2020年4月30日木曜日

好きなだけ闘ってみればいいさ コロナ ⑳



 ここのところ、新型コロナウイルスのことでなんだかんだ

と書いていたので、ちょっと整理しとこうと思って、コロナ

関係の話に通し番号を付けてみたら、なんと19もあった。

 もう四ヵ月も経つのだからとは思うが、こんなに書いてい

たとは思わなかった。私は、それほど「気持ち悪い」と感じ

ているんだろうなぁ。


 まだまだ騒動は続きそうだけど、私的には「コロナ」はも

う終わってしまった。


 ほとんどの死亡者の年齢が “平均寿命” 前後であること。

 ニューヨーク州での抗体検査の結果、感染者はニューヨー

ク州の人口の14%以上と推定されること。それによって、

感染者の死亡率は0.5%程度と見做されること。


 以前から思っていた通り、このウイルスはやっぱり “雑

魚” だ。

 こんな “雑魚” 相手に、よくもまあ騒ぎ続けられるもん

だ、大勢の人を不幸にしながら・・・。


 「ウイルスとの闘い」などという言葉をよく耳にするが、

彼らが闘っているのはウイルスではなくて、「死」だろう。

あるいは、「死」に象徴される「自然」だろう。アタマは

「自然」が嫌いだからね。


 人のコントロールの外に在るものを、「自然」と定義して

いいはずだが、自分のコントロールから外れて勝手に存在す

るものがアタマは嫌で嫌でしようがない。ましてや、それが

コントロール外の事の根本である「死」を伴っているのだか

ら、どうにも見過ごすことができないらしい。ああ、アタマ

が悪い・・・。


 好きなだけ闘ってみればいいさ、誰も死ななくなるまで、

老不死を実現するまで闘えばいい。そして誰も死ななくな

たあかつきには、自分たちのして来た事の結果をじっくり

味わえばいいんだ。

 それは、どんな味わいか?

 私が思うに、それは「虚無」というものではないだろう

か。


 コントロールすべき究極の事象である「死」を管理しきっ

た時、もう人には管理すべきものが無い。人の「目的」の根

底が消え去ってしまう。その時、おそらく人は茫然と立ち尽

くし、空っぽの「目的」を前に底知れぬ恐怖を感じるのでは

ないだろうか。

 そしてこう思うだろう。

 「“死” こそが、“生” の拠り所であり、“生” の価値を支

えていたのだ・・・」

 しかし、もう「死」は無い。

 「死」と共に、「生」の価値は失われた・・・。


 好きなだけ「死」と闘えばいいさ。

 そして、永遠に生きればいいさ。

 自分を生み出した「自然」を疑い、逆らいながらね。


 ひとまずはお幸せに。

 私はそれに付き合わないけどね。だって、気持ち悪いんだ

もん。




2020年4月29日水曜日

生きるとは、決まった目的を持たぬこと



 ちょっと前、『ヒューマニズの破綻』(2020/4/18)と

いう話を書いた時、最後の方でこう書いた。


 〈本当の意味で「命」と「尊厳」を見つめ直して、「生き

る」とは “何” なのかを問わなければならない。その答えが


出るまで、自分と世界に関するあらゆる答えは、 “保留” 


