2021年12月29日水曜日

『マトリックス』はヤバい!



 今日は『マトリックス・レザレクション』を見て来た。ざ

っくり言えば「愛は効率主義の仮想現実を凌駕する」という

話。・・・観てない人には何のことかさっぱりだし、観た人

にも分かってもらえないかもしれないけど。


 『マトリックス』はさまざまに比喩的な解釈のできる作品

で、このブログでは主に「経済システムに人間が操られ、利

用されていることを表している」と読み解いている。(『リ

アルマトリックス』2017/3)

 けれども、今回の作品はそこからさらに踏み込んで、「現

実とは何か?」「現実は存在するのか?」というところに踏

み込んでいる。観ていてアタマがクラクラするような感覚に

なる人も結構いるんじゃないだろうか。映画の中でも「『マ

トリックス』はヤバい!」と、セルフパロディのような、あ

るいは作者自身の戸惑いのようなセリフが出てくる。

 数日前に『私の現実』などというブログを書いた私には、

そもそも二重構造になっている “現実” に、映画の物語が重な

って、“現実” が五重構造であるような感覚になった。面白い

ような気持ち悪いような・・・。


 「これは現実か?」。今回の作品の前半では、主人公のネ

オがそのことで精神を強く揺さぶられるのだが、実際に、わ

たしたちの “現実” には実体が無い(ムチャクチャな表現だな

ぁ)。


 『夢の終わりに』(2021/6)という回で書いたように、

結局のところ、わたしたちの人生は夢だと言うしかないの

で、“現実” という言葉は、考えるほどに宙に浮く。


 〈 “「これは現実か?」と考えている自分は現実か?” と考

えている自分は現実か?〉以下、永遠に続く・・・・。


 映画の中では、マトリックスの中で現実と妄想の区別が出

来ずに苦しむネオがいて、そのマトリックスをつくりだして

いるプログラムが存在して、そのプログラムを生んだ機械

(AI) が存在していて、機械と生身の人間が存在している世

界があるのだが、その世界は何者かの意識の中ではないの

か?


 そして、私やあなたの〈意識〉は、私やあなたに在るの

か?

 私は違うと感じている。


 それはクラクラするような考察だけど、その奥には、なに

やら深い安らぎを感じる。


 それを現実と呼んでいいのかどうか・・・。私に語る言葉

は無いが・・・。

 確かに『マトリックス』はヤバい。








2021年12月26日日曜日

「リスク」と「現実の困難」



 この頃テレビを見ていると、肩にワクチンを注射する映像

がよく流れる。

 数 ml の液体を注入して「はい、これで安心」。

 「お手軽なものだなぁ」と思う。


 生きていることを脅かすリスクは無数にある。その中のひ

とつの病気(それも普通の人にはリスクの低い病気)を予防

する措置をとって、「はい、これで安心」・・・。あとの無

数のリスクのことは気にならないのかい? 胆力があるのか鈍

感なのかはしらないけど、それなら、そもそもひとつの病気

なんて怖がらなくてもよさそうだが・・・。


 あの映像では、身体に具体的な薬品を注入しているわけだ

けど、実際は「気分に安心材料を注入している」という意義

の方が大きい。医学的な措置ではなくて、社会的・心理的処

置だろう。だから、その医学的効果やリスクは二の次でいい

のだ。

 不安を掻き立てて、安心や希望を売る。それは社会の常套

手段だ。それをマッチポンプという。

 古来から、どこの土地でも、特にそこが都市化するほどに

その手法が使われる。意識的にか自然発生かは別にして、そ

れは繰り返されてきた。そしてその度、人は暴走する。


 実際に起きた困難(災害など)に対処するのは、具体的で

一応の「終わり」が分かる。けれど、不安は「現実化してい

ない困難」なので、それへの対処には「終わり」が無い。恣

意的にゴールが変更できる(される)。その曖昧さが暴走を

生む。それは個人でも社会でも同じ。「現実化していない困

難」をアタマの中に持ち続ける限り、その “困難” は続く。ア

タマが悪い。


 不安と闘う人たちは、「困難は自分の外にある」と信じて

いる。けれど、「現実化していない困難」が自分の外にある

わけがない。キッカケがあることとはいえ、自身で作り出し

た「アタマの中の困難」と闘い続けているなんて誰も思って

いない。自分で止めない限り、闘いは続き、「実際には無い

困難」との闘いは暴走となって行く。だってゴールがどこか

分からないのに動き続けるのは暴走でしょ?少なくとも迷走

ではある。


 しかし、「実際に起こり得る困難」の芽を摘むことはでき

そうに思える。意義があるように思える。けれど、それはで

きるのだろうか?


