2020年6月21日日曜日

「誠実」について



 Tou Tube で昔の洋楽を聴いていたら、ビリージョエルの

「Honesty」が出て来たので、久しぶりに聴いた。


   「誠実」・・・、それはなんて虚しい言葉だろう  



 ビリージョエルはそう歌う。

 確かにそう思う。いい歌だ。世の中に「誠実」を求めたっ

て、そんなものまず見つからない。ただ、そもそも世の中に

「誠実」を求めることがお門違いだろう。「誠実」は、世の

中や他人に求めるものではなくて、自分に求めるものだろう

から。

 誰かが自分に対して「誠実」であってくれることは、もち

ろん嬉しいことである。けれど、「誠実な人」は自分自身が

「誠実」であることが最も嬉しいことであるので、他人が

「誠実」であるかどうか、世の中が「誠実」であるかどうか

は、「誠実な人」にとっては二の次だ。


 社会的、世間的に「イイ思いをしよう!」なんて考え方の

人間にとっては、「誠実」なんて、笑ってしまうようなこと

だろう。

 「世の中にはバカもいるもんだ」ぐらいの・・・。


 確かに、「誠実」は世の中では役には立たない。

 あなたが「誠実な人」であっても、その「誠実」はあなた

の財産も守れず、あなたの大切な人も守れず、あなたの命さ

え守れないかもしれない。

 けれど、「誠実」はあなたの「尊厳」を守る。「尊厳」を

守れるのは「誠実」だけだ。そして、人が本当に守るべき価

値が有るものは「尊厳」だろう。


 実のところ、「誠実」とは “「尊厳」が働きとして現れる

ことを指す言葉” だろうと思う。「誠実」と「尊厳」は同じ

ものだ。


 しかし、「誠実」も「尊厳」も、とても難しい言葉だ。笑

い飛ばすのは簡単だが、それを定義して受け止めるのには、

覚悟が必要だろう。

 「誠実」や「尊厳」を本気で定義した瞬間、人は自分自身

の根本を自分に  と同時に、世界に  問われると言って

よい。「誠実」とは何か? 「尊厳」とは何か?


 ・・・・ビリージョエルのせいで、えらい話題に手を出し

てしまった。



    「誠実」、それはなんて恐ろしい言葉だろう  



 私なら、そうも歌うだろう。

 ホント、迂闊なことは言えない。真っ当に定義してしまえ

ば、もう自分をごまかせない。逆に、ごまかしの定義をすれ

ば、自分の「真っ当でなさ」に自己嫌悪する羽目になる。え

らいことになった・・・。


 でも、仕方がない。

 では、「尊厳」とは何か? 


 「尊厳死」という言葉があるように、「尊厳」は身体的な

命よりも高次なものであり、命に先立って存在するようなイ

メージを持たせるものだと言える。

 こう定義したい、《「尊厳」とは、「存在」という “絶対

価値” の事である》と。

 そして「尊厳を守る」とは、「存在」という “絶対価値” 

を見失わないということであり、その意識の在り方、態度を

「誠実」というのだと。


 先ほども書いたように、「誠実」は自分の財産も大切な人

も自分の命も守れないかもしれない。けれど、「尊厳」は守

ることができる。誰も「誠実な人」の「尊厳」を損なうこと

はできないのだ。

 「誠実な人」の「尊厳」を無視し、社会的に辱めることは

できる。貶めることもできる。財産を奪うこともできるし、

命さえ奪うこともできる。けれど、その人が「誠実」である

限り、その「尊厳」を損なうことはできない。人が「尊厳」

を損なうのは、自分自身の《「存在」という “絶対価値” 》

を見失った時だけだ。

 「尊厳」を損なうことができるのは自分自身によってだけ

である。つまり「誠実」でなくなった時、人は自らの「尊

厳」を損ない、他者の「尊厳」も見失う。


 違う言い方をすれば、「尊厳」とは “在ること” に対する

畏怖であり、「誠実」とは “在ること” に対する敬意だろ

う。
 

 たいそうなことを書いてしまった。大袈裟なのは良くない

のだが・・・。

 まぁ、そんなことはともかく、ビリージョエルはいいね。





 

2020年6月18日木曜日

さしあたり、今日も生きてみる



 ちょっと気になって、前回のブログを読み返してみた。

「つまらないこと書いてるな・・・」と思ったけど、まぁ、

そのままにしておこう。それはそれだから。


 生きる目的は、「死なないこと」だろうか?


 違うね。生きることは、「やがて死ぬ」ことだからね。

 そもそも、生きることに目的は無い。それが一般常識だろ

う。でも、あえて生きる目的を言うのなら、「生きてみるこ

と」ではないだろうか?


