2023年3月18日土曜日

大人たちよ、おめでとう!



 何年か前から、男子高校生の元気が無いように見える。特

に、電車の中の男子高校生を見ていると、まるでサラリーマ

ンのように見える。制服がほとんどブレザーになったことも

あるかもしれないが、とにかく元気が無い。肌にツヤが無

い。女子高生はまだ元気があるけどねぇ。

 そんなことを思いながら日々を過ごしていたら、電車の中

でこういう広告を見た。




 これは中学校・高校向けの「校務支援システム」の広告と

いうことで、中に書いてあるように、写真はその概略イメー

ジだそうだ。既に多くの学校で採用されているそうだが、こ

れを見て、「そりゃ、男の子たちの元気がないはずだ」と私

は苦笑いをした。

 「管理」という文字がいくつあるか数えてみてもらいた

い。こんなに管理されてちゃ、元気の出しようがない。


 「いや、生徒を管理しているんじゃなくて、生徒の情報を

管理するんだ」と、この会社と学校側は言うだろう。けれ

ど、それはワンクッション置いてるだけで、同じことだろ

う。


 このイメージ図は良くできていて、「個人カルテ」と書い

てあるところから伸びた赤枠が「生徒」を囲ってあって、あ

る “枠” の中に収まる人間になるようにしたいというのがと

もビジュアルに示してある。そして「カルテ」という言

も、生徒の「社会性から外れた部分」や、「求められる社

的能力が足りない」といった “症状” を改善する為という理

念が現われているのがよく分かる。「子供らしい」とか「若

者らしい」というのは、病気なのだろう。病人扱いなんだか

ら、元気にしてられないわなぁ・・・。


 男の子というのは女の子に比べて、やはりある程度の暴力

性を持っている(エネルギーが余ってしまい、その発露を求

める)のが普通なので、管理が厳しいと、女の子以上に鬱屈

してしまうのだろう。もちろん暴力的でいいというわけでは

ないし、教育というものはそれぞれの社会に適応できるよう

な人間にすることがそもそもの目的なので、管理するのは当

然でもある。ただ、今は、やり過ぎなんだろう。ようするに 

遊びが無い。ぎちぎちに囲われてしまっている。


 遊びが無いといえば、いまの若い子の “遊び” を見ている

と、果たしてそれを「遊び」と言えるのかとも思う。

 用意された遊び。教えられた遊び。容認された遊び。推奨

された遊び・・・。スポーツ・ダンス・バンド・ゲーム・マ

ンガ・・・。昔はバンドやダンスに興じている奴は「不良」

と言われた。マンガやゲームに夢中な子供は「バカで怠け

者」のように扱われた。それがいまやダンスは授業に組み込

まれ、部活に軽音やマンガ部が有り、スノーボードもスケボ

ーもオリンピック種目で、さらには e - ゲームがオリンピッ

ク種目に入れられようとしている。あらゆる “遊び” が社会の

管理下に組み込まれ、ルールや運営方針が定められていて、

そこには自由が無い。


 自転車の二人乗りもできず、道にチョークで絵を描いたら

近所から苦情を言われ、キャッチボールをしていたら「公園

でやれ!」と言われ、小学生が塀の上を歩いたら注意され、

冒険心をそそられる場所はフェンスに囲われて「立入禁

止」・・・、遊べないね。

 そして、学校では管理されまくるし、教師も親も他に何を

言えばいいのか知らないので、ふたこと目には「勉強しろ」

とか「夢や目的を持て」などと言う。

 子供たちは目的志向を植え付けられ、その為に管理され

る。「遊び」はどこへ消えた?


 先日見たニュースでは、生命保険会社のアンケートで、小

中高校生の “なりたい職業” の 1 位は「会社員」だったそう

だ。

 見事に「子供らしさ」という “子供の病” と、「遊び」とい

症状は克服された。これで安心安全だろう。

 大人たちよ、めでとう!




