2023年4月24日月曜日

ルッキズムについてのお話し



 ネットニュースの見出しに “ルッキズム” という 言葉があ

った。「ときどき目にする言葉だなぁ」と思って検索すると

【容姿などの見た目で人を差別すること】という意味で使わ

れているらしい。こういう新語が出てくると、いつも「胡散

いなぁ」と反応してしまうのは私の癖である。


 こういう言葉を使うと、その時々の世の中で自分の立場が

(一応)明確になって(一応)落ち着くだろうし、誰かに対

する非難のニュアンスもあるので、「自分の方が正しい」と

か「自分は正しいことを分かっている、立場が上の人間だ」

という自己肯定感も得られるだろうから嬉しいんだろうけ

ど、大抵、論点がズレてたり、穴があったり、捻じれてたり

する。というわけで、胡散臭い。


 「ルッキズムだ!」などと他人を非難したがる人間は、

「容姿で区別した」とか「見た目の違いに反応した」という

だけで、その人を「差別主義者」であるかのように神経質に

批判したりするが、わたしたち人間には五感があるのだ。人

間に限らず、あらゆる生き物が感覚器官を持っていて、それ

は外界や自身のからだの中の変化、要するに「違い」を捉え

る為に有る。「違い」を捉えて、それに対応しなければ生き

て行けないから。なので、人が「違い」に敏感で、「違い」

を意識するのは当たり前だ。


 ルッキズムを問題にする人間が、ともすれば誰かが「違

い」を意識しただけで不快感を表すのはバカとしか思えな

い。

 「あなたは “違い” を意識せずに生きて行けると思うの

か?」

 「あなたは、生きる為に “違い” を捉えようとする、生物に

備わった自然の摂理が罪だとでも言うのか?」

 そう尋ねたらどう答えるだろう?


 「差別することを問題にしているのだ!」と答えるしかな

いだろうなぁ。


 「なら、容姿のことはあくまで差別の材料の一つであっ

て、問題にすべきは差別ですね?」と私は念を押そう。“ルッ

キズム” などという言葉はいらない。


 差別の材料などいくらでもあるではないか。

 みんな頭が良いか悪いかで人を区別し、バカにしたりして

いるじゃないか。それは “クレバーニズム” とでも言えるだろ

う。

 運動ができないと、笑われたりするけど、そういうのは 

“フィジカリズム” にあたりそうだ。

 仕事ができないと酷い扱いを受けたりするが、それは “ス

キルニズム” で、金が有ることで「自分は大した人間だ」と

思い上がり、貧乏人をバカにしたりするのは “リッチズム” と

も言えばいいだろうか?

 性格が悪い人間は、公然と非難の対象になるけれど、本人

がそうなりたくてなっていることはないだろう、それを問題

にするのは “キャラクタニズム” か?


 言い出せばキリが無いのだ。みんな違うのだ。最近は「多

様性」なんて言ったりするが・・・。


 しようもない言葉を作って、それを振り回して自分の居場

所から “異質なもの” を排除して、わずかばかりの安心とアジ

テーションの興奮を得ようとするのは下品だろう。


 問題なのは「差別すること」なのだろう?

 人をバカにしたり、人を利用したりすることなのだろう?

