2023年4月2日日曜日

春の一日



 昨日(4/1)から自転車のヘルメット着用が義務化になっ

て、「さて、自転車ご利用の皆様方はどうされるのでしょう

か?」と街を見てみると、誰も被っていない。

 どこのバカが考えて施行した法律なのかは知らないが、日

本の国民が賢明だと言えないにしろ、こういう無意味なこと

をさせようとするなら、もっと脅さないとムリだよ。コロナ

みたいに・・・。ああいう風にさんざん脅しておけば、「マ

スク着用は個人の判断で」と政府が言って一か月たっても、

ほとんどの人がマスクを外さないというぐらい、人の判断力

を奪うことができる・・・、いや違うか、・・・人の判断力

の無さを発揮させることができるのに。


 日を同じくして、昨日から統一地方選挙の選挙活動が始ま

っていて、相変わらず車が走り回って名前の連呼をしてい

る。私が国会議員なら、【 選挙活動は、候補者がそれぞれ

「どんな考えを持っているか」「何をしようとしているか」

を書いたチラシを、決まった上限枚数、選挙区で配布するだ

け(街頭でも、戸配でもよい)にして、それ以外の選挙活動

は認めない 】という法案を出すけどね。その方が候補者の考

えが、詳しく広く有権者に知ってもらえるだろうし、活動資

金の格差もあまり影響しなくて、公平で内容のある選挙戦に

なると思うけど、そうするとお金のある大きな政党にはメリ

ットが無いので、そういう法案は出されないし、出されても

無視されるのだろう。民主的な国だなぁ。


 養老孟司先生は言う「白い紙に名前を書いて箱に入れた

ら、世の中が良くなると思うなんて、雨乞いすれば雨が降る

というのと同じだ」と。本でこれを読んだときは爆笑しまし

たけどね。こういう皮肉なんかを言うので養老先生が大好き

なんですけどね。


 何が正しいのかなんて誰も知らない。けれど「“知らないの

に知っているつもり” なのは間違いだ」と意識しているの

正しいだろう。正しいと言って悪ければ「望ましい」だろ

う。極端な害をまき散らすことはないだろうからね。


 「わたしは正しい」を言い合えば、当然仲が悪くなる。

《 「正しいこと」があるとすれば、それは仲良くすることだ

ろう 》という立場の私からすると、選挙戦は “間違いの見せ

っこ” でしかない。

 とはいえ、社会というものは大雑把にいえば “間違った事

を設定(認定)しておいて、それを是正する” という仕組

でしか動けないので、社会的役割に生きようとすれば、「正

しい(と思う)」ことを言い、「間違い(と思うこと)」を

指摘しなければしようがない。それをやめれば社会は停滞

し、もしかすれば崩壊する。(「その方が良い」という気も

するけど、それが正しいとは言わない)


 何千年も前には「社会」というものは存在していなかっ

た。そこここに在ったであろう人々の小さな集団は「社会」

というにはまだ小さく、「コミュニティ」というレベルのも

のだった。それは人が協同することで「自然」に対処する力

を増す為のもので、人々の考えなどは二の次だっただろう。

自分たちの身体や自然環境に対する、直接的で具体的な対応

を支えるものだっただろう。アタマがあまり介在しないの

で、「正しい」かどうかではなく「有効」かどうかで物事が

進んだことだろう。

 しかし今は、すべてにおいてアタマが優先して物事が進ん

で行くので、「有効」かどうかは二の次で、「正しい」か

「間違い」かという “気分” が重要になる。知らないのに知っ

ているつもりで・・・。

 今回の「自転車のヘルメット義務化」しかり、「新型コロ

ナワクチン」も「マスク」も、しかり・・・。


 脅したりおだてたりしながら、社会は人を動かしてゆくの

だけれど、脅しも、おだても、アタマの一人相撲だというの

がことの本質なんだから放っておけばいいのに、みんな関わ

りたがるんだよなぁ。暇で淋しいんだろうな。


 さっき、ちょこっと花見に行って来たけど、平和なもので

す。わたしたちのアタマが余計なことをしなければ人は平和

でしあわせな存在だと、花見の光景なんかを見ていると感じ

るけどね。

 桜がキレイ。気分がイイ。

 その感覚は間違いではないだろう。理屈じゃないからね。




        ↑ 写っているのは知らない人です。
       

              ↓ こちらはおまけ。我が家のそばのタツナミソウ。
      キレイでしょ。


     平和なんだけどなぁ。






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