2019年8月28日水曜日

夏休みが終わる・・・、死んでも死ねないよ。



 夏休みが終わる・・・。


 死にたい?


 死んでもいいけど、死んでも、死ねないよ。



 君を「死にたい・・」と思わせてる人がいるわけだけど、

その人は生きてるんだろうか?


 君を「死にたい・・」と思わせる人はね、実は生きていな

いんだ(どういうことかは、ここでは説明しないけどね)。

ほとんど死んでるんだ  ゾンビだね。だから、そういう人

と関わると、その人の「死」が君の方にまで流れ込んでく

る。だから「死にたく」なるんだよ。


 ゾンビに死の世界へ引き込まれないためには、逃げるしか

ない。

 だけど、君はもうすでにゾンビの持つ「死」の影響を受け

てしまっているので、「死ぬ」という一番確実に思われる逃

げ方を考えてしまう・・・。でもね、死んでも、死ねない

よ。


 死ぬと「全部無くなっちゃう」と思うだろうけど、自分か

ら死ぬのは「逃げるため」だから、“逃げたい自分” という

のは残るわけさ。どこに残るかというのは自分で考えて欲し

いんだけど、そういうのを《魂魄(こんぱく)この世にとど

まりて・・・》って言うんだよね。つまり “亡霊” になっち

ゃうんだ。ゾンビから逃げて亡霊になってたんじゃ、逃げた

甲斐がないね。


 もっと上手に逃げようよ。

 いや、上手に死のう。


 君の中には、二つの自分があるんだ。
 

 一つは「死にたい」と思ってる、アタマの中にいる自分。

 もう一つは “「死にたい」自分” を、後ろから見ている自

分。

 “「死にたい」自分” は死にたがっているんだから、死な

せてあげよう。そうすると、もう一人の自分が残る。もう一

人の自分は、「死にたい」とも「生きたい」ともなんとも思

っていない自分なんだ。からっぽで空気みたいなね。


 じゃぁ、どうやって “「死にたい」自分” を死なせるの

か?


 “後ろから見ている自分” の方に、心を寄せて行くように

する。

 “「死にたい」自分” の方に重なっている心を、“後ろから

見ている自分” の方へ動かすんだ。幽体離脱みたいな感じだ

ね。そんな風にイメージする。

 そうやって、心を “後ろから見ている自分” の方へ移すこ

とができたら、君の手で “「死にたい」自分” を死なせてあ

げよう。あたまの中でね。


 安楽死させてやってもいいし、そうしたければ銃で撃ち殺

してもいい。崖から突き落としてもいい(あたまの中で  

だよ)。そうすれば、ゾンビに追われてた自分は消える。

 残ったもう一人の自分からは、また違った自分が生まれ出

てくる。またゾンビに追われるかもしれないけど、その時は

また死なせてあげよう。


 誰もゾンビになりたくない。


 ゾンビから逃げるのは弱さじゃない。当たり前のことなん

だ。

 ただ、上手に逃げよう。亡霊にならないようにね。

 君の中には、いつでも「空っぽの自分」というのがいて、

困った時にはいつでもこっちにおいでと待っている。という

か、そっちが本当の自分なんだけどね。


 「空っぽ」は心細いと思うかもしれないけど、「空っぽ」

って、《自由》のことなんだよ。


 夏休みが終わる・・・。

 上手に逃げてね。






 

2019年8月26日月曜日

良い “善” 。悪い “善” 。



 今年も『二十四時間テレビ』をやってたなぁ。もう四十年

以上やってるんだろう。

 最初の二三年は見てたかな。まだ私もナイーブな頃だった

し、初期の頃は単にチャリティとしての色合いが濃かった。

それが段々と「人間賛美」みたいになっていった。


 あの番組がやってることを一言で言えば、「がんばるこ

と」の賛美だろう。それは人情としてはわかる。けれど、

「がんばること」は必ず “目的志向” だ。「がんばること」

は必ず “現状否定” だ。「そのまま」「今のまま」じゃだめ

なのか?

 「がんばること」を賛美することは、「がんばってない

人」「がんばれない人」に自己否定感を持たせる。そもそも

「がんばる人」自身も “自己否定” ゆえに「がんばる」ので

しょう? 自己否定感を持っていない人も、「がんばるこ

と」によって自己否定感を持ち始めてしまうだろう

し・・・。

 そもそも人はなんで “自己否定” してしまうのか?「が

る」に、誰もが “自己否定感” を持ってしまうという

実がなぜあるのか、ということを考えなければいけないん

ゃないの?