 要するに「仲良くしよう」で済む話なのだ。
 

 みんな「違う」。違って当たり前。当たり前だから、なる

べく受け入れるように努める。努めてたら、たいがい受け入

れられるようにもなる。受け入れられるようになれなくて

も、「受け入れよう」としただけで、それはある意味受け入

れていることになるはずだろう。


 しようもない言葉は生み出さないで欲しい。「多様性」も

気に入らないね。

 誰もが「ひとりひとり、それぞれの特性と事情を持って生

きている」という事情を持っている。それはみな同じだろ

う。その点で「みんな同じ」じゃないか。なにが「多様性」

だよ。


 仲良くできないのかね? 考え過ぎだよ。アタマが悪い。


 と、「事実」を「区別」はしておこうと思う。


2023年4月23日日曜日

波に乗らない



 この前、面白い記事を見た。2022年、世界の音楽スト

リーミングサービスで一年間に一度も再生されなかった曲が

3500万曲あったという。さらに全体の42%の曲は一年

で10回以下しか再生されなかったそうだ。こういう話を知

ると、このブログはまだマシなのかもしれない・・・。


 ネットの情報の海に、無数の「想い」が呑まれて行

く・・・。わたしたちが日ごろ目にしているのはごく表層の

ものだけで、それらは単に時流に乗って浮き上がっているの

であって、良いことかどうかはまた別の話だろう・・・。

と、そんなことを考えていて思い出したことがある。


 金子國義という画家がいた。2015年に78歳で亡くな

られている。



 こういう感じの絵を描かれていた。(ここに載せていいの    
   かどうか・・、著作権のことはよくわからない)


 金子氏の絵を初めて見た横尾忠則氏は「凄い絵だね・・。

僕はもう描くのが嫌になった・・・」ともらしたという。


 金子氏を世に紹介したのは澁澤龍彦氏(小説家・評論家・

フランス文学者)で、澁澤氏は「流行の波の上でサーフィン

をしたい者にはやらせておけばいい」と言い。世の中に目配

せをせず、金子氏のように自分の世界に深く没頭して行く人

間の表現の方に、大きな価値があると述べていた。


 〈 流行とは我慢のできない醜さの一種である

  だからこそ我々は半年ごとに流行を変えねばならぬ〉


 そう言ったのはオスカー・ワイルドだが、こういう辛辣で

味のある言葉を吐く人はずいぶん減ってしまったのではある

まいか?


 リッケルトというドイツの哲学者はこんなことを言ってい

る。


 〈 君の道を行きつくと、そこには必ず良き満足がある 〉


 自分は自分でしかなく、自分しか自分ではない。

 自分の中に止むにやまれぬ思いがあるのなら、世の中の評

価を気にせず、素直にそれに従って行く方が良いだろうと

は、誰でも自然に思うのではないだろうか?

 そうした結果、世の中からずれても、誰かからバカにされ

ても、生きるのに苦労しても、〈 そこには良き満足がある 〉

はずである。(でも、変な収集癖みたいなのとか、依存症や

犯罪に結びつくようなのはやっぱりビョーキで、得られるの

は「悪しき満足」だろうなぁ)


 一年間、誰にも聴かれることのなかった3500万曲。

「なんとなくアップしてみた・・・」という変わった人間も

いるかもしれないけれど、それらをアップした者たちのほと

んどが求めたのは、当然、より多くの人からの好評(と、利

益)だろう。そう期待した時点で “「自分が満足するかどう

か」を他人の手に預けてしまっている” ということになる。

それは、自分で満足することが出来なくなるということを意

味する。

 世の中に関わると「自分の満足」からかえって離れてしま

う。世の中は「自分の満足」の邪魔になる。自分を真に満足

させられるのは自分だけである。


 “自分のなりゆき” を愛でること・・・。そうすることで、

そこに「満足」が浮き出してくる。人はもっと自分を信じて

あげるべきだろう。いまある自分を認めてあげるべきだろ

う。

 世評や時流に関わりなく、ごく個人的な感覚を刺激され、

理由も分からず引き込まれること。そのなりゆきを認めてや

る。

 満足を得るための手段としての “何か” ではなくて、それを

すること自体が「満足」であるようなことに身をまかす。

 望んだことではないが、それをすることを「満足だ」と自

分に言ってみせてもウソにならないようなことは、受け入れ

る。


 世の中の波に乗って、自分のやりたいことをして、ひと時

楽しそうにしている者を後ろから眺めながら、自分の小舟

が、自分の小舟なりに進んで行くのを慈しむ。


 見物人はいらない。いてもいいけど、それは二の次。

 自分が世界を眺めている・・・。

 自分が世界の中を進んでいる・・・。

 なぜかは知らないけど進んで行く・・・。


 波の後ろ側は穏やかだろう。




  