だ。〉




 こう書いた時、すぐに「最初から最後まで “保留” だな」

と思ったのだが、その時はそこまでは書かなかった。その時

の話の流れっていうものがあるからね。

 で、今日は “保留” の話です。


 〈「生きる」とは “何” なのか? 〉


 答えは “保留” です。

 答えを保留にするのではなくて、答えが “保留” なんです

よ。


 ヘルマン ヘッセ が、こういう言葉を残している。


  見出すとは、自由であること、

  ひろく心をひらいていること、

  決まった目的を持たぬことなのです


 私は、ドイツの詩人であるということ以外に、ヘルマン 

ヘッセ のことを全然知らないが、この言葉は昔から大事に

している。


 この言葉の冒頭の「見出す」を「生きる」に代えれば、私

が “保留” といっている感じが分かってもらえるのではない

だろうか。


  生きるとは、自由であること、

  ひろく心をひらいていること、

  決まった目的を持たぬことなのです


 そもそも、「オギャァー」と生まれた時に、誰も目的など

持っていない。

 目的が無ければ「自由」だ。

 目的が無ければ「心はひろくひらかれて」いる。


 「目的」というものは、世界の中の “ある一点” です。あ

る一つの状況です。

 「目的」を持つ時、わたしたちは世界の残りのすべてを見

失う。

 さらに、「目的」というものは、わたしたちのアタマが作

り上げる約束事の中にあるものであって、世界に実在してい

るものではない。結局、わたしたちは「目的」を持った瞬間

に、世界のすべてを見失うことになる。自分の生きている世

界を見失っては、とてもじゃないが「生きている」とは言え

ないだろう。


 「生きる」とは、この世界を「見出す」ことだろう。

 「見出す」とは「気づく」ことだろう。

 「生きる」とは「気づいている」ことだろう。


 アタマのでっち上げる「目的」に囚われることなく、ある

いは囚われながらも、その囚われている自分自身や世の中の

“囚われている姿” に「気づいて」いられれば、わたしたち

は世界の “本当” を「見出す」ことができるだろう。世界を

実感し、世界の中に “本当” に在ることができるだろう。そ

れこそが「生きる」ということだろう。


 「気づいて」いなければ、「生きていない」というわけで

はない。「気づいて」いようが「気づいて」なかろうが生き

ている。けれど、「気づいて」いないまま生きて行くこと

は、自分が莫大な遺産を相続していることを知らずに、貧乏

暮らしをするようなものだろう。


 “保留” とは、「保ち」「留める」と書く。

 「目的」の無いまま、あるいは「目的は仮のものでしかな

い」という「気づき」を保ち、「自由」という無重力状態に

留まる。そんな、はなはだ心もとない在り方が、心を「広く

ひらかせ」、「生きている」ことの “本当” を見いださせ

・・・。


 (目的を持たなければ、こんな話をでっち上げることもで

きてしまうのです)





2020年4月28日火曜日

キャッチボール



 今朝、目が覚めてしばらく布団の中でぼ~っとしていた

ら、なぜか BUNP OB CHICKENの『キャッチボール』の

歌詞が浮かんで来た。


 『キャッチボール』は恋人らしい男女がキャッチボールを

する情景を歌った曲だが、その中にこんなフレーズがある。


 上手くなって距離を置く 心は近付いてく・・・


 Fuji くんは天才だね。


 キャッチボールが上手くなるということは、お互いの力量

を分かり合って、それに応じて分かり合うレベルを上げなが

ら、キャッチボールそのものの技量も上がってゆくというこ

と。そして、お互いを分かり合うことで「距離を置く」こと

が可能になる・・・。


 いい歌詞だなぁ。


 昔から、人目もはばからずベタベタとくっ付いてる男女を

見ると、「ナメクジの絡み合いみたいだなぁ。ああ、キモチ

悪い・・・」と思い、「こいつらすぐ別れるな」と思った。

お互いの間に距離を感じるからこそ、あんなに引っ付いてい

なければならないんだろうから。


 人の言動というものは、その表面的な印象や、当人の思う

理由・動機とは裏腹に、結構な確率で、逆のことを表現して

いる。「キライだから一緒に居る」というような・・・。


 「キライだから一緒に居る」?

 と思ったあなた。そういうこともあるのですよ。


 今回のコロナウイルスの騒動や、東日本大震災での原発事

故のような恐い事が起きると、どうしてもそのニュースを見

てしまうでしょ? 人というのは、嫌な事があると、それに

注意してしまうものです。恐ろしいものを無視すると、それ

に害を与えられそうに思うので無視できないのです。そし

て、それがあまりにも嫌過ぎて恐過ぎると、どんなに距離を

とってもその嫌悪感に耐えられなくなって、自分自身をだま

します。逆に、思いっきり近付くのです。


 「何で?」と思うでしょう? 近付けば近づくほど全体像

は見えなくなるから、思いっきり近付くと、ほとんど何もみ

えなくなって、逆に嫌悪感や恐怖は感じなくなるのです。表

面的にですがね。


 ということで、嫌い合っている男女は、人目もはばからす

ベタベタと引っ付くことになるのです。少しでも距離を置く

と、お互いの醜さが目に入ってしまうので・・・。


 男女関係に限らず、人というものはメンドクサイやり方で

自分の本心を表明しているものです。けっこうな割合で。



 「だいじょうぶ・・・」と言ってる子供がとてもひどい目

に遭っていたり、毎日のように「死にたい・・・」と言って

いる人が結構しぶとかったりする。

 そういう人の本心を知るためにはどうすればいいのか?


 たたみかけることでしょうね。

 「大丈夫? 大丈夫? ホントに大丈夫?」とたたみかける

と、見せかけの苦しみに酔っている人は、鬱陶しくなって不

機嫌になることでしょう。そして、口では「だいじょう

ぶ・・」と言いながら本当はとても苦しんでいる人は、泣き

出してしまうことでしょう。言葉とは裏腹に、人の感情とい

うものは正直なものです。

 取り繕った言葉なんて、一点集中の圧力で簡単に破れてし

まう・・・。


 こちらからどんなに言葉を投げても、相手が壁を築いてい

ては「壁当て」(ひとりで壁にボールを投げてそれを取ると

いう繰り返しのことです)でしかない。その壁を壊すことが

できたら、そこから心のキャッチボールが始まる。(このブ

ログなんて、完全に「壁当て」みたいなもんだなぁ)


 そういえば、このごろ街中でキャッチボールしているのな

んか見ないなぁ。昔はよく見かけたけどね。

 キャッチボールって、イイものだけどなぁ。ボールと一緒

に何かが通うんだよね。


 上手くなって距離を置く 心は近付いてく・・・


 カーブの様なグチ

 消える魔球の様な優しさ

      『キャッチボール』 BUNP OB CHICKEN





2020年4月25日土曜日

沈黙の木には平和の実がなる



 《 沈黙の木には平和の実がなる 》


 これはアラビアの格言だそうだ。


 前回もこの言葉から始めたけど、今回は、この言葉から違

う方向へ向かう。

 「平和」とは、「沈黙」のことではないだろうか?