  “現状肯定” はいけないの?

 「進歩が無い」のはダメなの?

 「成長が無い」のはダメなの?

 なぜことさら「挑戦」や「成長」や「進歩」や「夢」や

「目標」なんかを持ち上げるの?


 人には普通、ごく自然な「向上心」や「親切心」のような

ものがある。

 自転車に乗れるようになった時に「うれしい!」と思うの

は、ごく自然な「向上心」によるものだと思う。だれかに褒

められるとか評価されることを期待しての “目的志向” では

ないだろう。

 道を尋ねられた時に教えるのは、ごく自然な「親切心」に

よるのであって、「良い人であらねば」というような、道徳

心や社会性によるものではないだろう。

 そういった、素朴でささやかなレベルの人間のあたたかみ

のようなものさえあれば、それでいいんじゃないか?その程

度でとどめておいた方がいいんじゃないか? そんな気がす

る。


 子供から年寄りまで、事あるごとに「がんばれ」と言う。

 いったい何のために「がんばる」のか?

 誰もが、がんばらなければならない生き方を求められるの

はなぜななのか?

 誰もが、がんばらなければならない生き方をせざるを得な

いのはなぜなのか?

 がんばることが良いことなのか? ほんとうにそうなの

か?


 ほんとうは、「がんばらなくても生きられる世の中が良い

世の中だろう」と私は思う。

 自然な「向上心」や「親切心」に任せて、小さな努力や、

ちょっとした助け合いで支え合い生きてゆく世の中が良い世

の中だろうと思うのです。

 ヒューマニスティックなドラマや、大袈裟な人間賛美なん

て要らないだろう。

 地味で、大したことない、取るに足りないような、日常的

で普通で等身大の人間の思いやりや、「ちょっとした何かが

出来ることの喜び」があれば、それで十分なのだと思う。そ

れでとどめておく方が良いのだとも思う。


 自分の家の近所の掃除をするとか、誰かの落とし物を拾っ

てあげるとか。

 今までより “肉ジャガ” を美味しく作れたとか、Tシャツ

を上手に畳めるようになったとか、そんな些細なことを積み

重ねながら、小さな喜びに満たされながら生きて行く・・。

 それでいいじゃないか。


 「がんばること」を安直に “善” とするのは、もういいか

げんにして欲しい。

 「がんばれない自分はダメな人間だ・・・」と、自分自身

を認められなくて苦しんでいる人もいることを考えて欲しい

と思う。

 それとも、“がんばれない人間” は価値が無いのでしょう

か?


 ある価値観が無批判にまかり通り支配する世の中は、必ず

恐ろしい世の中ですよ。

 何かを賛美する心は、大抵、その反対のものを蔑む心です

よ。

 “善” が担ぎ上げられる時、わたしたちは心してそれを見

なければならないと思う。
 
 《「良き “善”」は静かに為される 》




2019年8月20日火曜日

“座標ゼロ”



 前回、〈「しあわせであること」「しあわせを得ること」


が(ニヒリズムではなく)どうでもいいと思えた時に、人は


しあわせを感得する〉などと書いた。ちょっと大袈裟な表現


だなと自分で思う(こういう言い方も好きですが)。なの


で、違う言い回しをしてみよう。こういうのはどうだろう


か?



