅師の偈頌(げじゅ)にある言

葉。


 世界は何も隠していない。

 見えないものがあるとしても、それは「今ここからは見え

ない」だけ。なんでも見えていて欲しいなんて欲張るんもん

じゃない。それは不安が立ち上げてくる「管理主義」だ。

 人として見える必要があるものは全部見える。

 人として聞こえる必要があるものは全部聞こえる。

 臭い、味、感触、どれもそう。

 障害がある人には感じ取れないものもあるけれど、その人

に必要なものは全部感じられる。

 人それぞれ、その人の境遇によって、その “感じ取れる全

部” は違う。人それぞれの命の在り方は違うのだから当然

だ。人生は一律ではない。

 それぞれが、それぞれに見えているそれぞれの世界に生き

る。それで全部なんだからしょうがない。


 自分がいる場所に、同時に別のものが存在することはでき

ない。

 生まれてから死ぬまで、自分が見て聞いて感じる世界は、

自分だけが感じられる世界だ。世界が始まってから終わるま

  始まりと終わりがあるかどうかはしらないが  の間

で自分だけに与えられた特権だ。


 とんでもない苦しい思いをするかもしれない。理不尽なこ

との連続かもしれない。とても容認できない日々かもしれな

い。けれど、それがその人の世界であり、全部だ。

 意味を離れ、価値を取り下げ、過去を手放し、未来を来る

に任せ、自分が見ている自分の世界に自分を投げ入れて、自

分も世界の一部になってしまうなら、世界を自分にしてしま

うなら・・・。


 自分が有るから、世界からの働きかけが悩み苦しみにな

る。

 自分が世界になってしまえば、働きかけられる自分が消え

れば、いったい “何” が悩む? “何” が苦しむ?



 なるほど、私は神秘主義だわ。

 でも、「神秘」なんて無いんだね。

 『神秘主義』なんていうのは、一神教との関わりから生ま

れた言葉や概念であって、本当は『真現実主義』とか、『観

現実主義』とでも呼ぶべきだろうね。

 でも、「主義」と呼ぶのはそもそもおかしい。

 「主義」じゃないからね。

 「だって、それが本当だから」というのが当事者の感覚だ

から。


 世間は「こっちが現実で、アイツらは妄想の世界に住んで

る」と言うだろうし、こっちは「世間は幻想を現実だと信じ

込んで追いかけている」と確信してる。

 どっちが正しいか知らない。

 自分が本当に、心の底からしあわせだと感じて、笑ってい

られてるんならどっちでもいいんじゃない。それぞれの世界

だ。

 でも、ホントに現実が、世界が見えてる?


 《 縁無き衆生は度し難し 》


 世界が違えば、仏陀でも救う事ができない。

 おあいにくさま。

 (って、「私は救われてんのか」という話だけど、そうい

うことにしてあるので、それでOK!)




0 件のコメント:

コメントを投稿