 「生きてみる」


 と言ったところで、たまたま生きていられるだけだから、

「自力で生きてみる」という感覚なら、少し傲慢ではある。

「生きさせられてるから、さしあたり生きてみる」というの

が妥当だろうね。偶然「ミステリーツアー」に参加したとい

う感じで、「どこへ行くのかな?」ってね。


 そんな感じで、“お客さん” でいた方がしあわせなんだろ

うと思うね。「生きる!」とか「生きよう!」とか、主役を

張ろうとしないで、どちらかといえば脇役でさえなく

て・・・。


 「生きてる」から、何にもせずにただただ観客でいるわけ

にもいかない。なので、照明とか音響とかの担当みたいに、

「ちょこっと働きながら脇から舞台(世の中)を見てる」。

そんな立ち位置がいいのではないだろうか。そんな感じが

「生きてみる」ということだろう。


 舞台の上は勘違いした人間がいっぱいいる。

 「生きる!」って熱を出してる人間たちがうようよしてい

て、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、トラブルばっか

り起きている。そのトラブルをトラブルだと気付けもしない

で、かえってそれに興奮して、“達成感” みたいなものまで

感じて陶酔してたりする「アドレナリン中毒者」が、早足で

行き交う・・・。人は、演じる為に生まれてくるのではない

だろうに。


 あ! いま重要なことを書いたようだ。


 《 人は、演じる為に生まれてくるのではない 》


 当然ながら、「演じる」とは “本当の自分ではないものに

なる” ということだ。演じ続けている限り、“本当の自分” 

の出る幕は無い。そして、出る幕の無いまま、やがて幕は下

りる・・・。それを「生き損ねる」という。「生きよう!」

としたはずなのに、「生きた」のは、自分が演じたキャラク

ターでしかなかったのだ。


 人は誰も、なぜだか不思議に「生きている」ものだ。

 「生きよう!」ともがいても、なぜだか不思議に死んでし

まうものでもあったりする。

 「生きよう!」とするから「生きている」のではない。ど

ういう成り行きだか「生きている」のだ。その “成り行き” 

が尊いのではないだろうか?


 “成り行き” にまかせて、今日も生きてみる。

 さしあたり、今日も生きているので、生きてみる。


 変わりばえしないことを慈しみ、変わったことを面白が

り、世界からもたらされる “今” を生きてみる。





2020年6月13日土曜日

「アフターコロナ」というミスリード  コロナ ㉓



 この頃よく耳にする言葉が「アフターコロナ」。

 コロナウイルスの騒動を契機に、世界がどう変わるかとい

った文脈で出て来るのだが、私は「コロナウイルスの騒動を

契機に世界が変わる」とは思っていない。すでに世界が変わ

っていた結果として、コロナウイルスの騒動が起きたのだと

考えている。今回の騒動は「契機」ではなくて「結果」だ。

私たちの社会・意識がかなり極端な変容を遂げてきた結果と

して、今回のコロナ騒動が起きたのだ。


 人は何千年も自分たちの置かれている環境と状況をコント

ロールしようとしてきた。それは人として当然のことであっ

たと言える。けれど、その “コントロール願望”   “コン

トロール神経症” とでも言うべきだろうか?  がある程度

のレベルを超えると今回のような事が起こる。

 科学・医学が発達(?)して、かなり細かなところまで自

然を統御できるように思えてきたので、自分たちの置かれて

いる環境・状況を、気に入るようにコントロールせずにはお

れなくなった。コントロール出来るという思いが消せなくな

ってしまった。その勘違いなり、思い上がりが、今回の狂騒

を生み出したのだろう。実際にやっていることといったら、

中世のころと代わりばえしないのだが、意外とそのことに気

付いている人は少なそうだ。


 アフター「コロナ」はなく、「コロナ」以前にその契機と

なる何かがあったはずで、そこにこそ意識を向けるべきだろ

うと思う。
 

 いつ頃からかよく分からないけれど、「危機管理」、いわ

ゆる「リスクマネジメント」(小池百合子風、または専門家

委員会座長風に言ってみた・・・)という言葉が使われ始め

たのだが、そのあたりに何かがあったのではないかと、私は

にらんでいる・・・。「安心安全」という言葉が頻繁に使わ

れるようになったのもそのあたりじゃないのだろうか。

 ちなみに、ホリエモンが「想定内」という言葉を流行らせ

たのは2005年らしいが、「安心安全のために危機管理を徹

底し、すべてを想定内に収める」という感覚が、現代人の常

識として強く根付いたのは、ここ20~30年ぐらいのことな

んだろうな。いったい何が契機になったのか?