 《「カッコ悪くたっていいや」

  「成功できなくったっていいや」

  「不幸になったっていいや」

   すねてるんじゃなくて、あっけらかんとそう思えたら

   “無敵” でしょう 》



 ニヤリと笑いながら、「不幸になったっていいや」と言う

人間を不幸にすることはできません。

 彼は幸福にはなれないかもしれない。けれど不幸になるこ

とはない。彼が居るのは座標 0(ゼロ)。プラスもマイナス

も関係ない絶対安定点。そこが極楽。それこそがしあわせ。


 普通「しあわせ」というと、自分が想定する基準点に “何

か” がプラスされることだと考える。逆に「不幸」はその基

準点からマイナスになることを指す。

 基準点は、人それぞれ、その時々に揺れ動くので、普遍的

な「しあわせ」も「不幸」も存在しないし、安定することも

無い。その不安定さゆえに、どのような「しあわせ」を得て

も、それはすぐに手からこぼれ落ちてゆく、つかんだ砂が指

の間からこぼれ落ちてゆくように・・・。そして、すぐに不

安に包み込まれてしまう。


 プラスでもマイナスでもない “座標ゼロ” 。

 そこにはなんの「価値」も無い。

 そこにはなんの「意味」も無い。


 「意味」も「価値」も無い “自分” 。

 「意味」も「価値」も無い “世界” 。

 実は、それが最も尊いこと(「尊い」などと言うと、そこ

に「価値」が生まれてしまって矛盾するのだが・・・)。


 世界中で、ほぼすべての人間が、「価値」を巡って争う。

 世界中で、ほぼすべての人間が、「意味」に惑わされて彷

徨う。

 世界中で、ほぼすべての人間が、自身に「価値」や「意

味」を見出せずに苦しむ。

 しかし、どのような「価値」も「意味」も、人間が「そう

思う」だけのことでしかない。生命の「価値」でさえ、「そ

う思う」だけでしかない・・・。人間は「そう思う」こと

で、自ら地獄を作り出す。自分がそれを作っていることに気

付きもせずに・・・。


 私が言っているのはニヒリズムかもしれない。確かに世の

中を否定している。

 けれど、無いところに無いものを探してもしようがない。

いくら探してもそこに有るのは混乱と苦悩だけ。だから、世

の中の座標上から後退してゼロに帰ればいいと思う(!)。


 〈生命の「価値」でさえ、「そう思う」だけでしかない〉

という "座標ゼロ” に立つ時、人は初めて生命の「本当の価

値」を知る。エゴの妄想ではない、あらゆるものの「本当の

価値」を知る。「本当の安らぎ」を知る。

 本当はゼロなのだ。自分も世界も。だから、安心。




2019年8月18日日曜日

誰もしあわせになれない



 「誰もしあわせになれない」と言っても、社会が悪いから

とかいうことではない。どれほど社会が理想的なものになろ

うと、誰もしあわせにはなれない。


 わたしたちは誰もしあわせになれない。


 「しあわせになりたい」と思っている内は、しあわせでは

ないし、「今 “わたし” はしあわせだ」と思っても、それは

単なる自己満足であって、しあわせではない。 

 しあわせは “わたし” というものの中には入れないので、

わたしたちがしあわせになることはない。

 しあわせは、「なる」ものでも「手に入れる」ものでもな

い。

 しあわせは、人生の中の “ある” 「座標」や「エリア」で

はない。

 しあわせは、「個人」や「社会」に属するものではない。


 しあわせは、常に世界に遍満している。

 しあわせは、「存在するもの」が「存在している」この世

界の味わいのことだ。

 しあわせは、「自分が在ること」「世界が在ること」への

疑義を払拭した時に浮かび上がってくる “リアリティ” のこ

とだ。


 逆説的だが、「しあわせであること」「しあわせを得るこ

と」が(ニヒリズムではなく)どうでもいいと思えた時に、

人はしあわせを感得する。

 しあわせは、求めて得られるものではない。もともと在る

ものを求めれば、それを見失うだけだ。

 しあわせは、今ここにある。

 しあわせは、今ここにしかない。

 しあわせは、「今ここ」のことである。


 しあわせ=「今ここ」という表現は、もはやありきたりだ

けれど、それがぎりぎりの表現なので、そう言うしかない。

 「今ここ」という意識は、世界に無限に存在する「今こ

こ」に在る意識にとって、唯一無二の “絶対性” だ。

 それは、何ものにも代えることができず、何ものにも損な

われることがない。

 それを越えるものがあるだろうか?


 「何ものにもそこなわれることが無い “絶対性” 」。それ

を自分が確信できる・・・。

 それ以上の「しあわせ」などあるだろうか?


