2019年8月13日火曜日

意味にすがり付いて



 前回、出来事は本来性格を持たないのに、わたしたちのア

タマは出来事に性格付けをすると書きました。言葉を換える

と、出来事に意味付けをするわけなんですが、わたしたちは

出来事に意味付けすることを止められません。なぜなら、意

味付けした瞬間、その対照として〈わたし〉というものが意

識の中に立ち上がるからです。

 出来事が無意味であれば、その対照としての自分も意味を

持ち得ませんから、〈わたし〉というものは消滅してしまう

のです。その消滅の恐怖から逃れるために、わたしたちはあ

らゆる出来事に意味付けし続けることを止められません。


 アタマは思考することによって生まれると同時に、思考す

るという働きそのものでもありますから、無意味な事を恐れ

ます。

 無意味なことは思考では扱えませんから、それに関わる

と、思考自体の働きが止まってしまうからです(例えば「 

“うばむ” に “めにゅえ” を加えるとどうなるか?」などとい

う問いがなされたら、思考は停止しますよね)。なので、働

き続けるさだめにあり、消滅してしまうことを恐れるため、

思考は本来意味を持たないものに意味付けせずにはいられな

いのです。


 「本来意味を持たない事に意味付けをする・・・」

 それは妄想というしかありませんね。そして、この世界の

出来事のすべては本来意味を持ちませんから、わたしたち人

間が意味付けをしているこの世界は、すべて妄想でしかあり

ません。そして、自らの妄想で意味付けして作り上げたこの

世界に生きているわたしたちは、自らの妄想の中に住んでい

るのですね。


 わたしたちが生きるこの妄想の世界が、おおむね気楽で愉

しいものであるならば、それも悪いことではないでしょう。

けれど、現実(?)は違います。

 大なり小なり日々悩みに取り巻かれ、怒り、苦しみ、嘆

き、悲しみ、争い、打ちひしがれ、心安らかな時は限られて

います。愉しいと言っても、それは「ストレス解消」という

言葉が象徴するように、苦しみからしばらく逃れるという事

でしかないのが普通で、すぐに苦しみの中に戻って行くこと

になります。

 そういった日々が妄想でしかないとしたらどうでしょう?

 自分で意味付けして、自分で作り上げた “お話し” でしか

ないとしたらどうでしょう?

 誰もが自分勝手に意味付けした “お話し” ががんじがらめ

に絡まり合って、抜き差しならなくなっている広大な “エゴ

の淀み” だとしたらどうでしょう?


 その “現実” は、自分が意味付けして自分が意識の上に固

定したイメージでしかありません。

 わたしたちの「社会」という “現実” は、各人が意味付け

して意識の上に固定したイメージを、お互いに無自覚に承認

して、みんなで寄せ集めて固めた “妄想のコラージュ” 

す。どれほど意味を上塗りしても、「本来無意味」という

 ”出来事の質感” までは隠しおおせるものではありません。

それは常に人を不安にさせ、人を新たな意味付けに駆り

立てます。


 思考(アタマ)はその性質上、わたしたちの〈生〉を妄想

の中に引き込みます。思考はそうせざるを得ません。そうし

なければ思考は存在できないのですから。

 思考の働きの原動力は「恐れ」です。働いて「意味」を生

み出し続けなければ思考は消滅してしまいます。思考はそれ

が「恐ろしい」から働くのです。なので思考は「恐れ」と親

和性が高い。

 思考の意味付けの大部分は、「恐れ」を生み出すことと、

「恐れ」と戦うことに費やされます。それによって、わたし

たちは日々「不安」にさいなまれることになるのです。


 わたしたちの意識の表面には、常に思考が目を光らせてい

ます。

 「無意味な事は見逃さない!」と常にピリピリしていま

す。

 けれど、世界は「無意味」なのです。

 思考の周りは「無意味」が取り囲んでいます。思考に気が

休まる時はありません。


 わたしたちは不条理なことや矛盾に出会うと酷く恐ろしく

不安になります。

 意味が読み取れなくてパニックを起こすのです。

 けれども、わたしたちが生きているこの世界は本来「無意

味」です。と同時に、わたしたちの思考の奥にある〈意識の

本体〉も意味を持ちません。意味を必要としません。

 思考は、内と外の「無意味」の狭間で、なんとか存続し続

けようと必死なのです。思考も懸命なのであって悪気はない

のですが、その性質上〈命〉という「意味を超越したもの」

に寄り添うことができません。


 わたしたちの意識が思考の側にある限り、安らぎはありま

せん。けれど思考を消すこともできません。

 わたしたちが安らかでいたいのなら、世界に意味付けしよ

うと必死になっている思考は、世界の側に関わらせておい

て、“〈命〉の側の意識” に立って、思考が世界相手にジタ

バタしている姿を観ているしかないのでしょう。〈ライフサ

イド〉からね。


 (『「ライフサイド」に立って』2017/11 もご覧ください)



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