 「9・11」か?日本の「バブル崩壊」か?もっと別の何か

があっただろうか?そのあたりがよく分からない。世界的

に、人々の意識を「安心安全」に強く向けさせる何かがあっ

たのではないだろうか。いずれにせよ、「人類は賢くなった

のだから、さまざまな問題をコントロールして、危機を回避

できる!」と錯覚し始めたのだな。その “「賢くなった」ア

タマ” が悪さをするのに・・・。


 今回のことも、「危機を回避」するつもりで、「危機」と

は言えないような現象を過剰に問題視して、「危機管理」で

はなく「危機化管理」(危機ではないことを危機になるよう

管理すること)してしまったとしか見えない。 

 「想定外」の「不安危険」にパニックを起こして、想定で

きるはずの不要な混乱を引き起こしてしまった。「不安によ

る混乱の伝播」、いわゆる「不安パンデミック」(小池百合

子風、専門家委員会風に私も言ってみたい・・・)により、

ほとんどの人が事の本質を見誤ったのだ。ああ、アタマが悪

い。


 「『安心安全原理主義』という言葉が一般化すればいいの

になぁ」と思う。そういう言葉があると知るだけで、人の意

識は少し変わるはずだから、アタマの悪さにブレーキが掛か

る。

 それに「危機」というものは「管理」するものではない。

「管理」から外れているからこそ「危機」なのだか

ら・・・。

 「危機」は「管理」するものではなく、「対応」(あるい

は「対処」)するものだろう。人が生きて行くためには「度

量」というものが求められるのだ。「度量」にもいろいろあ

るけどね  そのあたりは『シン・ゴジラ』が参考になるの

ではなかろうか?


 「アフターコロナ」という世界があるとすれば、世界がこ

れまで以上にせせこましく生き辛くなることを意味するのだ

ろう。・・・やだなぁ~・・・。


 「生きる目的」は「死なないこと」だとでもいうのか?



 もう一度書いておこう。

 ある日、時の総理大臣がこうコメントするだろう。


 「生きていると、どうしても死ぬことを避けられません。

ですから、国民の皆様におかれましては、できるだけ “生き

ない” ようにして下さい・・・」



 同じ意味合いの事を、もうすでに安倍総理が現実に言って

しまったけれどね・・・。(『コロナウイルスには殺されな

くても、社会に生殺しにされる』2020/2 )


 「街へ出てウロウロして、本当はどうでもいいことに必死

になって、経済を活性化させて、社会を機能させること」

が、「生きること」ではないけれど、現状の「生きてなさ」

は、あまりにもアタマが悪すぎるよ。



 
 