 しあわせは、自分のものにならない。

 しあわせにはたどりつけない。

 しあわせは、自分以外の “すべて” 。

 「自分」が存在する限り、誰もしあわせにはなれない。

 「自分」が存在しなければ、世界にはしあわせしかない。



 

2019年8月13日火曜日

意味にすがり付いて



 前回、出来事は本来性格を持たないのに、わたしたちのア

タマは出来事に性格付けをすると書きました。言葉を換える

と、出来事に意味付けをするわけなんですが、わたしたちは

出来事に意味付けすることを止められません。なぜなら、意

味付けした瞬間、その対照として〈わたし〉というものが意

識の中に立ち上がるからです。

 出来事が無意味であれば、その対照としての自分も意味を

持ち得ませんから、〈わたし〉というものは消滅してしまう

のです。その消滅の恐怖から逃れるために、わたしたちはあ

らゆる出来事に意味付けし続けることを止められません。


 アタマは思考することによって生まれると同時に、思考す

るという働きそのものでもありますから、無意味な事を恐れ

ます。

 無意味なことは思考では扱えませんから、それに関わる

と、思考自体の働きが止まってしまうからです(例えば「 

“うばむ” に “めにゅえ” を加えるとどうなるか?」などとい

う問いがなされたら、思考は停止しますよね)。なので、働

き続けるさだめにあり、消滅してしまうことを恐れるため、

思考は本来意味を持たないものに意味付けせずにはいられな

いのです。


 「本来意味を持たない事に意味付けをする・・・」

 それは妄想というしかありませんね。そして、この世界の

出来事のすべては本来意味を持ちませんから、わたしたち人

間が意味付けをしているこの世界は、すべて妄想でしかあり

ません。そして、自らの妄想で意味付けして作り上げたこの

世界に生きているわたしたちは、自らの妄想の中に住んでい

るのですね。


 わたしたちが生きるこの妄想の世界が、おおむね気楽で愉

しいものであるならば、それも悪いことではないでしょう。

けれど、現実(?)は違います。

 大なり小なり日々悩みに取り巻かれ、怒り、苦しみ、嘆

き、悲しみ、争い、打ちひしがれ、心安らかな時は限られて

います。愉しいと言っても、それは「ストレス解消」という

言葉が象徴するように、苦しみからしばらく逃れるという事

でしかないのが普通で、すぐに苦しみの中に戻って行くこと

になります。

 そういった日々が妄想でしかないとしたらどうでしょう?

 自分で意味付けして、自分で作り上げた “お話し” でしか

ないとしたらどうでしょう?

 誰もが自分勝手に意味付けした “お話し” ががんじがらめ

に絡まり合って、抜き差しならなくなっている広大な “エゴ

の淀み” だとしたらどうでしょう?


 その “現実” は、自分が意味付けして自分が意識の上に固

定したイメージでしかありません。

 わたしたちの「社会」という “現実” は、各人が意味付け

して意識の上に固定したイメージを、お互いに無自覚に承認

して、みんなで寄せ集めて固めた “妄想のコラージュ” 

す。どれほど意味を上塗りしても、「本来無意味」という

 ”出来事の質感” までは隠しおおせるものではありません。

それは常に人を不安にさせ、人を新たな意味付けに駆り

立てます。


 思考(アタマ)はその性質上、わたしたちの〈生〉を妄想

の中に引き込みます。思考はそうせざるを得ません。そうし

なければ思考は存在できないのですから。

 思考の働きの原動力は「恐れ」です。働いて「意味」を生

み出し続けなければ思考は消滅してしまいます。思考はそれ

が「恐ろしい」から働くのです。なので思考は「恐れ」と親

和性が高い。

 思考の意味付けの大部分は、「恐れ」を生み出すことと、

「恐れ」と戦うことに費やされます。それによって、わたし

たちは日々「不安」にさいなまれることになるのです。


 わたしたちの意識の表面には、常に思考が目を光らせてい

ます。

 「無意味な事は見逃さない!」と常にピリピリしていま

す。

 けれど、世界は「無意味」なのです。

 思考の周りは「無意味」が取り囲んでいます。思考に気が

休まる時はありません。


 わたしたちは不条理なことや矛盾に出会うと酷く恐ろしく

不安になります。

 意味が読み取れなくてパニックを起こすのです。

 けれども、わたしたちが生きているこの世界は本来「無意

味」です。と同時に、わたしたちの思考の奥にある〈意識の

本体〉も意味を持ちません。意味を必要としません。

 思考は、内と外の「無意味」の狭間で、なんとか存続し続

けようと必死なのです。思考も懸命なのであって悪気はない

のですが、その性質上〈命〉という「意味を超越したもの」

に寄り添うことができません。


 わたしたちの意識が思考の側にある限り、安らぎはありま

せん。けれど思考を消すこともできません。

 わたしたちが安らかでいたいのなら、世界に意味付けしよ

うと必死になっている思考は、世界の側に関わらせておい

て、“〈命〉の側の意識” に立って、思考が世界相手にジタ

バタしている姿を観ているしかないのでしょう。〈ライフサ

イド〉からね。


 (『「ライフサイド」に立って』2017/11 もご覧ください)