 わたしたちの口が沈黙し、さらにわたしたちのアタマが沈

黙したら、いったい何がわたしたちを乱すだろう?「沈黙」

とは、「平和」の別名である。


 とはいえ、わたしたちはそう簡単に「沈黙」できない。

 口を閉ざすことはできたとしても、アタマを「沈黙」させ

ることはほぼ不可能だろう。なので、「平和」が実現される

ことは絶望的に少ない。「平和」とは幻想なのだろうか。

 いや、「平和」は幻想ではない。それどころか、実のとこ

ろ、わたしたちは常に「平和」なのだ。

 

 「どこが平和なんだ!人と人は四六時中争ってるし、災害

はしょっちゅう起こる。今は恐ろしい感染症が世界を震撼さ

せているじゃないか!」


 確かにそうなんですが、先ほど書いたように、“実のとこ

ろ” 「平和」なんです。


 「平和」は、“実のところ” にあるのです。“実の所” に。


 “実” の反対は、“虚” ですね。

 わたしたちが生きている社会、人と人の約束事でできてい

る世界は “虚” の世界です。

 それを「虚(ウソ)」とまでは言いませんが、「虚(うつ

ろ)」な世界です。実体の無い、霧に映る影のようなもので

す。すべてが約束事でしかなく、人の思考と感情が投影され

た作り事の世界なので、そこに落ち着くことはできません。

 投影された世界を維持するために、休むことなく、思考と

感情を投射し続けなければならないので、そこでは「沈黙」

も「平和」も成り立たないのです。「沈黙」など不可能なの

です。わたしたちは「沈黙」することなどできません。


 しかし “実の所” は、常に「沈黙」しています。

 “実の所” は、常に「平和」です。

 わたしたちのアタマが「おしゃべり」し、「思考」するた

めには、それが現れる “場” がなければなりません。文字を

描く白紙の紙や、映像を映す無地のスクリーンや、言葉をや

り取りできる静けさのようなものが。


 わたしたちが、「おしゃべり」し「思考」できるというこ

とは、わたしたちの中に、この世界に、その “場” が在ると

いうことです。

 わたしたちが「おしゃべり」し、「思考」することを止め

られなくても、その背景には、常に、「白紙」の「無地」の

「静かな」、“場” が在る。実のところ、わたしたちの本質

は “「沈黙」の場” であり、「平和」なのです。


 「おしゃべり」しながら、「思考」しながら、実のところ

は「平和」だという気付きがあればそれでいいのです。一度

気付いてしまえばそれで済んでしまうのです。


 “沈黙しよう”  “穏やかでいよう” などと、「思考」をコン

トロールしようとする必要はない。その “場” が在ることに

気付いてしまえば、それは意識しなくても失われることがな

い。

 「ああ。平和は、ここに、いつでも、在るのだな」

 一度、それを知ってしまえば、もうそれで済みです。

“虚” の世界で、平気で “現実(幻実)” に振り回されて苦し

んでいることができます。


 振り回され、苦しみながら、「平和」なんです。

 アタマがやかましくしゃべり続けている最中も、「静か」

なんです。


 自分が、世界が、どのように荒れ狂い、乱れていようと

も、わたしたちは、 “実のところ” 「平和」なんです。




2020年4月21日火曜日

愛してます



 《 沈黙の木には 平和の実がなる 》


 これはアラビアの格言だそうだ。

 頼まれもしないのに、こうしてブログを書いている私なん

ぞは、平和から程遠いのだろう。しかし、なんだって私はこ

んなことをしているのだろうか?


