2019年8月20日火曜日
“座標ゼロ”
前回、〈「しあわせであること」「しあわせを得ること」
が(ニヒリズムではなく)どうでもいいと思えた時に、人は
しあわせを感得する〉などと書いた。ちょっと大袈裟な表現
だなと自分で思う(こういう言い方も好きですが)。なの
で、違う言い回しをしてみよう。こういうのはどうだろう
か?
《「カッコ悪くたっていいや」
「成功できなくったっていいや」
「不幸になったっていいや」
すねてるんじゃなくて、あっけらかんとそう思えたら
“無敵” でしょう 》
ニヤリと笑いながら、「不幸になったっていいや」と言う
人間を不幸にすることはできません。
彼は幸福にはなれないかもしれない。けれど不幸になるこ
とはない。彼が居るのは座標 0(ゼロ)。プラスもマイナス
も関係ない絶対安定点。そこが極楽。それこそがしあわせ。
普通「しあわせ」というと、自分が想定する基準点に “何
か” がプラスされることだと考える。逆に「不幸」はその基
準点からマイナスになることを指す。
基準点は、人それぞれ、その時々に揺れ動くので、普遍的
な「しあわせ」も「不幸」も存在しないし、安定することも
無い。その不安定さゆえに、どのような「しあわせ」を得て
も、それはすぐに手からこぼれ落ちてゆく、つかんだ砂が指
の間からこぼれ落ちてゆくように・・・。そして、すぐに不
安に包み込まれてしまう。
プラスでもマイナスでもない “座標ゼロ” 。
そこにはなんの「価値」も無い。
そこにはなんの「意味」も無い。
「意味」も「価値」も無い “自分” 。
「意味」も「価値」も無い “世界” 。
実は、それが最も尊いこと(「尊い」などと言うと、そこ
に「価値」が生まれてしまって矛盾するのだが・・・)。
世界中で、ほぼすべての人間が、「価値」を巡って争う。
世界中で、ほぼすべての人間が、「意味」に惑わされて彷
徨う。
世界中で、ほぼすべての人間が、自身に「価値」や「意
味」を見出せずに苦しむ。
しかし、どのような「価値」も「意味」も、人間が「そう
思う」だけのことでしかない。生命の「価値」でさえ、「そ
う思う」だけでしかない・・・。人間は「そう思う」こと
で、自ら地獄を作り出す。自分がそれを作っていることに気
付きもせずに・・・。
私が言っているのはニヒリズムかもしれない。確かに世の
中を否定している。
けれど、無いところに無いものを探してもしようがない。
いくら探してもそこに有るのは混乱と苦悩だけ。だから、世
の中の座標上から後退してゼロに帰ればいいと思う(!)。
〈生命の「価値」でさえ、「そう思う」だけでしかない〉
という "座標ゼロ” に立つ時、人は初めて生命の「本当の価
値」を知る。エゴの妄想ではない、あらゆるものの「本当の
価値」を知る。「本当の安らぎ」を知る。
本当はゼロなのだ。自分も世界も。だから、安心。
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