2023年3月9日木曜日

「アタマは世界の部品」に過ぎない



 アタマが悪い。アタマは悪さをする。なぜアタマが悪さを

するかというと、勝手に「自分(アタマ)が、この身体や暮

らしの主人である」と思っているせいだ。


 「こうしなければならない」「ああしなければいけない」

「こうあるべきだ」などと、常に自分のからだや暮らしを評

価してコントロールしようとする(もちろん、他人をコント

ロールしようとするのは言うまでもない)。「こんなことを

考えてはいけない」などと、自分のアタマの活動まで、自分

のアタマ自身が批判して変えようとするけれど、いったい、

その評価、批判、改善の根拠はどこにあるのか?自分のアタ

マの中ではないのか? まず、自分のアタマを疑ってみた方が

良さそうだけど、そのアタマを疑うのもアタマなのでどうに

もならない。

 そのように確たる根拠も無いままに「主人」であろうとす

るのだから、しょっちゅうトラブルを起こすのは当然だ。ま

ったく困ったものである。アタマは「主人」ではない。


 「中枢は末梢の奴隷」

 これは養老孟司先生が『唯脳論』などの著書の中で度々言

っておられる言葉だけど、養老先生のオリジナルなのか、他

の人の引用なのかは知らない。それはともかく、簡単に言え

ば「頭は身体の奴隷」ということだ。さらに言えば、「頭は

世界の奴隷」だと言える。


 現代人は、過剰にアタマ優先で生きているので、世界も自

分も、アタマの都合に合わなければ気に入らない。要するに

「異常(おか)しい」と言う。自分が「主人」だと思ってい

るのだ。脳が身体をコントロールしていると思っていたりす

るし、意識が世界をコントロールしようとするけれど、もち

ろんそれはアタマの驕りだ。優しく言うなら勘違い。


 脳のやっていることは、五感で捉えた外界からの刺激に対

処することと、身体の中から送られてくる要求に対応するこ

とであって、脳の側から身体に命令したりできるのは、「手

を上げろ」みたいなことぐらいしかない。その命令さえ、な

んらかの要求に応える為に出されるというのが実情だ。そし

て、アタマという思考のシステムも、からだと世界の状況に

よって動かされているに過ぎない。「主人」どころの話では

ない。

 アタマのやっていることを考えたら、まるで入社したての

事務員が会社の経営に口を出すようなもので、「お前、何が

分かってんの?」という感じだね。


 「アタマは世界の部品」に過ぎないのだ。世界どころか、

自分をコントロールする能力も器量も無い。動き続け、変化

し続ける世界の中で、他のすべてのものと同様に動かされて

いるに過ぎないのに、何を勘違いするのか「自分がコントロ

ールする」と考える。そして「コントロールが効かない!」

と苦悩する。バカである。なので「アタマが悪い」というこ

とになる。


 そういうアタマのバカさ加減を諫める為に、仏教では「縁

起」ということを説く。「世界のすべてのことは、どれもこ

れも関係性の一つの現われでしかない」と。それ独自で存在

するものも、他の何かを統御する存在も無いのだと。


 タオ(老荘)では「無為自然」と言う。「(人に)為せる

ことは無い。おのずからそうなる(自然)」と。


 イエスも言っている。「野のユリがどうして育つのか、よ

くわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。(中略)

だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着よう

か』と言って、思い悩むな」と。


 アタマはいらないことを考えるばかり。そして先に書いた

ように、コントロールできないのにコントロールしようとし

て「コントロールできない!」と泣く・・・。

 それは人間の業なので仕方がないことではあるけれど、

「思い通りにしようとして、思い通りにできずに、思い通り

にならないと泣くことも、それが〈自分〉という部品として

の在り方なら、それでいいのだな(笑)、と思ったら?」

と、2000年以上前から賢者たちが教えてくれているのだ

が、残念ながらアタマがしでかす「悪さ」はエスカレートす

るばかり・・・。

 自分の分をわきまえれば、楽になれるのに・・・。






 
  

0 件のコメント:

コメントを投稿