2020年4月17日金曜日

苦しむために生まれてきたのか?



 何日か前、YouTube で竹内まりやの昔のアルバムを聴い

た。『ポートレイト』というアルバムで、昔持っていたのだ

が、阪神大震災の時に失ってそれっきりになっていて、本当

に久しぶりに全曲を聴くことができた。しかし、リリースが

1981年・・・。もう四十年前である。しばし茫然とす

る・・・。年を取ったのだなぁ、私も竹内まりやも・・・。


 それはともかく、あらためて聴いて、いいアルバムだと思

う。どの曲もいいのだが、特に好きなのが「僕の街へ」とい

う曲と「雨に消えたさよなら」という曲。で、「雨に消えた

さよなら」の中の歌詞に、大事に思っているフレーズがあ

る。


 苦しむために人は出会わない 

 しあわせになりたかった

 たった それだけなのに


 これは恋の歌で、その出会いの事を歌っているわけだけ

ど、この曲を初めて聴いた時から、私はこう受け止めてい

る。


 苦しむために人は生まれない

 しあわせになりたかった

 たった それだけなのに  
 

 まるで苦しむために生まれてきたかのような人生がある。

 ものごころもつかぬ内から親に虐待され続けてしまった

り、極貧の中でようやく生きていると言うしかない暮らしだ

ったり、折悪しく紛争の只中に生まれてしまったり・・・。

 そういう人生を生きなければならない人にかける言葉を、

私は持っていない。ただ、もしそのような人から「わたしの

人生をどう思う?」と尋ねられたら、話せることはあると思

う。


 苦しむために人は生まれない。


 そうであって欲しい。

 けれど、生きることは苦しい。それが普通だし、すべての

人間がそう思いながら、人生の大半を過ごす。でも、苦しむ

ために生きているわけじゃない。

 人は、“しあわせ” を生きるために生まれてくるんだ。


 とはいえ、先に挙げたような状況にあって「 “しあわせ” 

を生きる」なんて言われたら、「ふざけんじゃねぇ!」と言

いたくなるだろう。私だったらそう言うに違いない。

 自力でどうにかできるような状況じゃない。何の因果か、

運命にもみくちゃにされ、抜き差しならない。苦しくて恐ろ

しくて死んだ方がマシだと思う。けど、死ねない。あまりの

理不尽さに、震えながら泣いている・・・。けれど、そんな

人生でも、死にたいばかりの日々が延々と続いても、やっぱ

り苦しむために生まれてきたわけじゃない。


 苦しい、恐ろしい、死にたい。

 でも、それでも、いま生きている。ほんのわずかばか

り、“生きる働き” がまさっている。その、ほんのわずかな 

“生きる働き” の中に、過酷な運命にも触れられないものが

ある。

 運命の外に在って、自分の中に在るもの・・・。

 それに意識を向ける。

 そこから運命を観る。

 その絶対さと、無限を味わう。


 実際に酷く苦しくても、その最中でも「生きている」。生

きているかぎり、自分の中には “それ” が在る。


 運命の外に在って、自分の中に在るもの・・・。

 それをそっと抱きしめながら、それを愛おしみながら生き

ることを、「“しあわせ” を生きる」と言う。


 実際にどんなに苦しくても、人は苦しむために生まれてく

るんじゃない。

 その運命が過酷であればあるほど、なおさら苦しむべきじ

ゃない。

 苦しみに取り囲まれた、そのただ中の自分の中に、なにも

のにも侵されない〈自分〉が在る。途方もない安らぎと共

に・・・。 


 苦しむために人は出会わない 

 しあわせになりたかった

 たった それだけなのに・・・
 




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