 ワクチンを接種して病気を防ぐ。

 倒れそうな建物に補強をして倒れるのを防ぐ。

 そういったことは効果があるように思える。

 けれど、「病気になるかもしれない」ことや、「建物が倒

れるかもしれない」ことも、共に確定ではない。あくまでも

「かも・・・」の話だ。それは「今日は、外に出ると交通事

故に遭う」と、占い師に言われて家から出ないことと五十歩

百歩の話ではないのだろうか?


 リスクの無い行動、リスクの無い「生」、そんなもの無い

し、そもそも、“リスクの無い「生」” を生きたとしたら、ど

う感じるだろうか?


 何ひとつ世界からの揺さぶりが無いままに生きる・・。果

たして、生きていると感じられるのだろうか?

 そして、いずれは誰もが死ぬことになるけれど、「死」は

失敗なのだろうか?


 すべての人、すべての生命に訪れる「死」が失敗であるわ

けがない。「死」を失敗だと思うのは、人間のエゴ(アタ

マ)だけだ。


 今回のコロナ騒動で、現代人のお里は知れたというべきだ

ろう。

 リスクの根源であり、事実として存在する「死」を無い

とにしようとするのは不毛だ。


 また、「死」と折り合いを付け、「死」を受け入れようと

するのも浅はかだ。

 「死」を無いことにするのは論外だが、「死」と折り合い

を付け、受け入れようとするのも立ち位置がズレている。


 「生」は「死」から生み出される。そして「生」にとって

「死」が起こるのは「生」の最後の一場面だが、「死」は

「生」の結果でも、帰結でもない。ただの必然だ。「死」は

「生」にとっての「困難」ではない。

 そのように必然である「死」を忌み嫌う意識は、「死」を

想起させるものを「困難」と捉え、その意識が、「死」の不

安を増大させる出来事を現実の世界においても生みだしてし

まう。やはりマッチポンプだ。

 人は、「死」を捉え直す時を迎えているのかもしれない。


 「生きている」という立場からは、「死」を上手く先送り

してゆくことは自然だろう。けれど、「死」は「生」の反対

概念ではない。「死」は「生」の母体だ。それは人間以外の

生き物を見れば、おのずと理解されることではないだろう

か?


 人はエゴを持ったことで、「個」というものがあると感じ

ているけれど、この世界には「個」などない。人が「個」を

見てしまうだけなのだ。

 「破壊と再生」などと言ったりするけれど、「個」が破壊

され、あらたに「個」が再生されることは無い。そこにある

のは連綿たる変化の姿だけだ。その変化を忌み嫌い、「生」

と「死」を力尽くで断ち切ろうとすることは、人間らしい愚

行だ。



 この前、お釈迦さまの手のひらの上の孫悟空の話を書いた

けれど、「生」は孫悟空を意味し、「死」はお釈迦様の手の

ひらを意味してもいる。


 わたしたちは「死」の上で、おおらかに、安心して生きて

いればいいのではないだろうか?

 生きていようが、「生」が終わろうが、わたしたちは常に

「死」に抱かれているのである。「心配」はいらない。

 「死」は存外あたたかい。(たぶん)