 ここ三か月ぐらいは、コロナウイルスに関することで、自

でも「不用意だ」と思うぐらい口から出まかせを書き散ら

てきた。今にして思えば「ああ、コロナウイルスの “スト

リー” に感染して、発熱していたんだなぁ・・・」などと

う。

 ただの妄想でしかない話もあれば、「なるほど」と思うよ

うな話もあるだろう。しかし、いずれにせよしゃべり過ぎだ

ろうな。《沈黙の木には 平和の実がなる》のだ。

 でも、それを言い出したら、ブログなんか書いていられな

い。

 何がそうさせるのかは知らないが、私はまだブログを書き

続けるようだ。


 沈黙の中に生きて、平和になって、そのまま平和のまま沈

黙の中に居続けたら、それは人としては存在しないのに等し

い。「植物状態」か「閉じ込め症候群」のようなものだろ

う。「沈黙の中に生きる」なんて言えば、ALS の患者さん

は怒るだろうね。「いつでも代わってやるよ!」と。


 ゲーテはこんな言葉を残している。


 《 もはや愛しもせねば 迷いもせぬ者は

                埋葬してもらうがいい 》


 しゃべり過ぎるのは良いことではない。アタマの暴走だ。

 不用意にしゃべるのも良くない。アタマの迷走だ。

 けれど、人はしゃべる。しゃべっていい。だって、しゃべ

る機能が与えられている。ただ、それが喜びや楽しみにつな

がるようにする器量なり智慧がなくてはならない。


 「沈黙の木には平和の実がなる」だろう。それは間違いな

いだろう。けれど、その実にはきっと “種” が無い。

 沈黙を破ることは、平和を乱す。けれど、そのリスクを避

けていては、平和を伝えることはできない。一代限りで平和

の木は終わる。


 お釈迦さまは、悟った後にそれを人に伝えるべきかどうか

さんざん迷ったという。なぜなら、言葉は不完全なものだか

ら、伝えるどころか、誤解を招くばかりになってしまうかも

しれないのだ。けれど、お釈迦様は結局伝え始めた。「たと

え百万人に一人でも救われるなら。“救い” に気付くなら。

自分一人で終わるよりもマシだ」そう思ったのだろうと思

う。

 というわけで、お釈迦様でもしゃべるのだ。私がしゃべっ

たところで、口から出まかせを言って笑われたところで、怪

しむに足りない。


 「しかし、お釈迦様を引き合いに出すか?」

 そう思われるかもしれない。けれど、お釈迦様は「我与大

地有情、同時成道」と言われた。お釈迦様が悟った時、過去

と未来のすべての存在が悟ったのだ。だから、アタマの働き

に埋もれているとはいえ、少し掘れば私の中にも「悟り」が

ある。その、少し覗いてる「悟り」を他の人にも見てもらい

たい。

 「ほら!おんなじものがあなたの中にもあるよ」と。


 《 もはや愛しもせねば 迷いもせぬ者は

                埋葬してもらうがいい 》 
 

 まだ、埋葬される予定は無いようなので、「迷いながら」

「自分で呆れながら」「後悔しながら」、私はこのブログを

書いてゆく。だって、愛してるからね・・・。あなたを。


 (しかし、何言ってんだろう? やっぱり《沈黙の木には

平和の実がなる》んだな)




2020年4月19日日曜日

静かだ



 家の外が静かだ。元日よりも静かなように思う。こういう

静かな時によく思うのが、人の立てる音のこと。


 もしも、人の活動の音が無く、自然の音だけならば、世界

はかなり静かなのだ。

 台風や火山の噴火や雷のような事でもなければ、自然の音

というのは、鳥や虫の鳴く声、風で揺れる葉音、川の流れ、

海の波音、雨音・・・、その程度でしかない。本来、この世

界は静かなものなのだ。


 人というものは、かなり騒々しい存在だね。特に現代はそ

うだろう。

 そして都市の騒々しさは正気の沙汰ではないだろう。それ

が普通になっているので、誰も「狂気」とは思わないけれ

ど、落ち着いて考えてみれば「狂気」ですよ。


 この騒々しさは何だ?

 人間って、いったい何だ?


 都会に住む人間などは、あまりに静かだと恐怖を感じるの

ではなかろうか?

 「自分以外、この世界には誰もいないんじゃないの

か・・・」

 無意識にそう思って、怖くなるのではないだろうか? だ

からこんなに物音を立てて、騒々しいのでは?



 暴走族の若い子だけではなく、30~40代のいい歳のオッ

サンが、爆音を立ててアメリカンバイクで走り去る。なんだ

って、あんな音を立てて嬉しいんだろうか? まったく理解

できないが、なにか「淋しさ」とか「不安さ」を抱えている

んだろうな。子供だね。


 「大人」という言葉は、「おとなしい(大人しい)」から

来ているとかいう。そして「おとなしい」は「音無し」のこ

とだともいう。ちゃんとした「大人」は、静かなのだ。


 ならば、この騒々しい世の中は、“子供っぽい” と言って

しまっていいのだろう。


 子供の頃、家に独りで居ると、あまりに静かで怖くなり、

声を出したり何か音を立てたりしてそれを紛らわそうとした

ことが誰にもあるだろうと思う。

 人間というものは、身体はデカくなり、アタマも働くよう

になるけれど、心はほとんど成長しないのだろう。だから、

歳をとっても不安のままで、静かにしているのが怖ろし

い・・・。


 こんな経験はないだろうか?