2023年4月15日土曜日

くつろぐ



 「しあわせでいよう」と前回書いた。それをもう少しなじ

みやすい表現にするなら、「くつろごう」ということにな

る・・・ということなので、くつろごう。


 和尚(ラジニーシ)は、頻繁に「くつろぎなさい」と言

う。「ものごとを深刻に捉えず、くつろぎなさい」と。そん

な和尚の本(講話)の中にはこんな話がある。



  ある時、アレキサンダー大王はディオゲネスのことを聞

 きつけて会いに出かけた。

  愛犬と日向ぼっこをしているディオゲネスに会って言葉 
 
 を交わし、「自分は世界を征服するつもりだ」と話すと、  

 ディオゲネスはこう尋ねた。
 
  「世界を征服したあとはどうするのだ?」

  するとアレキサンダーはこう答えた。
 
  「世界を征服し終えたら、ゆっくりとくつろぐつもりで

 す」と。

  それを聞いたディオゲネスは大笑いをし、

  「それではまるで、人は世界を征服しなければくつろげ

 ないみたいではないか」と言い、「くつろぎたいのなら、  

 いまくつろげばいい。ここに座りなさい。もしわたしの座

 っている場所がいいのなら、わたしが脇へどけよう」と言

 った。
 
 アレキサンダーはなんともバツが悪くなった・・・。


 この話は、アレキサンダーの伝承に和尚がさらに話を付け

加えた創作だろう。けれど事の真偽などはどうでもいい。お

もしろい話だから。


 アレキサンダーは目的意識を持つ人間の象徴ですが、彼は

世界征服を成し終えたとしても、くつろぐことなどなく、宇

宙征服を目指すことでしょう。

 彼がくつろがないのは目的を果たしていないからではな

く、くつろぐことを知らないから。あるいは、くつろぐこと

を避けているからでしょう。

 アレキサンダーは世界を支配したいと思っているけれど、

当人はアタマに支配され切っている人間だといえる。自身の

中に “くつろぎ” があることや “くつろぎ” を求める声がある

ことに気付けなくなっているので、アタマによって常に何か

に駆り立てられ、動き続けている。彼は「くつろぎなさい」

と言われてもくつろぐことができない。もはや “くつろぎ” が

どういうことであるかも分からなくなっている。そして、ほ

とんどの人間がアレキサンダーより(物質的に)豊かな暮ら

しをしている日本のような国では、誰もが “くつろぐ” ことを

知らない。くつろげない。

 温泉旅館に行ったり、静かなカフェで過ごしたり、自宅で

ジャズやクラッシックを聴きながらゆっくりするように、型

にハマった時間を過ごすことが “くつろぐ” ことだと思い込ん

でいたりする。まぁ、その方がくつろがないよりはかなりマ

シではあるけれど、和尚の言う “くつろぎ” とはそういうこ

ではないだろう。


 仏教には「忙中閑あり」(ぼうちゅうかんあり)という言

葉がある。

 「閑」というのは、「のどか」「ひま」ということで、

「忙しい中にも “閑” がある」ということ。ところが私は長ら

くこの言葉の真意が分からなかった。けれど、今は分かる

(自分なりに理解して納得しているということです)。「忙

しい中にも閑がある」というよりも、わたしたちの本質は

「閑」であって、「閑の中に “忙” があったりする」というの

が本当なのだと。つまり「閑中忙あり」という方が、より適

切だろうと思っています。


 「閑」とは「のどか」ということ。わたしたちの本質

は “くつろぎ” だということです。

 ところが、わたしたちの本質である “くつろぎ” の中にアタ

マが「忙」を持ち込んでしまうので、わたしたちはくつろげ

ない。くつろぐことを忘れてしまう。妄想の作り上げた目的

に駆り立てられて、自分の本質を見失ってしまう。度が過ぎ

ればアレキサンダーのように、座ることもできなくなってし