2019年8月12日月曜日

アタマのおしゃべり



 今日も一日、朝目が覚めた時から今まで、私のアタマはあ

れやこれやとしゃべり続けている。今日は、今までのところ

特に酷い話は無かったけれど、まぁ毎日ご苦労さんなこと

だ。


 毎日々々、一日中アタマはしゃべりにしゃべり続けて、止

まることが無い。わたしたち人間はそれに付き合わされ続け

て疲れてしまうが、疲れるのは “アタマのおしゃべり” のせ

いではなくて、そのおしゃべりの “元ネタ” のせいだと思っ

ている。


 例えば、前のクルマが信号が変わったことに気付かずにな

かなか発車しない。イライラしてクラクションを鳴らすと、

ようやく前のクルマが動き出した。

 「ボーッとしてるんじゃねーよ!」という一言からあなた

のアタマがおしゃべりを始める。「だいたい、あのクルマ奴

は・・・・」と一分ほどグチグチ言うと、「そういえば、こ

の前スーパーの駐車場で隣に停めた奴も・・・・」と、おし

ゃべりはアタマの中に溢れてゆく・・・。あなたはどんどん

不愉快なことを思い出して、不機嫌になってゆくが、それは

「さっきのクルマのせいだ」と思う。


 確かに、さっきのクルマはなかなか動こうとしなかった。

それは事実です。が、それだけのことです。イライラするの

はあなたの勝手ですよね。同じシチュエーションでもイライ

ラしない人もいますし、違う日ならあなたもイライラしなか

ったかも知れません。これは、“出来事そのものは決まった

性格を持っていない” ということの一例です。


 この世界のあらゆる出来事は、すべてニュートラルなもの

です。どんな出来事も、それ自体は特定の性格を持たない。

わたしたちのアタマがそれぞれの出来事を性格付けるので

す。そうでなければ、同じ出来事に対しての人それぞれの感

じ方の違いや対応の違いを説明できない。


 わたしたちのそれぞれのアタマにはおしゃべりの癖があ

る。好むおしゃべりのパターンがそれぞれ違う。それぞれに

好みのパターンのおしゃべりをしては、泣いたり笑ったり怒

ったりする。


 不動産屋に案内された古い家の壁のシミを見て、「幽霊

だ」と言って怖がったり、「汚ねえなぁ。掃除しろよ」と文

句を言ったり、「事故物件じゃないのか?」と疑ったり、人

それぞれにアタマがしゃべることは違うけれど、目の前にあ

るのは単に “壁のシミ” 。


 わたしたちのアタマは、出来事に自分勝手に性格付け(意

味付け)をして、自分勝手に喜んだり怖がったりしているだ

けですが、その性格付けの多くはネガティブなものですか

ら、付き合っていると、たいてい不快になってしまいます。

 時には愉快になることもありますが、そもそも自分が勝手

な性格付けをするのですから、調子に乗り過ぎて馬鹿な失敗

をしたり、他の人の反感を買ってトラブルになったりして、

結局不快な思いをするというのもよくあることですね。


 誰の短歌だったか忘れたのですが、こういう歌がありま

す。


 《 火の車 誰も作り手なかれども 

           己が作りて 己が乗りゆく 》


 みんな自分で苦悩を作り出して、自分で苦しんでいるんで

すね。それぞれの業によって。


 わたしたちが出会う出来事は、ただ “出来事” です。

 何もかも、「ただ、そう在る」「ただ、そうなった」だけ

です。その「ただ」の事に、わたしたちはそれぞれの業に従

って、性格付けをし、意味付けをし、物語を作り、それに自

分で反応してさらに複雑にしてゆき、そして結局苦しむ。

 それなのに、アタマのおしゃべりは止まらない。

 何度も何度も、同じパターンで苦しんでも、アタマは同じ

ようなおしゃべりを続けて、わたしたちはその苦しみが “ア

タマのおしゃべり” のせいだとは気付けない。アタマを自分

だと思っているから。アタマが自分を欺き、裏切っていると

は思わないから。


 アタマは、あなたをしあわせにしようなんて思っていな

い。

 アタマは、アタマ自体の存続だけが目的です。そのために

は何でも利用する。あなたの命だって利用する。

 アタマは、あなたの中にあるけれどあなた自身ではない。



 この前、《 真実は沈黙している 》と書きましたが、こう

いうことも言えるでしょう。


 《 本当の自分は沈黙している 》



  