 ライブだとか、講演だとか、人が大勢集まっている所で、

いよいよそれが始まるので会場が静かになると、途端にあち

こちで咳をし始める人間がいる(あなたがそうかもしれな

い)。緊張し、不安になるのだろうと思うけど、それは「静

かさ」が怖いということだろうと思う。


 静かだと、外界からの刺激が少なくなる。それは “自分が

世界の中に存在している” という感覚を希薄にさせる。それ

は自分の足場を失うような不安定さを感じさせる。だから、

自分から音を立てて、その反響で自分の存在を確かめようと

するのだろう。

 ああいう人は、かなりセンシティブなんだろうが、それと

同時にエゴの強い人でもあるのだろう。

 エゴが強いので世界からの分離感が強く、その為、周り

らの情報が入って来なくなると、酷い疎外感なり孤独感を

じるのだろうなと思う。


 人間の社会。特に都市が騒々しいのは、エゴの強い、子供

っぽい人間が集まって作り上げているからではないだろう

か。


 そう、こんな名言も有った。
 

 《 河深ければ 水なめらかに流る 》 シェークスピア


 大人になって欲しいなぁ。

 私自身が大人かどうかはさておき・・・。



2020年4月18日土曜日

ヒューマニズムの破綻


 「ヒューマニズム」というのは、「ニズム(イズム)」と

う言葉が付いているように、主義・ 思想だ。それは、観

であり、アタマの作り上げたものであって、人間が自然の

部であることから見れば、奇妙なものだ。


 「ヒューマニズム」が大切にするのは、生物的な「命」。

して、人としての「尊厳」。

 あとの諸々は、それに付随して生まれるものでしかない。

しかし、「命」と「尊厳」というものが “何か” というと、

はなはだいい加減だ。


 近年、「尊厳死」ということが言われるようになってきた

けれど、この言葉の前では「ヒューマニズム」は立ち往生す

る。「命」が大事なのか「尊厳」が大事なのか?

 ただただ生物的に生かせばいいのか、それよりも精神的に

尊重すべきなのか、それに直面した者はきっぱりと答えが出

せなくて苦しむだろうが、そもそも「尊厳死」についての問

題というものは、人工呼吸器だとか胃ろうだとかいう技術が

できたおかげで生まれた、現代的な精神疾患だといえる。

 「命」と「尊厳」を大切にしてきた「ヒューマニズム」

は、その追求の挙句に、「ヒューマニズム」そのものの欠陥

を自ら浮き彫りにしてしまった。「尊厳死」というかたち

で。


 「ヒューマニズム」は主義・思想であり、「命」あるいは

「死」という “自然” とは相容れない。それどころか、「尊

厳」という人の “精神” の部分とさえもフィットしない。

「尊厳死」というものを前にして「ヒューマニズム」が困っ

しまうことが、それを証明している。いいかげんに、人は

「ヒューマニズム」を卒業すべきだろう。


 “自然” と “精神” という、人よりはるかに大きく、自分た

ちの存在の母体であるものの在り方対して、自意識が対等で

あろうとするのは、小賢しいと言うしかない。

 美辞麗句でどんなに飾っても、「ヒューマニズム」は “エ

ゴ” でしかない。それは、かえって人の「命」と「尊厳」を

損なう。迷いを生み、苦悩を生む。


 「ヒューマニズム」は古代からあっただろう。人が自分た

の「命」を、自分たちの「尊厳」を守りたいと思うのはご

自然だから。しかし、人が科学技術とその成果としての膨

なエネルギーを手に入れてから、「ヒューマニズム」は暴

走してしまった。思い上がってしまったのだ。“自分たちは

「命」と「尊厳」をコントロールできる” と・・・。


 ところが、その果てに行き着いたのが「尊厳死」という矛

盾だった。


 「ヒューマニズム」は破綻しているのだ。

 「イズム」ではない「世界観」が必要なのだ。

 本当の意味で「命」と「尊厳」を見つめ直して、「生き

る」とは “何” なのかを問わなければならない。その答えが

出るまで、自分と世界に関するあらゆる答えは、 “保留” 

だ。

 答えを知りもしないのに、知ったような振りをするから、

今回の「コロナ騒動」のような狂乱を生むのだ。

 どんなに不安でも、分からないことは分からないままにし

た方がまだましだろう。


 「ヒューマニズム」は一見美しい。

 けれど、それは飾られた「エゴ」なのだ。




2020年4月17日金曜日

苦しむために生まれてきたのか?



 何日か前、YouTube で竹内まりやの昔のアルバムを聴い

た。『ポートレイト』というアルバムで、昔持っていたのだ

が、阪神大震災の時に失ってそれっきりになっていて、本当

に久しぶりに全曲を聴くことができた。しかし、リリースが

1981年・・・。もう四十年前である。しばし茫然とす

る・・・。年を取ったのだなぁ、私も竹内まりやも・・・。


 それはともかく、あらためて聴いて、いいアルバムだと思

う。どの曲もいいのだが、特に好きなのが「僕の街へ」とい

う曲と「雨に消えたさよなら」という曲。で、「雨に消えた

さよなら」の中の歌詞に、大事に思っているフレーズがあ

る。


 苦しむために人は出会わない 

 しあわせになりたかった

 たった それだけなのに


 これは恋の歌で、その出会いの事を歌っているわけだけ

ど、この曲を初めて聴いた時から、私はこう受け止めてい

る。


 苦しむために人は生まれない

 しあわせになりたかった

 たった それだけなのに  
 

 まるで苦しむために生まれてきたかのような人生がある。

 ものごころもつかぬ内から親に虐待され続けてしまった

り、極貧の中でようやく生きていると言うしかない暮らしだ

ったり、折悪しく紛争の只中に生まれてしまったり・・・。

 そういう人生を生きなければならない人にかける言葉を、

私は持っていない。ただ、もしそのような人から「わたしの

人生をどう思う?」と尋ねられたら、話せることはあると思

う。


 苦しむために人は生まれない。


 そうであって欲しい。

 けれど、生きることは苦しい。それが普通だし、すべての

人間がそう思いながら、人生の大半を過ごす。でも、苦しむ

ために生きているわけじゃない。

 人は、“しあわせ” を生きるために生まれてくるんだ。


 とはいえ、先に挙げたような状況にあって「 “しあわせ” 