まう・・・。


 わたしたちの本質は “くつろぎ” です。

 どんなに忙しい時でも、恐ろしい出来事に追い立てられて

いても、悲しみに沈んでいても、それらはみな “くつろぎ” と

いう本質の上で起きていること。大変な事が起きて現実的に

その事に振り回されていても、わたしたちの本質である “く

つろぎ” が乱されることはない。


 日本のあるお坊さんが言った。「安心して悩め」と。

 その言葉は、どんな悩みも、わたしたちの本質である “く

つろぎ” の上で起きていることだから「安心して」いればい

い・・・、つまり「本質である “くつろぎ” が乱されることは

ないから、それを心得ていなさい」ということを言っている

のでしょう。


 いついかなる時も、わたしたちはくつろぐことができる。

 くつろぐことができないと感じていても、わたしたちの本

質はくつろいでいる。

 猛獣に追われているように、この表面上の自分がまったく

くつろいでいない時でも、本当の自分はそのままでくつろい

でいる。それは自分の心の内を深く覗いてみればわかるこ

と。      

 アレキサンダーのような人間になってしまっていればわか

らないだろうけれど、わからなくても、本当の自分はくつろ

いでいるので心配はいらない。ただ、くつろぎを感じられな

いだろうから、それは生きている上では損なことだろうとは

思うけれど・・・。


 私やあなたは、幸運にもアレキサンダーのような人間では

ない。なので、心の内の “くつろぎ” が分かる。

 たとえ絶望のどん底にあるとしても、その絶望の周りに無

限の “くつろぎ” が広がっているのが感じられる。わたした

ち、いわゆる “普通の人” はアレキサンダーより恵まれてい

る。


 和尚が「くつろぎなさい」というのは、「わたしたちの本

質は “しあわせ” なのだから、それを忘れずに、そこからさま

よい出ないようにしなさい」ということだろう。

 仮にさまよい出てしまったとしても、それは “くつろぎ” の

中でのこと。“くつろぎ” からはみ出すことはない。ただちょ

っとばかり不快なだけ・・・、まぁ、その「ちょっと」が最

大の問題ではあるのだけれどね。



2023年4月13日木曜日

しあわせでいよう。



 しあわせでいよう。


 しあわせな人は不平を言わない。満足しているのだから。

 しあわせな人は余計なことはしない。もう足りているのだ

 から。

 不平を言わなければ、他人を不快にすることがない。

 余計なことをしなければ、他人の邪魔になったり他人を害

 したりすることはない。

 自分がしあわせであることは、世のため人のためになるの

 だ。


 世のため、人のため、真っ先に自分がしあわせになってし

 まおう。

 さしあたり他の人のことは放っておこう。

 他の人がしあわせでなくても、むやみに手出しをしないで

 おこう。

 当人が本気でしあわせになってみる気がなければ、どんな

 手出しも役に立たないし・・・。
 

 しあわせでいよう。

 しあわせになるのに理由はいらないのだから。


 しあわせでいよう。

 もう足りているのだから。


 しあわせでいよう。

 不満は妄想なのだから。


 しあわせでいよう。

 しあわせでないものは存在しないのだから。


 しあわせでいよう。

 他にすべきこともないし・・・。


 しあわせでいよう。

 自分が邪魔しなければすむことだから。


 しあわせでいよう。

 すべてに優先してそれは在るのだから。


 しあわせでいよう。

 自分がしあわせであることを世界は喜ぶのだから(たぶ

 ん)。


 しあわせでいよう。

 それは、しあわせなことだから。 


 で、どうすればしあわせでいられるのか?