2020年6月7日日曜日

ユウスゲのこころ



 昨夜からユウスゲが咲き始めた。苗を買ってからもう五年

ぐらいだろうか? ユリ科で、よく名の知られたニッコウキ

スゲに近い種だが、一晩だけ咲いて翌朝にはしぼんでしま

う。レモンイエローの、よい香りがする、どことなく気品を

感じさせる花だ。


 この花は、『求めない』を著した加嶋祥造さんが愛した花

でもある。

 私がこの花を手に入れて育てたいと思ったのが、加嶋さん

の影響だったかどうかは、もう憶えていない。けれど、同じ

花を愛しく感じること、ましてや一晩の間だけ人知れずに咲

く花に親しみを覚えるなどというのは、何か特別な縁を感じ

る。ホントは「縁」に特別も何もないんだけれど・・・。


 夜の野で、すう~っと背を伸ばした一輪の花が、夜が明け

るまでの間だけ、当然の事として自身を咲いている・・・。


 ユウスゲは、その香りで蛾を誘っているのだろうし、その

レモンイエローは、蛾などの夜行性の昆虫には目立つのだろ

う。マツヨイグサなどの夜に咲く花も黄色だし・・・。そし

てその形は、関わりの深い虫が訪れた時に、受粉しやすいよ

うになっているのだろう・・・。

 そのように、ユウスゲの姿からも自然界の合理性が見て取

れるけれど、それですべてというわけでもないだろうな。こ

の世界は、実利的なことだけでは説明しきれない。そもそも

「説明」が野暮だとも言えるし・・・。



 「美しい・・・」

 単にそれだけでいい。人が花を見て「美しい」と感じるこ

と自体が説明不能なんだし、それで十分であって、他の見

は、どちらかといえばオマケだと言っていいだろう。はな

ら、ユウスゲは何も語っていないし、語らないからこそ「美

しい」のかもしれない。

 何も語らず、ただ一晩、闇の中で沈黙のうちに咲き続け

て、朝にはやはり沈黙のまましぼんで往く・・・。人間とは

えらい違いだ。


 求めない・・・。

 その香りで蛾を誘っていると人は考えるけれど、それはユ

ウスゲ自身の為なのか、蛾の為なのか? あるいは、別の何

かの為なのかもしれない。本当のところ、ユウスゲは何も求

めてはいないのだろう。そこに、「蛾を誘って受粉する為

だ」という見方を持ち込んでしまうのは、人の業なのだと考

えた方がよいのではないか? もう、そういう時代になって

きたような気がする。


 ユウスゲはジグソーパズルのピースのひとつの様に、た

だ、そこに在るべき姿としてそこに在るだけで、世界の関係

性が生み出した “自身” をただ生きるだけ。本当はわたした

ち一人一人もそうなのだ。社会的な実利性・功利性といった

ものに、こころの底まで侵され、わたしたちは “本質的な価

値” が見えなくなっている。


 “本質的な価値” とは何か?


 求めないこと。

 求めないでいられること。


 それは、今の自身の在り方に満足していることを意味す

る。



 ユウスゲの姿が語っている。


 「この世界が自分を生み出して、いまここで自分を咲かせ

ている。いまここで、こうして自分が咲いていることが自分

のすべてだ。それ以外に、いったい何がある?」



 私がこのパソコンを閉じ、眠ったあとも、ユウスゲは夜の

を咲き続ける。

 すう~っと、静かに、その美しさを誰に誇るでもなく、そ

の在るべき在り方で・・・。



2020年6月6日土曜日

答えは無い



 答えは無い。・・・いや違うな、「正解は無い」というの

が正解だな。

 タイトルを付け直そう。

 

 〈 正解は無い 〉



 このタイトルには、二通りの意味がある。

 一つめ、「この世界のどんな問題にも正解は無い」

 二つめ、「そもそも問題が存在しないので、正解も無い」


 一つめについては、これまでにもこのブログの中で、そう

いった話を書いてきた。

 この世界のどんな問題に対する解答も、すべては暫定的で

便宜的なものであるとうこと。表れた解答を「正解」とする

かどうかは、人それぞれ、その時々の都合・気分によるので

あって、《「正しい」とは、そういうことにしておけば気が

済むということ 》なのだと。


 数学のような、アタマの中で完全に合理性だけが支配する

事柄には「正解」が存在するが、それとて「〈 1+1=2 〉

ということにする」という約束の上に成り立っているのであ

って、言わば「正解があることとして・・・」というお話し

だ。

 その数学を利用して、現実世界でさまざまな事が出来る。

探査機を小惑星に着陸させたり、世界をリアルタイムで通信

網で繋いだり・・・。だからといって、“数学は現実世界に

も「正解」が存在することを証明している” ということには

ならない。


 数学(計算)が現実世界で有用で、現代ではもの凄いこと

を成し遂げているように見えるのは、コンピューターの発達

で計算の誤差がとてもとても小さくなって、人間の感覚的に

は「完全」であるかのように見えてしまうからだ。

 しかしそれはどこまで行っても、「精度が高まる」という

ことにとどまる。それを越えて「完全」になることはできな

い。人が現実世界を合理性だけで捉えるのは不可能だ。なぜ

なら、現実世界には “1” というものが存在しない。“1” は

概念として、人の頭とコンピューターの中だけに存在するも

ので、それを現実世界に持ち出すことはできない。

 「1+1=2」という時の、一つめの “1” と、二つめの 

“1” は、まったく同じものでなければならないのだが、現実

の世界にはまったく同じもの二つと存在しないので、現実

世界では、数学は「計算の誤差(精度の限界)の許容範囲」

内でのみ “「正解」という夢” を与えることができる。

 事程左様に、世界に「正解」は無いのだが、アタマはそれ

自身の中に「正解」というものを持つことができるので、ア

タマの外にも「正解」があり得ると錯覚しがちだ。そのこと

がさまざまな問題を生んでしまうのだが、あわれなアタマは

そのことを理解しようとはしないのが普通なのだ。困ったも

んだ。


 では、二つめ。

 この世界にはそもそも「問題」というものが存在していな

い。「問題」が無いのだから、「正解」などというものの出

る幕も無い。

 「問題」というものも、わたしたちのアタマの中にしか存

在しない。

 世界には「問題」など無いので、「正解」どころか「答

え」も存在し得ない。世界はそのまま、あるがまま、「世

界」としてアタマの外に在る。言うなれば、“世界は、こち

らが問いかける前から答えている”

 なので、わたしたちは問うことなどせずに、ただ “世界の

え” を見て聞いていればそれでいいということなのだ。


 答えは無いというところから始めたけれど、答えはあった

ね。

 アタマの外に・・、アタマが理解できない形で・・・。