を生きる」なんて言われたら、「ふざけんじゃねぇ!」と言

いたくなるだろう。私だったらそう言うに違いない。

 自力でどうにかできるような状況じゃない。何の因果か、

運命にもみくちゃにされ、抜き差しならない。苦しくて恐ろ

しくて死んだ方がマシだと思う。けど、死ねない。あまりの

理不尽さに、震えながら泣いている・・・。けれど、そんな

人生でも、死にたいばかりの日々が延々と続いても、やっぱ

り苦しむために生まれてきたわけじゃない。


 苦しい、恐ろしい、死にたい。

 でも、それでも、いま生きている。ほんのわずかばか

り、“生きる働き” がまさっている。その、ほんのわずかな 

“生きる働き” の中に、過酷な運命にも触れられないものが

ある。

 運命の外に在って、自分の中に在るもの・・・。

 それに意識を向ける。

 そこから運命を観る。

 その絶対さと、無限を味わう。


 実際に酷く苦しくても、その最中でも「生きている」。生

きているかぎり、自分の中には “それ” が在る。


 運命の外に在って、自分の中に在るもの・・・。

 それをそっと抱きしめながら、それを愛おしみながら生き

ることを、「“しあわせ” を生きる」と言う。


 実際にどんなに苦しくても、人は苦しむために生まれてく

るんじゃない。

 その運命が過酷であればあるほど、なおさら苦しむべきじ

ゃない。

 苦しみに取り囲まれた、そのただ中の自分の中に、なにも

のにも侵されない〈自分〉が在る。途方もない安らぎと共

に・・・。 


 苦しむために人は出会わない 

 しあわせになりたかった

 たった それだけなのに・・・
 




2020年4月12日日曜日

わたしの星座、あなたの星座



 NHK の『こころの時代』で、『ゲド戦記』を翻訳された

清水真砂子さんの話を聞いた。

 いくつも印象に残る言葉があったのだが、ある時、オリオ

ン座を見たときに、「昔の人がこの星々をつないで、オリオ

ンという戦士のストーリーを与えてくれたおかげで、今、わ

たしたちは、星座というひとかたまりのイメージを持つこと

ができる。もしそのストーリーが無かったら、それはバラバ

ラに散らばっている星々でしかないだろうと思った」といっ

た話をされていた。


 同じようなことは私も考えたことがあったけれど、今回

は、その話をとても新鮮な感じで受け止めた。そして、こう

思った。

 「この世界のすべての事象はそれぞれ一つの星のようなも

ので、わたしたちがそれぞれにその事象をつないで、それぞ

れのストーリーを作り、それを世界とみなしているんだな」

と。誰もがそれぞれの星座  世界  を見ているんだ。


 いま、天文学の便宜上、星座は世界共通で決められている

けれど、もともとは、それぞれの民族や地域で独自の星座を

持っていた。

 北斗七星は、西洋では “大熊座” の一部だけれど、日本で

は “ひしゃく” や “舟” (高天原へ通う舟)と見ていたり、

文化背景によってそれぞれ見方が違う。けれども、それでは

西洋と日本では話が通じにくいので、共通認識として一つの

見方を決めている。


 わたしたちの “世界観” も星座と同じことで、共通認識を

持たない事には社会が成り立たない為、お互いに “ある世界

観” に合わせている。けれど、それは結局便宜上のものでし

かない。それはある見方でしかないので、それが真の、正し

い “世界観” というわけではないのだ。良い社会というもの

は、一応 “ある世界観” を共有しながらも、それぞれの “世

界観” が存在することを否定しないものだろう。ひとつのド

グマが支配する世界は恐ろしいものだ。

 「社会的な正しさというものは、あくまでも便宜上のもの

でしかない」という認識を常に持っている社会に、私は住み

たい。


 社会が描く星座を共有しつつも、それぞれの人にはそれぞ

れの星座があることを心に留めておく・・・。

 私の星座や、あなたの星座があっていいし、あるはずなの

だ。


 もともと星々(事象)はつながりを持っていない。どれが

正しいというわけじゃない。

 私が、あなたのつないだ星座を示されて、「面白い」とか

「美しい」とか思うかもしれないし、あなたが私の描く星座

を見て、「怖い」とか「楽しい」とか思うかもしれない。

 しかし、単一のドグマは、個々の持つ「美しさ」や「楽し

さ」「怖さ」といった、さまざまな可能性を消してしまう。

それは、人にとって不幸なことだろう。


 世界に散らばる “事” と “事” をつないで、私は私の星座

を描く。

 それを見て、「面白い」と言ってくれる人がいるなら、素

直に嬉しい。

 そして、それを見て、今までとは違う空の姿に心をひらか

れる思いを持つ人がいてくれるなら、何よりだと思う(自分

の星座をむちゃくちゃにされて、怒る人もいるだろうが、そ

れはしょうがない)。


 人は、社会の描く “事” と “事” の並びにがんじがらめに

されて身動きできなくなってしまう。でも、それだけではな

いし、それが絶対でもない。

 自分の目で、空を眺めるべきなんだ。

 そしてたぶん、空は、それを喜ぶんだ。




2020年4月11日土曜日

不幸になってみよう!