 しあわせでいること以外のことは真に受けないことだ。



 

2023年4月2日日曜日

春の一日



 昨日(4/1)から自転車のヘルメット着用が義務化になっ

て、「さて、自転車ご利用の皆様方はどうされるのでしょう

か?」と街を見てみると、誰も被っていない。

 どこのバカが考えて施行した法律なのかは知らないが、日

本の国民が賢明だと言えないにしろ、こういう無意味なこと

をさせようとするなら、もっと脅さないとムリだよ。コロナ

みたいに・・・。ああいう風にさんざん脅しておけば、「マ

スク着用は個人の判断で」と政府が言って一か月たっても、

ほとんどの人がマスクを外さないというぐらい、人の判断力

を奪うことができる・・・、いや違うか、・・・人の判断力

の無さを発揮させることができるのに。


 日を同じくして、昨日から統一地方選挙の選挙活動が始ま

っていて、相変わらず車が走り回って名前の連呼をしてい

る。私が国会議員なら、【 選挙活動は、候補者がそれぞれ

「どんな考えを持っているか」「何をしようとしているか」

を書いたチラシを、決まった上限枚数、選挙区で配布するだ

け(街頭でも、戸配でもよい)にして、それ以外の選挙活動

は認めない 】という法案を出すけどね。その方が候補者の考

えが、詳しく広く有権者に知ってもらえるだろうし、活動資

金の格差もあまり影響しなくて、公平で内容のある選挙戦に

なると思うけど、そうするとお金のある大きな政党にはメリ

ットが無いので、そういう法案は出されないし、出されても

無視されるのだろう。民主的な国だなぁ。


 養老孟司先生は言う「白い紙に名前を書いて箱に入れた

ら、世の中が良くなると思うなんて、雨乞いすれば雨が降る

というのと同じだ」と。本でこれを読んだときは爆笑しまし

たけどね。こういう皮肉なんかを言うので養老先生が大好き

なんですけどね。


 何が正しいのかなんて誰も知らない。けれど「“知らないの

に知っているつもり” なのは間違いだ」と意識しているの

正しいだろう。正しいと言って悪ければ「望ましい」だろ

う。極端な害をまき散らすことはないだろうからね。


 「わたしは正しい」を言い合えば、当然仲が悪くなる。

《 「正しいこと」があるとすれば、それは仲良くすることだ

ろう 》という立場の私からすると、選挙戦は “間違いの見せ

っこ” でしかない。

 とはいえ、社会というものは大雑把にいえば “間違った事

を設定(認定)しておいて、それを是正する” という仕組

でしか動けないので、社会的役割に生きようとすれば、「正

しい(と思う)」ことを言い、「間違い(と思うこと)」を

指摘しなければしようがない。それをやめれば社会は停滞

し、もしかすれば崩壊する。(「その方が良い」という気も

するけど、それが正しいとは言わない)


 何千年も前には「社会」というものは存在していなかっ

た。そこここに在ったであろう人々の小さな集団は「社会」

というにはまだ小さく、「コミュニティ」というレベルのも

のだった。それは人が協同することで「自然」に対処する力

を増す為のもので、人々の考えなどは二の次だっただろう。

自分たちの身体や自然環境に対する、直接的で具体的な対応

を支えるものだっただろう。アタマがあまり介在しないの

で、「正しい」かどうかではなく「有効」かどうかで物事が

進んだことだろう。

 しかし今は、すべてにおいてアタマが優先して物事が進ん

で行くので、「有効」かどうかは二の次で、「正しい」か

「間違い」かという “気分” が重要になる。知らないのに知っ

ているつもりで・・・。

 今回の「自転車のヘルメット義務化」しかり、「新型コロ

ナワクチン」も「マスク」も、しかり・・・。


 脅したりおだてたりしながら、社会は人を動かしてゆくの

だけれど、脅しも、おだても、アタマの一人相撲だというの

がことの本質なんだから放っておけばいいのに、みんな関わ

りたがるんだよなぁ。暇で淋しいんだろうな。


 さっき、ちょこっと花見に行って来たけど、平和なもので

す。わたしたちのアタマが余計なことをしなければ人は平和

でしあわせな存在だと、花見の光景なんかを見ていると感じ

るけどね。

 桜がキレイ。気分がイイ。

 その感覚は間違いではないだろう。理屈じゃないからね。




        ↑ 写っているのは知らない人です。
       

              ↓ こちらはおまけ。我が家のそばのタツナミソウ。
      キレイでしょ。


     平和なんだけどなぁ。