2021年12月25日土曜日

私の現実



 こんなブログを書き続けて、もうすぐ丸5年になる。

 内容からすれば、「この書き手は現実から乖離している」

と思われたとしても無理はない。

 「アタマが悪いなんて言ってるけど、アンタのアタマはオ

カシイよ」と言われても、「そう思われてもしようがない

ね」と答えるだろう。とはいえ、私は現実から乖離していは

いないだろう。


 字も書ける。人と普通に会話もできる。仕事もしている。

信号も(一応)守るし、車が来たら除ける。猫は猫に見える

し、クリサンセマム・ムルチコーレはクリサンセマム・パル

ドーサムではないと分かる。大晦日には年越しそばも食べ

る・・・。それなりに現実とつき合っている。ただ、普通の

人の現実に比べたら、私の現実の内容のバランスはかなり違

うだろう。


 普通の人の現実は、人間の「お話し」が大部分を占めてい

て、大変重要に捉えられていると思うけど、私の現実では、

人間の「お話し」はあくまで「お話し」であって、現実とし

ての重み付けは低い。

 私にとって、人間の「お話し」は、「一応配慮しておかな

いと、赤信号で渡ると車にはねられるかもしれない」という

程度であって、本当の現実ではないと認識している。私の現

実は「お話し」の外に在る。


 そういう立ち位置なので、素直にものを言うと、このブロ

グのような話になってしまう。


 そんな私の “現実” が、本当に現実から乖離していたら、精

神病院に入ったり、変な命の落とし方をしたりすることだろ

うけど、この先、そうなったらそうなったで構わない。それ

が自分の在り方ならばしようがない。自分は自分を生きるし

かないし、自分に起きること、自分がすること、それがなん

であろうと、自分にはそれしかないのだろうから、それを生

きるだけなのだ。


 それは人間の「お話し」も包括している “この世界” の大

な流れだから、人間の小賢しい考えはさておき、その流れ

ノープランで流されて行くにしくはない。


 人生という船の上で、あれこれ考えたりうろつき回ったり

してもよい。けれど、流されていることにかわりはない。着

く所は同じ。

 普通の人にとって、現実は船の上のことなのだろうが、私

にとっては船から見える景色が現実だ。甲板に吹く風が現実

だ。ホールで踊ったり、映画を観たりするのはとうの昔に飽

きてしまった。


 甲板に出て、命の風を感じる方が気持ちがいい。空の色や

飛ぶ鳥に目を奪われている方が心が喜ぶ。

 「お話し」ではないもの。それが私にとっての “現実” だ。

 そして、おそらくすべての人にとっても 、それが “現実” 

のはずだ。


 自分の船が大きいか小さいか・・。それの見方は人によっ

て違うだろう。けれど、空は誰が見たって広い。そして、空

は誰の上にも広がっている。

 誰にとっても変わりなく在るもの。

 それが現実でなくて何が現実だろうか?



2021年12月24日金曜日

サイレント・ナイト、ホーリー・ナイト



 今日はクリスマス・イブ。神戸では、クリスマス・イブの

夜更け過ぎに雨が雪へと変わることなどまず無い。それで

も、「サイレント・ナイト」が「ホーリー・ナイト」である

ことは確かだろう。本当に “サイレント” であればだけど。


 サイレントはホーリーだ。サイレントこそがホーリーだ。

サイレントでなければホーリーではない。

 ただ、サイレントといっても、「音が無い」というサイレ

ントではない。「沈黙」という意味のサイレント。それも

「思考が沈黙している」という意味のサイレントであるなら

ば、ホーリーなのだ。


 『ジングルベル』が鳴り響いていても、“きっと君は来な

い・・・” と、グッと来る歌声が流れて来て、なにやら心に

暖かで気高いものが湧いて来たとしても、それはホーリーと

はまた違う話だ(それはそれで素敵なんだが・・・)。ホー

リーは、それらの背後に広がっている「沈黙」の方だ。それ

はクリスマスに限らず、いつでもどこにでも在るものだが、

わたしたちは普段そんなことは考えもせずに生きている。


 せっかくのクリスマス・イブだ、気分の良い音楽でも少し

味わったら、外へ出て夜空でも見上げてみよう。そこにはサ

イレントでホーリーな空が広がっている。サイレントでホー

リーな夜風も吹いているだろう。サイレントな雪が降り始め

ているかもしれない・・・。そして「沈黙」に耳を傾け、

「沈黙」に目を凝らすならば・・・。


 一人きりのクリスマス・イブに、心深く秘められた場所

へ・・・・


 サイレント・ナイト、ホーリー・ナイト・・・・・・




2021年12月22日水曜日

死なせないにも程がある



 今日書こうと思っていることは、「いくらなんでも非常識

過ぎるだろう」というそしりを受けるかもしれない。けれ

ど、書く。そういう視点から、一度今の日本を見てみる必要

が有ると思うので。


 何の話かというと、今の医療は、むやみやたらに人の命を

救おうとし過ぎじゃないのかということ。そんなにまでして

命を救おうとしなければならないのか?

