2020年4月21日火曜日

愛してます



 《 沈黙の木には 平和の実がなる 》


 これはアラビアの格言だそうだ。

 頼まれもしないのに、こうしてブログを書いている私なん

ぞは、平和から程遠いのだろう。しかし、なんだって私はこ

んなことをしているのだろうか?


 ここ三か月ぐらいは、コロナウイルスに関することで、自

でも「不用意だ」と思うぐらい口から出まかせを書き散ら

てきた。今にして思えば「ああ、コロナウイルスの “スト

リー” に感染して、発熱していたんだなぁ・・・」などと

う。

 ただの妄想でしかない話もあれば、「なるほど」と思うよ

うな話もあるだろう。しかし、いずれにせよしゃべり過ぎだ

ろうな。《沈黙の木には 平和の実がなる》のだ。

 でも、それを言い出したら、ブログなんか書いていられな

い。

 何がそうさせるのかは知らないが、私はまだブログを書き

続けるようだ。


 沈黙の中に生きて、平和になって、そのまま平和のまま沈

黙の中に居続けたら、それは人としては存在しないのに等し

い。「植物状態」か「閉じ込め症候群」のようなものだろ

う。「沈黙の中に生きる」なんて言えば、ALS の患者さん

は怒るだろうね。「いつでも代わってやるよ!」と。


 ゲーテはこんな言葉を残している。


 《 もはや愛しもせねば 迷いもせぬ者は

                埋葬してもらうがいい 》


 しゃべり過ぎるのは良いことではない。アタマの暴走だ。

 不用意にしゃべるのも良くない。アタマの迷走だ。

 けれど、人はしゃべる。しゃべっていい。だって、しゃべ

る機能が与えられている。ただ、それが喜びや楽しみにつな

がるようにする器量なり智慧がなくてはならない。


 「沈黙の木には平和の実がなる」だろう。それは間違いな

いだろう。けれど、その実にはきっと “種” が無い。

 沈黙を破ることは、平和を乱す。けれど、そのリスクを避

けていては、平和を伝えることはできない。一代限りで平和

の木は終わる。


 お釈迦さまは、悟った後にそれを人に伝えるべきかどうか

さんざん迷ったという。なぜなら、言葉は不完全なものだか

ら、伝えるどころか、誤解を招くばかりになってしまうかも

しれないのだ。けれど、お釈迦様は結局伝え始めた。「たと

え百万人に一人でも救われるなら。“救い” に気付くなら。

自分一人で終わるよりもマシだ」そう思ったのだろうと思

う。

 というわけで、お釈迦様でもしゃべるのだ。私がしゃべっ

たところで、口から出まかせを言って笑われたところで、怪

しむに足りない。


 「しかし、お釈迦様を引き合いに出すか?」

 そう思われるかもしれない。けれど、お釈迦様は「我与大

地有情、同時成道」と言われた。お釈迦様が悟った時、過去

と未来のすべての存在が悟ったのだ。だから、アタマの働き

に埋もれているとはいえ、少し掘れば私の中にも「悟り」が

ある。その、少し覗いてる「悟り」を他の人にも見てもらい

たい。

 「ほら!おんなじものがあなたの中にもあるよ」と。


 《 もはや愛しもせねば 迷いもせぬ者は

                埋葬してもらうがいい 》 
 

 まだ、埋葬される予定は無いようなので、「迷いながら」

「自分で呆れながら」「後悔しながら」、私はこのブログを

書いてゆく。だって、愛してるからね・・・。あなたを。


 (しかし、何言ってんだろう? やっぱり《沈黙の木には

平和の実がなる》んだな)




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