2020年4月25日土曜日

沈黙の木には平和の実がなる



 《 沈黙の木には平和の実がなる 》


 これはアラビアの格言だそうだ。


 前回もこの言葉から始めたけど、今回は、この言葉から違

う方向へ向かう。

 「平和」とは、「沈黙」のことではないだろうか?


 わたしたちの口が沈黙し、さらにわたしたちのアタマが沈

黙したら、いったい何がわたしたちを乱すだろう?「沈黙」

とは、「平和」の別名である。


 とはいえ、わたしたちはそう簡単に「沈黙」できない。

 口を閉ざすことはできたとしても、アタマを「沈黙」させ

ることはほぼ不可能だろう。なので、「平和」が実現される

ことは絶望的に少ない。「平和」とは幻想なのだろうか。

 いや、「平和」は幻想ではない。それどころか、実のとこ

ろ、わたしたちは常に「平和」なのだ。

 

 「どこが平和なんだ!人と人は四六時中争ってるし、災害

はしょっちゅう起こる。今は恐ろしい感染症が世界を震撼さ

せているじゃないか!」


 確かにそうなんですが、先ほど書いたように、“実のとこ

ろ” 「平和」なんです。


 「平和」は、“実のところ” にあるのです。“実の所” に。


 “実” の反対は、“虚” ですね。

 わたしたちが生きている社会、人と人の約束事でできてい

る世界は “虚” の世界です。

 それを「虚(ウソ)」とまでは言いませんが、「虚(うつ

ろ)」な世界です。実体の無い、霧に映る影のようなもので

す。すべてが約束事でしかなく、人の思考と感情が投影され

た作り事の世界なので、そこに落ち着くことはできません。

 投影された世界を維持するために、休むことなく、思考と

感情を投射し続けなければならないので、そこでは「沈黙」

も「平和」も成り立たないのです。「沈黙」など不可能なの

です。わたしたちは「沈黙」することなどできません。


 しかし “実の所” は、常に「沈黙」しています。

 “実の所” は、常に「平和」です。

 わたしたちのアタマが「おしゃべり」し、「思考」するた

めには、それが現れる “場” がなければなりません。文字を

描く白紙の紙や、映像を映す無地のスクリーンや、言葉をや

り取りできる静けさのようなものが。


 わたしたちが、「おしゃべり」し「思考」できるというこ

とは、わたしたちの中に、この世界に、その “場” が在ると

いうことです。

 わたしたちが「おしゃべり」し、「思考」することを止め

られなくても、その背景には、常に、「白紙」の「無地」の

「静かな」、“場” が在る。実のところ、わたしたちの本質

は “「沈黙」の場” であり、「平和」なのです。


 「おしゃべり」しながら、「思考」しながら、実のところ

は「平和」だという気付きがあればそれでいいのです。一度

気付いてしまえばそれで済んでしまうのです。


 “沈黙しよう”  “穏やかでいよう” などと、「思考」をコン

トロールしようとする必要はない。その “場” が在ることに

気付いてしまえば、それは意識しなくても失われることがな

い。

 「ああ。平和は、ここに、いつでも、在るのだな」

 一度、それを知ってしまえば、もうそれで済みです。

“虚” の世界で、平気で “現実(幻実)” に振り回されて苦し

んでいることができます。


 振り回され、苦しみながら、「平和」なんです。

 アタマがやかましくしゃべり続けている最中も、「静か」

なんです。


 自分が、世界が、どのように荒れ狂い、乱れていようと

も、わたしたちは、 “実のところ” 「平和」なんです。




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