 以前、『死にたくないにも程がある』(2020/3)という

話を書いたけど、死なせないにも程があるだろう。


 先日、大阪で酷い放火事件が起きた。京アニの事件を思い

起こさせる酷い事件。

 一酸化炭素中毒で27名が心肺停止状態で救急搬送され、

すでに25名が亡くなっている。容疑者を含む2名が今も重

体なのだが、一酸化炭素中毒で心肺停止状態から、かりに延

命できたとしても、脳は深刻なダメージを受けているから、

脳死状態や植物状態になる可能性はとても高い。もう少し回

復したとしても、「閉じ込め症候群」のような状態になるか

もしれない。そんなこと、医療関係者なら分かっている。健

康を回復する確率はほとんど無いだろう。それでも命を救お

うとするのは、同調圧力に押されているだけだったり、現代

人(裕福な先進国の人間)の思い上がりだったりするのでは

ないのか?


 命とは何か?


 私の母親が86歳の時に脳梗塞で倒れ、救急搬送された。

薬が効いて意識が回復し、一応会話も成立する状態になっ

た。その時点で、担当医が私と兄に告げた。

 「首の血管に大きな血栓が残っています。これが動いて脳

に流れると今度は命に関わりますので、取り除く手術をした

方が良いと思います。リスクのある手術で、20%ぐらいの

確率で、意識が戻らず寝たきりになる可能性がありますが、

どうされますか?」

 私は耳を疑い、担当医の顔をしげしげと眺めた。

 86歳の人間が脳梗塞で倒れたが、一応意識は取り戻し、

会話もできているのに、命を守る為に植物状態になるかもし

れない手術を勧める・・・。「世の中狂ってるなぁ」と正直

思った。兄と私は、即座に手術を断った。


 命とは何か?


 発展途上国では、日本では助かる病気やケガで多くが亡く

なっているだろう。かたや日本では、途上国の平均寿命をは

るかに過ぎたガン患者の命を救う為に、「重粒子線で叩く」

とか「ウイルスを利用して治療する」とか「免疫細胞を活性

化させて身体にもどす」だとか、次々に新しい治療法が出て

くる。そして、それが当たり前のように喧伝される。が、そ

れは富める国の思い上がりではないのか? そういう見方があ

ることをアタマの隅にでも持っているか?


 命とは何か?


 生物としての命。

 個体としての命。

 文化としての命。

 思想としての命。

 命にもいろいろあるのが現代のようだ。

 そして二言目には「命を救え」というけれど、その言葉と

は裏腹に、現代の命の在り様はやせ細っているのではないだ

ろうか。なぜなら、死を忌み嫌い、死そのものを「悪」のよ

うに考えるのなら、「生」と「死」から成り立っている

〈命〉は、多くのものを失うからだ。


 「生」だけが〈命〉ではない。そのうえ、「生」を社会的

なマニュアルに照らして一律に扱うのなら、それぞれの

「生」は社会の “見出し” のようになってしまう。

 生きているのは、身体か心かアタマか魂か・・・。
 

 「生きること」を真剣に考えたことのない人間たちが、よ

ってたかって〈命〉の上っ面をいじりまわっている。


 「命を守れ!」


 その言葉は言外に「死を許すな!」と言っている。そして

その分、私の耳には空疎に響く。


 きちんと死ぬこと。

 穏当に死なせてあげること。


 「命を守る」ということには、そういうことも含まれてい

るはずだと私は思う。

 やはり、「生」だけが命じゃない。

 倫理や道徳で命は守れない。

 命を守れるのは、愛だろう。慈悲だろう。

 死に往くことを受け入れる、脆くて暖かい静かさだろう。


 私は言いたい。「本当に命を守ってくれよ」と。


 誰もうなずいてはくれないかもしれないけれど。







 