2019年8月11日日曜日

「平常心」の中で



 今、甲子園で高校野球をやっていますが、選手たちがよく

「平常心で・・・」とか言いますね。「普段のような心構え

で」という意味で使っているのだと思いますし、普通はそう

いう意味で誰もが使うのだと思いますが、仏教の方では “び

ょうじょうしん” と読むことが多いようで、意味も変わって

きます。

 「常に平らな心」あるいは「心を常に平らかに」という意

味に捉えるのが良いようです。「鏡のように静まった湖面の

ような心の状態」というイメージが適当だろうと思います。

何にも乱されない、落ち着き切った心の状態を常に保つこ

と・・・。


 しかし、「何にも乱されない、落ち着き切った心の状態を

常に保つ・・・」、そんなこと出来ますか?

 出来っこありません。生きている限り、無理です。

 けれど、修行して、修行を完成させたらそうなれると思っ

ている人も結構いるのでしょう。でも、無理です。沢木興道

老師も言われてます。

 「無心になんか、死ぬまでならんわい」

 余語翠厳老師も言われます。

 「生きてたら、腹が立たんようにはならんでしょう」


 「平常心(びょうじょうしん)」というのは、煩悩・妄想

を静めて「心を平らに」することではなくて、普段わたした

ちが “心” だと意識しているものの更に奥に、「平常心(び

ょうじょうしん)」と呼ぶべき《もう一つの意識の世界》が

あるのだという事でしょう。

 わたしたちの意識の本体は、「何にも乱されない、落ち着

き払ったもの」であって、それは誰もが持っているものであ

る。いや、その中でわたしたちは生きている。


 「平常心(へいじょうしん)」と読めば落ち着いているよ

うですが、それはしょせん意味と価値に揺さぶられる、私た

ちの普段の心の在りようの中のことです。

 一方「平常心(びょうじょうしん)」と読めば、意味と価

値に揺さぶられる世界から離れて、それを俯瞰出来る、完全

にプレーンな意識のこと。


 意味が「無い」意識の世界だから、「無」。

 価値などが「空っぽ」だから、「空」。

 汚れようにも「汚されるものが存在していない」から、

「浄土」。

 「平常心(へいじょうしん)」から「平常心(びょうじょ

うしん)」へと脱け出すから、「解脱」。


 「悟り」とは、「平常心(へいじょうしん)」から「平常

心(びょうじょうしん)」へと意識の立ち位置がシフトする

ことでしょう。


 煩悩・妄想を無くすことは出来ない。

 苦しみを人生から消すことも出来ない。

 けれど、煩悩・妄想から苦を生み出し続ける自分の人生

を、「静かに見ていられるスペース」が自分の中に在る。い

や、そのスペースの中に自分は生きている。

 それに気付き、目覚める機会は常にある。

 ただ、その機会を活かせるかどうかは「縁」によ

る・・・。


 「縁」あって、それに目覚めた者も、「縁」無く、苦悩の

中で人生を終える者も、どちらも「平常心(びょうじょうし

ん)」の意識世界の中でのこと。済んでみれば、まぁ、同じ

だということなんでしょう・・・。


 親鸞が「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪や」

と言うのは、「結局一緒だから」という確信ゆえのこです

ね。



 人は、生きていたら平静になんかいられない。

 だけども、怒り、悲しみ、妬み、恨み、驕り、心を乱しに

し続ける生き方をしたとしても、その “苦の人生” を

「苦」と感じられるのは、それが「何にも乱されることのな

い場所」である、《本来の意識》からのまなざしが有っての

ことでしょう。本来の自分はそこに在る。「平常心(びょう

じょうしん)」こそが、本来の自分である。




 ところで私は、高校野球というものには興味は無い。

 ずいぶん昔は見ていたが、面白くなくなったので全く見な

い。

 今の高校野球というものは、高野連と朝日新聞とNHKの

おっさんたちのせいで、“日頃の「努力の成果」の発表会” 