 こんなタイトルを見たら、「いま、不幸だ」と感じている

人はどう思うだろうか?

 心配いりません。「いま、不幸だ」という人も、さらに不

幸になろうとすることができます。(え?「そういうことじ

ゃない」って?)


 この前、『不幸になれない』(2020/3)という話を書き

ましたが、今回は、それを検証してみようということです。


 で、早速ですが、一分間差し上げますので、「不幸」にな

ってみてください。「いま、不幸だ」というのでしたら、い

ま以上にさらに「不幸」になろうとしてみて下さい。ただ

し、「不幸な事」を考えるのはダメです。直接、自分の中に

「不幸」を生み出してください。「不幸」になってみて下さ

い。では、どうぞ・・・・・・・。

 



 一分経ちました。どうでしょう?「不幸」になれました

か?「不幸っぽい」気分が少しでも増えましたか?

 もしあなたが、「不幸な事」を思い描いたりせずに「不

幸」な気分を生み出せたというのなら、あなたはかなり器用

な人です。


 わたしたちは、ストーリーを持たなければ「不幸」にはな

れないようです。

 「不幸」は、自分が「こうあるべき」と思っている “想定

との落差” から生まれるもののようで、「想定」、つまり

「ストーリー」が無ければ、「不幸」は生み出せないんです

ね。


 考えてみて下さい。ネコが「不幸」を感じるでしょうか?

 「苦しい」とか「痛い」とかの不快は感じるでしょうが、

イコール「不幸」ではありません。それは単に「不快」とい

う感覚にとどまることでしょう(ネコに訊いてみたことはあ

りますが、答えてくれませんでした)。わたしたちが「不

幸」を感じるのは、アタマが「ストーリー」を持つ癖がある

からです。「ストーリー」を持つこと無くしては、「不幸」

にはなれないのです。


 わたしたちが「しあわせでいたい」「穏やかでいたい」

「安らいでいたい」と思うのであれば、その一番確実な方

法・・・、というより唯一の方法は、 “ストーリーを持たな

い事” 。あるいは、“ストーリーは「ストーリーでしかな

い」と、気付いていること” でしょう。


 それで「不快」や「苦しみ」は無くならないかもしれませ

んが、「不幸」になることは無い。それは保証できます。


 「保証」の根拠ですか?

 繰り返しになりますが、「不幸になろう」としてみて下さ

い。その 〝実感” が根拠です。


 そして「不幸になれない」わたしたちは、「不幸ではな

い」。

 「不幸」ではないわたしたちの標準状態は・・・、「しあ

わせ」なのです。


 もう一度、試してみて下さい。

 「不幸」になれるでしょうか?


 わたしたちは、どうしようもなく「しあわせ」なのです。

 アタマが悪さをしなければね。



2020年4月5日日曜日

生きる価値など無いあなたへ



 ちょっとよそのブログを見ていて、「挑戦」だとか「前に

進む」だとかいう言葉が並んでいるのを見た。コメント欄に

は、「前向きに生きよう」といった、お礼の言葉や肯定的な

言葉が並んでいる。

 善意のある、良いブログだと思う。見ている人も真面目

だ・・・けれど、素直なひねくれ者の私は「はいはい」と頷

いたりしない。


 “この世界で、最も不運で不幸でネガティブで無能で最悪

の環境にある人” というものを考えてみる。その人は生きる

価値も生きる意義も無いのだろうか?


 自分自身を肯定的に見ることなどできず。自分の生きる世

界に良いものなどひとつも見いだせず。他人からもまったく

評価されない。そのような人には存在意義などないのだろう

か?


 「評価」というものは、わたしたちのアタマが作り出すも

のだ。わたしたちのアタマの中以外、この世界のどこにも

「評価」というものは存在しない。


 “この世界で、最も不運で不幸でネガティブで無能で最悪

の環境にあって、自分自身を肯定的に見ることなどできず、

自分の生きる世界に良いものなどひとつも見いだせず。他人

からもまったく評価されない人” であっても、この世界が、

その人を存在せしめたのだ。

 わたしたち人間の、アタマの「評価」とは無関係に、社会

の都合・事情以前に、その人は存在している。

 「それは自分の事だ」、とあなたが思うかもしれない。


 自分自身でも他の人間から見ても、その存在は「ムダ」で

あるかもしれない。「悪」でさえあるかもしれない。何ひと

つ良いと思えず、苦しみの中で死ぬのかもしれない。けれ

ど、この世界が、自分を存在せしめているのだ。


 なにひとつ「良い」ことがなく。「自分はただ生きている

だけ・・・」それのどこがいけない? 人間は一人残らず

「ただ生きているだけ」の存在だ。それが本当だ。

 その「ただ生きているだけ」の寄る辺なさから逃れんが為

に、わたしたちのアタマが「価値」と「評価」を生み出す。

そして、わずかばかりの安心を得る引きかえに、その数層

倍の苦悩の中に落ちる・・・。


 「自分はただ生きているだけ・・・」それのどこがいけな

い? 

