2019年8月11日日曜日

「平常心」の中で



 今、甲子園で高校野球をやっていますが、選手たちがよく

「平常心で・・・」とか言いますね。「普段のような心構え

で」という意味で使っているのだと思いますし、普通はそう

いう意味で誰もが使うのだと思いますが、仏教の方では “び

ょうじょうしん” と読むことが多いようで、意味も変わって

きます。

 「常に平らな心」あるいは「心を常に平らかに」という意

味に捉えるのが良いようです。「鏡のように静まった湖面の

ような心の状態」というイメージが適当だろうと思います。

何にも乱されない、落ち着き切った心の状態を常に保つこ

と・・・。


 しかし、「何にも乱されない、落ち着き切った心の状態を

常に保つ・・・」、そんなこと出来ますか?

 出来っこありません。生きている限り、無理です。

 けれど、修行して、修行を完成させたらそうなれると思っ

ている人も結構いるのでしょう。でも、無理です。沢木興道

老師も言われてます。

 「無心になんか、死ぬまでならんわい」

 余語翠厳老師も言われます。

 「生きてたら、腹が立たんようにはならんでしょう」


 「平常心(びょうじょうしん)」というのは、煩悩・妄想

を静めて「心を平らに」することではなくて、普段わたした

ちが “心” だと意識しているものの更に奥に、「平常心(び

ょうじょうしん)」と呼ぶべき《もう一つの意識の世界》が

あるのだという事でしょう。

 わたしたちの意識の本体は、「何にも乱されない、落ち着

き払ったもの」であって、それは誰もが持っているものであ

る。いや、その中でわたしたちは生きている。


 「平常心(へいじょうしん)」と読めば落ち着いているよ

うですが、それはしょせん意味と価値に揺さぶられる、私た

ちの普段の心の在りようの中のことです。

 一方「平常心(びょうじょうしん)」と読めば、意味と価

値に揺さぶられる世界から離れて、それを俯瞰出来る、完全

にプレーンな意識のこと。


 意味が「無い」意識の世界だから、「無」。

 価値などが「空っぽ」だから、「空」。

 汚れようにも「汚されるものが存在していない」から、

「浄土」。

 「平常心(へいじょうしん)」から「平常心(びょうじょ

うしん)」へと脱け出すから、「解脱」。


 「悟り」とは、「平常心(へいじょうしん)」から「平常

心(びょうじょうしん)」へと意識の立ち位置がシフトする

ことでしょう。


 煩悩・妄想を無くすことは出来ない。

 苦しみを人生から消すことも出来ない。

 けれど、煩悩・妄想から苦を生み出し続ける自分の人生

を、「静かに見ていられるスペース」が自分の中に在る。い

や、そのスペースの中に自分は生きている。

 それに気付き、目覚める機会は常にある。

 ただ、その機会を活かせるかどうかは「縁」によ

る・・・。


 「縁」あって、それに目覚めた者も、「縁」無く、苦悩の

中で人生を終える者も、どちらも「平常心(びょうじょうし

ん)」の意識世界の中でのこと。済んでみれば、まぁ、同じ

だということなんでしょう・・・。


 親鸞が「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪や」

と言うのは、「結局一緒だから」という確信ゆえのこです

ね。



 人は、生きていたら平静になんかいられない。

 だけども、怒り、悲しみ、妬み、恨み、驕り、心を乱しに

し続ける生き方をしたとしても、その “苦の人生” を

「苦」と感じられるのは、それが「何にも乱されることのな

い場所」である、《本来の意識》からのまなざしが有っての

ことでしょう。本来の自分はそこに在る。「平常心(びょう

じょうしん)」こそが、本来の自分である。




 ところで私は、高校野球というものには興味は無い。

 ずいぶん昔は見ていたが、面白くなくなったので全く見な

い。

 今の高校野球というものは、高野連と朝日新聞とNHKの

おっさんたちのせいで、“日頃の「努力の成果」の発表会” 

のようになってしまった。だから、十代の男の子が「平常

心」などと口にして、悔しいくせにニコニコと薄笑いを浮か

べて、平静を取り繕う。気持ち悪い。

 野球はスポーツであって、「○○道」ではない。本来『高

校野球甲子園大会』というのは、“お祭り” でしょう。



 十代の男の子に “嫌事(いやごと)” を言うのも性格が悪

いですが、「 “お祭り” を『平常心』でやってどうするん

だ」と思いますね。「結果なんて二の次。思いっきり弾けて

やれよ!若いんだから!」と思う。日本軍の亡霊に憑りつか

れたおっさんたちに化かされてちゃダメだよ。 (『私は

「体育会系」となじめない』2018/5、『努力にまつわる幻

想について』2017/6  参照 )


 泣いたり笑ったり弾けたり・・・。

 そういう日々を生き続けていると、いつか「それだけでは

なさそうだ・・・」という思いが湧いてくる時が来るだろう

(そうあって欲しい)。その時、「平常心(へいじょうし

ん)」ではなく、「平常心(びょうじょうしん)」という事

があるのだと思ってくれたらなぁ・・・。


 まぁ、今は「ガンバレ」よ! 青少年!


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