2023年3月9日木曜日

「アタマは世界の部品」に過ぎない



 アタマが悪い。アタマは悪さをする。なぜアタマが悪さを

するかというと、勝手に「自分(アタマ)が、この身体や暮

らしの主人である」と思っているせいだ。


 「こうしなければならない」「ああしなければいけない」

「こうあるべきだ」などと、常に自分のからだや暮らしを評

価してコントロールしようとする(もちろん、他人をコント

ロールしようとするのは言うまでもない)。「こんなことを

考えてはいけない」などと、自分のアタマの活動まで、自分

のアタマ自身が批判して変えようとするけれど、いったい、

その評価、批判、改善の根拠はどこにあるのか?自分のアタ

マの中ではないのか? まず、自分のアタマを疑ってみた方が

良さそうだけど、そのアタマを疑うのもアタマなのでどうに

もならない。

 そのように確たる根拠も無いままに「主人」であろうとす

るのだから、しょっちゅうトラブルを起こすのは当然だ。ま

ったく困ったものである。アタマは「主人」ではない。


 「中枢は末梢の奴隷」

 これは養老孟司先生が『唯脳論』などの著書の中で度々言

っておられる言葉だけど、養老先生のオリジナルなのか、他

の人の引用なのかは知らない。それはともかく、簡単に言え

ば「頭は身体の奴隷」ということだ。さらに言えば、「頭は

世界の奴隷」だと言える。


 現代人は、過剰にアタマ優先で生きているので、世界も自

分も、アタマの都合に合わなければ気に入らない。要するに

「異常(おか)しい」と言う。自分が「主人」だと思ってい

るのだ。脳が身体をコントロールしていると思っていたりす

るし、意識が世界をコントロールしようとするけれど、もち

ろんそれはアタマの驕りだ。優しく言うなら勘違い。


 脳のやっていることは、五感で捉えた外界からの刺激に対

処することと、身体の中から送られてくる要求に対応するこ

とであって、脳の側から身体に命令したりできるのは、「手

を上げろ」みたいなことぐらいしかない。その命令さえ、な

んらかの要求に応える為に出されるというのが実情だ。そし

て、アタマという思考のシステムも、からだと世界の状況に

よって動かされているに過ぎない。「主人」どころの話では

ない。

 アタマのやっていることを考えたら、まるで入社したての

事務員が会社の経営に口を出すようなもので、「お前、何が

分かってんの?」という感じだね。


 「アタマは世界の部品」に過ぎないのだ。世界どころか、

自分をコントロールする能力も器量も無い。動き続け、変化

し続ける世界の中で、他のすべてのものと同様に動かされて

いるに過ぎないのに、何を勘違いするのか「自分がコントロ

ールする」と考える。そして「コントロールが効かない!」

と苦悩する。バカである。なので「アタマが悪い」というこ

とになる。


 そういうアタマのバカさ加減を諫める為に、仏教では「縁

起」ということを説く。「世界のすべてのことは、どれもこ

れも関係性の一つの現われでしかない」と。それ独自で存在

するものも、他の何かを統御する存在も無いのだと。


 タオ(老荘)では「無為自然」と言う。「(人に)為せる

ことは無い。おのずからそうなる(自然)」と。


 イエスも言っている。「野のユリがどうして育つのか、よ

くわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。(中略)

だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着よう

か』と言って、思い悩むな」と。


 アタマはいらないことを考えるばかり。そして先に書いた

ように、コントロールできないのにコントロールしようとし

て「コントロールできない!」と泣く・・・。

 それは人間の業なので仕方がないことではあるけれど、

「思い通りにしようとして、思い通りにできずに、思い通り

にならないと泣くことも、それが〈自分〉という部品として

の在り方なら、それでいいのだな(笑)、と思ったら?」

と、2000年以上前から賢者たちが教えてくれているのだ

が、残念ながらアタマがしでかす「悪さ」はエスカレートす

るばかり・・・。

 自分の分をわきまえれば、楽になれるのに・・・。