 「自分はただ生きているだけ・・・」と感じることは、生

きることの真実に近付いていることだ。せっかくだから、そ

こからさらに「ただ生きているだけ」に踏み込んで行けばい

い。踏み込んで踏み込んでその中心まで入り込んで行けば、

「ただ」も「だけ」も置き去りにして、「生きている」に出

会うだろう。


 「価値」も「評価」も置き去りにした、その「生きてい

る」に向き合ったとき、自分が何を感じるか? 世界がどう

見えるか?


 自分が、“この世界で、最も不運で不幸でネガティブで無

能で最悪の環境にあって、自分自身を肯定的に見ることなど

できず。自分の生きる世界に良いものなどひとつも見いだせ

ず。他人からもまったく評価されない人” だとしても、いま

「生きている」。

 それは愛おしいことではないだろうか。

 その愛おしさの中にこそ、本当に「価値」と言えるものが

あるのではないだろうか。



2020年4月4日土曜日

願わくは花の下にて・・・



 今日は近所の公園へ桜を見に行った。五~八分咲きという

ところだったが、コロナの件があって、さすがにシートを広

げて宴会などということは誰もしていない。でも、そこそこ

人が来ていた。


 ソメイヨシノは、江戸時代に江戸の染井村の植木屋で、エ

ドヒガンとオオシマザクラの雑種として偶然生まれたとされ

ている。一代雑種なので種からは育たず、挿し木、取り木な

どの方法で増やされ、現在まで受け継がれているものだ。な

ので、江戸時代の日本では、今のように全国中どこでも春に

はサクラが咲き乱れるということではなかった。日本がここ

までサクラだらけになったのは、昭和以降のことで、それも

年ごとに加速して行き、いまは日本の歴史上、最もサクラが

多い時代となっている。


 至るところでソメイヨシノが咲いているのを見ると、「こ

の時代に日本に生まれて生きていることはラッキーだなぁ」

と思う。サクラの下に座って人と話したり、サクラの下を散

策するあのなんとも平和で穏やかな気分というものは、他で

は味わえないものだ、それを、現代のわたしたちはごく身近

に味わうことができる。

 自粛なんてせずに、サクラぐらい見に行ってもよかろう。

その方が人の健康に資すると思うけどね。穏やかでいい気分

の時間を過ごすことは、身体も穏やかでいい状態にするので

はなかろうか。


 〈 願わくは 花の下にて 春死なん  

                              その如月の望月のころ 〉 西行


 西行の生きた時代にソメイヨシノは無かったので、この

「花」はヤマザクラだろうか。

 私も、願わくは花の下で春に死にたいところだけど、ま

ぁ、贅沢は言えない。でも、病院でチューブだらけにされて

死ぬのはヤだなぁ。


 『同期の桜』という歌のせいもあってか、サクラには「は

かない」とか「散りゆく命」といったイメージがいまだに少

し付きまとう。

 西行の時代は、はるかはるか昔だが、その西行が「願わく

は花の下にて春死なん」と詠んでいるその意味合いは『同期

の桜』とはかなり違うだろう。


 西行の「桜」は “自分と同じ自然の一部” であるのに対し

て、『同期の桜』の「桜」は “社会の一部” と言っていいだ

ろう。

 西行がわざわざ「願わくは花の下にて春死なん」と詠んだ

のは、その頃すでに、社会との関わりに嫌気がさしていた

いうことだろうけど、西行の頃から時代が進むにつれて、人

間の中で社会の占める割合は増え続け、『同期の桜』が作ら

れた頃には、人の存在は、 “自然” よりも、はるかに “社

会”  に依存したものになっていたのだね。

 そして、それからさらに80年程が経ったけれど、人の存

在は、より “社会” に依存したものになっているようだ。


 『同期の桜』では、「見事散りましょ、国のため」と歌わ

れていたけれど、今では「個人の為には国が散ってもいい」

という感じだね。だから社会が大混乱しても個人を守る。

 そのようなことを考えれば、今は、社会が個人をとても尊

重しているようにも思えるが、そうではない。「この社会

は、個人を守ろうとして守れないような管理能力の低いもの

ではない」と、社会自身が己(社会)の “全能性” を守り、

アピールしたいのだろうな。


 西行の頃も、今も、社会の妄想に関わっていると「死にた

く」なる(実際に死んでしまったりする)。


 社会の言い分に対しては、「そういう見方もあるね」とい

った感じで受け取っておいて、桜を楽しむぐらいはしていい

だろう。

 当然ながら、社会の誕生は人類の誕生より後だからね。


 〈 願わくは 花の下にて いま生きん  

                     この春風の やさしさの中 〉 yamasho