のようになってしまった。だから、十代の男の子が「平常

心」などと口にして、悔しいくせにニコニコと薄笑いを浮か

べて、平静を取り繕う。気持ち悪い。

 野球はスポーツであって、「○○道」ではない。本来『高

校野球甲子園大会』というのは、“お祭り” でしょう。



 十代の男の子に “嫌事(いやごと)” を言うのも性格が悪

いですが、「 “お祭り” を『平常心』でやってどうするん

だ」と思いますね。「結果なんて二の次。思いっきり弾けて

やれよ!若いんだから!」と思う。日本軍の亡霊に憑りつか

れたおっさんたちに化かされてちゃダメだよ。 (『私は

「体育会系」となじめない』2018/5、『努力にまつわる幻

想について』2017/6  参照 )


 泣いたり笑ったり弾けたり・・・。

 そういう日々を生き続けていると、いつか「それだけでは

なさそうだ・・・」という思いが湧いてくる時が来るだろう

(そうあって欲しい)。その時、「平常心(へいじょうし

ん)」ではなく、「平常心(びょうじょうしん)」という事

があるのだと思ってくれたらなぁ・・・。


 まぁ、今は「ガンバレ」よ! 青少年!


2019年8月10日土曜日

動き続ける病気



 前回、《 真実は沈黙している 》などと書いたものだか

ら、どうにも語りにくくなってしまった。

 「ああだ、こうだ」と口から出まかせを書いてきたあげく

に、《 真実は沈黙している 》なんてことを口走ってしまっ

たのだから、どうにもこうにも・・・。

 「こりゃぁ、まいったね。」と思っている。


 「真実」は沈黙しているのだから、このブログに書いてき

たことは「ウソ」ばっかりだという事です。まいったね。



 禅宗では「不立文字(ふりゅうもんじ)」といって、仏教

の神髄は言葉に出来ないと言う。ところが、言葉にできない

と言いながら、禅宗のテキスト(書かれた物)は他の宗派よ

りも多いぐらいだそうだ。言葉にできないからといっても、

テレパシーで伝えるわけにもゆかず、黙ってもいられないの

で言葉を弄することになる。そして、その努力は完結するこ

とが無い。言葉にできないのだから・・・。

 出来ることは、言葉の誘導によって、なんとか体験に持ち

込もうということだけ。

 手を変え品を変え、数限りなく並べ立てて、誰かが引っか

かるのを待つしかない。


 というわけで、私も誰かが引っかかるのを期待しつつ、口

から出まかせを書き続けようと思うのだが、いったい引っか

けてどうしようというのか?


 転ばそうと思っているんですね。

 アタマが作ったこの世界で転んでほしい。転んで違う視点

で世界を見て欲しい。すでに転んでる人には、目の前の石こ

ろや草に目をとめて欲しい。アタマが作った世界は、所詮ア

タマが作ったものでしかないと気付いて欲しい。それが普通

で当たり前で常識だとしても、それはアタマが作った “作り

物” でしかないし、それはけっして良いものではないという

ことを意識して欲しい。



 様々な主義主張があって、ひとりひとりそれぞれに意見が

あって、それぞれが理想のストーリーを語り、理想から外れ

たものを非難したり攻撃したり嘆いたりするけれど、それら

は結局 ”作り物” でしかなく、自分に都合の良いストーリー

でしかない。



 それぞれが自分の描いたストーリーの中で飛んだり跳ねた

り走ったりして、ストーリーに具体性を持たせようとがんば

る・・・、けれどそれでどうなる? それで世界はどうなっ

てきた? 私たち人間は、わたしたちのアタマは、この世界

に何をもたらした?


