2020年6月6日土曜日

答えは無い



 答えは無い。・・・いや違うな、「正解は無い」というの

が正解だな。

 タイトルを付け直そう。

 

 〈 正解は無い 〉



 このタイトルには、二通りの意味がある。

 一つめ、「この世界のどんな問題にも正解は無い」

 二つめ、「そもそも問題が存在しないので、正解も無い」


 一つめについては、これまでにもこのブログの中で、そう

いった話を書いてきた。

 この世界のどんな問題に対する解答も、すべては暫定的で

便宜的なものであるとうこと。表れた解答を「正解」とする

かどうかは、人それぞれ、その時々の都合・気分によるので

あって、《「正しい」とは、そういうことにしておけば気が

済むということ 》なのだと。


 数学のような、アタマの中で完全に合理性だけが支配する

事柄には「正解」が存在するが、それとて「〈 1+1=2 〉

ということにする」という約束の上に成り立っているのであ

って、言わば「正解があることとして・・・」というお話し

だ。

 その数学を利用して、現実世界でさまざまな事が出来る。

探査機を小惑星に着陸させたり、世界をリアルタイムで通信

網で繋いだり・・・。だからといって、“数学は現実世界に

も「正解」が存在することを証明している” ということには

ならない。


 数学(計算)が現実世界で有用で、現代ではもの凄いこと

を成し遂げているように見えるのは、コンピューターの発達

で計算の誤差がとてもとても小さくなって、人間の感覚的に

は「完全」であるかのように見えてしまうからだ。

 しかしそれはどこまで行っても、「精度が高まる」という

ことにとどまる。それを越えて「完全」になることはできな

い。人が現実世界を合理性だけで捉えるのは不可能だ。なぜ

なら、現実世界には “1” というものが存在しない。“1” は

概念として、人の頭とコンピューターの中だけに存在するも

ので、それを現実世界に持ち出すことはできない。

 「1+1=2」という時の、一つめの “1” と、二つめの 

“1” は、まったく同じものでなければならないのだが、現実

の世界にはまったく同じもの二つと存在しないので、現実

世界では、数学は「計算の誤差(精度の限界)の許容範囲」

内でのみ “「正解」という夢” を与えることができる。

 事程左様に、世界に「正解」は無いのだが、アタマはそれ

自身の中に「正解」というものを持つことができるので、ア

タマの外にも「正解」があり得ると錯覚しがちだ。そのこと

がさまざまな問題を生んでしまうのだが、あわれなアタマは

そのことを理解しようとはしないのが普通なのだ。困ったも

んだ。


 では、二つめ。

 この世界にはそもそも「問題」というものが存在していな

い。「問題」が無いのだから、「正解」などというものの出

る幕も無い。

 「問題」というものも、わたしたちのアタマの中にしか存

在しない。

 世界には「問題」など無いので、「正解」どころか「答

え」も存在し得ない。世界はそのまま、あるがまま、「世

界」としてアタマの外に在る。言うなれば、“世界は、こち

らが問いかける前から答えている”

 なので、わたしたちは問うことなどせずに、ただ “世界の

え” を見て聞いていればそれでいいということなのだ。


 答えは無いというところから始めたけれど、答えはあった

ね。

 アタマの外に・・、アタマが理解できない形で・・・。







 


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