2020年4月29日水曜日

生きるとは、決まった目的を持たぬこと



 ちょっと前、『ヒューマニズの破綻』(2020/4/18)と

いう話を書いた時、最後の方でこう書いた。


 〈本当の意味で「命」と「尊厳」を見つめ直して、「生き

る」とは “何” なのかを問わなければならない。その答えが


出るまで、自分と世界に関するあらゆる答えは、 “保留” 


だ。〉




 こう書いた時、すぐに「最初から最後まで “保留” だな」

と思ったのだが、その時はそこまでは書かなかった。その時

の話の流れっていうものがあるからね。

 で、今日は “保留” の話です。


 〈「生きる」とは “何” なのか? 〉


 答えは “保留” です。

 答えを保留にするのではなくて、答えが “保留” なんです

よ。


 ヘルマン ヘッセ が、こういう言葉を残している。


  見出すとは、自由であること、

  ひろく心をひらいていること、

  決まった目的を持たぬことなのです


 私は、ドイツの詩人であるということ以外に、ヘルマン 

ヘッセ のことを全然知らないが、この言葉は昔から大事に

している。


 この言葉の冒頭の「見出す」を「生きる」に代えれば、私

が “保留” といっている感じが分かってもらえるのではない

だろうか。


  生きるとは、自由であること、

  ひろく心をひらいていること、

  決まった目的を持たぬことなのです


 そもそも、「オギャァー」と生まれた時に、誰も目的など

持っていない。

 目的が無ければ「自由」だ。

 目的が無ければ「心はひろくひらかれて」いる。


 「目的」というものは、世界の中の “ある一点” です。あ

る一つの状況です。

 「目的」を持つ時、わたしたちは世界の残りのすべてを見

失う。

 さらに、「目的」というものは、わたしたちのアタマが作

り上げる約束事の中にあるものであって、世界に実在してい

るものではない。結局、わたしたちは「目的」を持った瞬間

に、世界のすべてを見失うことになる。自分の生きている世

界を見失っては、とてもじゃないが「生きている」とは言え

ないだろう。


 「生きる」とは、この世界を「見出す」ことだろう。

 「見出す」とは「気づく」ことだろう。

 「生きる」とは「気づいている」ことだろう。


 アタマのでっち上げる「目的」に囚われることなく、ある

いは囚われながらも、その囚われている自分自身や世の中の

“囚われている姿” に「気づいて」いられれば、わたしたち

は世界の “本当” を「見出す」ことができるだろう。世界を

実感し、世界の中に “本当” に在ることができるだろう。そ

れこそが「生きる」ということだろう。


 「気づいて」いなければ、「生きていない」というわけで

はない。「気づいて」いようが「気づいて」なかろうが生き

ている。けれど、「気づいて」いないまま生きて行くこと

は、自分が莫大な遺産を相続していることを知らずに、貧乏

暮らしをするようなものだろう。


 “保留” とは、「保ち」「留める」と書く。

 「目的」の無いまま、あるいは「目的は仮のものでしかな

い」という「気づき」を保ち、「自由」という無重力状態に

留まる。そんな、はなはだ心もとない在り方が、心を「広く

ひらかせ」、「生きている」ことの “本当” を見いださせ

・・・。


 (目的を持たなければ、こんな話をでっち上げることもで

きてしまうのです)





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