 できるだけたくさんの人間が一度転んだ方がいい。

 一度ストップした方がいい。

 みんな「動き続ける病気」だよ。


 「動き続ける病気」には二種類有って、一つは『ドーパミ

ン依存性過動症』で、アタマの興奮から得られる快感に支配

されて、自発的に行動してしまって止められないというもの

で、政治家や起業家やアスリートに多い。

 もう一つは『不安回避型行動症』と呼ばれるもので、『ド

ーパミン依存性過動症』が作った社会の中で、「動かなけれ

ば自身の存続が危うくなる」とというプレッシャーを与えら

れて、じっとしていられない。あるいは、自然災害や健康に

対する不安などから、予防的妄想に囚われて何かせずにおれ

ないというもの。

 どちらにしても、アタマの暴走です。

 脳の神経回路の中を過電流が激しく迷走している。

 頭蓋骨に穴を開けて、KURE の「5-56」か「接点復活

スプレー」でも吹き込んでやれば収まるかもしれない  

走電流を抑える効果があります  とも思うが、そういうわ

けにもいかない。


 というわけで、転んでもらいたい。

 転んで、運動系のパルスを一旦強制的に止めてやりたい。

 そして低い位置で止まった視点から、止むことなく動き続

けている “アタマの世界” を見て欲しい。それが実はどれだ

け「狂気」か・・・。


 すべての人間が、それぞれのストーリーを持ち出し、それ

を具体化しようと争い、動き続けているこの世界・・・。

 妄想の乱交パーティー。

 欲望のワールドカップ。

 幻想のオリンピック。

 そうとでも言うしかないようなことが混ざり合い、絡まり

合って、もはや誰もブレーキを踏めない・・・。だから、

「引っかけて転んでもらいましょう」と思う。

 転んで、「自分も『動き続ける病気』なんだ・・・」と意

識して欲しい。

 私はそれで「世界の平和を・・」などと大それたことを思

っているんじゃない。個人レベルでいいから、“しあわせの

リアリティ” とでもいうことを考えてもらいたいと思う。要

するに、思いやりですよ。


 転んでもらおう。

 転ばせてやろう。


 転びました?

 景色が変わるでしょ?

 何を見るかまで責任は持てませんがね。

 でも、転んだとき目の前にある石ころや地面が沈黙してい

るのは間違いありません。

 沈黙が語るものを聴きましょう・・・・・・・。




 (『ドーパミン依存性過動症』も『不安回避型行動症』  

  も、私が勝手に作った病名です。でも、たぶん精神

  医学の世界では、同じことを意味する病名があると

  思いますよ )



  

2019年8月1日木曜日

真実は沈黙している



 《 真実は沈黙している 》


 この世界に存在するものは、何も語っていない。

 太陽も月も星も、木も鳥も虫も、石も水も風も、壁も電信

柱も、わたしたちの身体も、何も語っていない。ただわたし

たちのアタマだけが、エゴだけが、思考だけが語る。なぜな

ら、それは語ることでしか存在できないから。それには実体

が無いから。
 

 アタマは語る。存在しようと足掻いて、語る。沈黙するこ

とは消滅することだから、アタマは語り続ける。どんなこと

でもいい。とにかく語り続けなければならない。その語り

が、自己を肯定することであるならそれに越したことはな

い。自己を肯定できないのなら、他者を否定し、踏みつける

ことで自身の足場を固めようとする。とにかく語らなければ

ならない・・・。


 あるエゴから発せられた語りは、別のエゴに、あるイメー

ジを喚起させる。

 そのイメージは時にそのエゴを傷付け、時にそのエゴを調

子付かせ、ある時にはそのエゴが自らを肯定するための格好

のエサとなる・・・。そうして、存在し続けたがっている無

数のエゴとエゴが、駆け引きと馴れ合いと闘争と失望を繰り

す。なにものも顧みずに・・・。それは幻想。それは狂

気。それは地獄を生み出しもする。


 真実は沈黙している。

 真実には語る必要がない。

 そこに “在る” のだから、何を証明する必要もないし、何

かを得ることも何かを為す必要もない。


 この世界、宇宙全体に、空間と静寂が透徹している。

 「無いこと」と「止まっていること」が、この世界のベー

スとしてある。

 その空間と静寂の中で、あらゆるものがその存在を存在し

ている。それはまるで空間と静寂を楽しむかのよう。


 存在し、動くことで空間と静寂を確かめ、空間と静寂の絶

対性に遊ぶ。それは至福。

 けれど、語ることは空間を区切り、限定する。静寂を破り

台無しにする。真実を隠し、妄想の中に迷わせる。


 空間は沈黙している。

 静寂は沈黙している。

 存在は沈黙している。

 真実は沈黙している。
 

 ただわたしたち人間のエゴだけが、おしゃべりとカラ騒ぎ

をし続けている。消え去ることへの恐怖ゆえに・・・。