2021年12月19日日曜日

情報禍社会



 早くも十二月も押し迫って来て、今年もあっという間の一

年だった。 

 歳を取ると一年はあっという間に過ぎて行く。さまざまな

に慣れて、日々の出来事の印象が薄いせいだろうと考えて

る。


 いろいろなニュースを見ても、「同じようなことがこれま

でにも有ったなぁ」という感じなので、過去の出来事の印象

に紛れてしまい、新鮮な驚きなんか無い。ある種、不感症な

のだろう。まぁ、しようがないだろうね。逆に、いい歳をし

て、ニュースを見ていちいち驚いてたりしたら「子供っぽい

人だなぁ」などと思われるのではないだろうか?

 というわけで、今年一年、世の中の出来事は私に大した刺

激をくれなかった。少々不快になったり、楽しんだりという

ことは有ったけれど、驚くようなことは別になかったなぁ。


 そもそも、ニュースだとか人づてに聞く話だとかが暮らし

の中で大きな位置を占めるようになったのは、そんなに古い

話でもないだろう。日本ならせいぜい江戸時代あたりからだ

ろうと思う。(えっ?古い?)


 昔は、いつどこでどんなことが起きたかなんて話は、ちょ

っと距離が離れれば、耳に入って来なかっただろう。どんな

大事件が起きていようが、知らなければ関係が無い。関係の

しようも無い。山の向こうで恐ろしい流行り病が猛威を振る

っていようと、知らぬが仏。知らなければ平和なものだ。

人々にとって重要なのは、情報ではなくて、自分の暮らしに

実際に起こる出来事。体験だった。そしてそれで十分だった

ろう。時に重大な体験をしながらも、日々の暮らしは淡々と

静かな喜びを紡ぐように過ぎたのではないだろうか? まぁ、

領主の搾取が酷かったりしたら、「静かな喜びを紡ぐ」なん

てわけには行かなかっただろうけど、どこかの「お話し」に

自分の生活が実際に揺さぶられることは無かったことだろ

う。


 それに比べて、今や誰もが「お話し」に酷く揺さぶられる

生き方をしている。なにせ、スマホの画面に表示される「死

ね」という言葉で自殺してしまったりするのだから。

 それまでの経緯があるにせよ、数十ビットの電気信号によ

る最後の一押しで、人生が終わるというのは・・・。


 それが「弱い」とか言うのではない。その気持ち、感覚は

分かる。ネット上に書き込んだ自分のコメントに、口汚い返

信をされただけで、私もかなり気持ちをかき乱されてしまう

のだから、集中して攻撃されれば相当なダメージが有るのは

理解できる。

 それは、ネット社会以前の人生の方が長い私のような者で

であっても、生活の中で情報が大きなスペースを占める生き

方をして来たことの証だろう。ならば、今の若い世代が、ス

マホに表示される情報に人生を左右されても不思議はない。

今は、体験より情報が重い世界になったのだろう。キレイな

夕焼け空の広がる街角で、スマホ画面の “自然の画像” を楽し

んでいたりするのだから。


 若い頃、「これからは “情報化社会” になる」と聞かされ

た。そして実際にそうなったけれど、なってみれば、 “情報

化社会” というより “情報禍社会” と呼ぶ方がいいのかもしれ

ない。誰もが情報に揺さぶられ、一喜一憂、右往左往して、

生きていることを味わうことなど、ほとんどの人は思いもし

いようだ。

 それを「禍(わざわい)」と呼ぶことは、決して的外れな

ことではないと思う。




    数日前の夕方。雲がオパール色に光っていた
  スマホに撮るだけではなく、しっかりと自分の目でも楽      
  しんだ 



2021年12月13日月曜日

クリシュナムルティと孫悟空 ~ 瞑想について



 クリシュナムルティの著作から、瞑想についての言葉だけ

を集めた、『瞑想』という本を先日買って読んでいる。

 詩集のような体裁の100ページほどの本なので、普通に

読めば一時間もかからないと思うけど、寝床に入ってから読

んでいるので、20ページぐらいで眠くなってしまって、ま

だ読み切れていない。今日か明日には読み終わるだろうけ

ど。


 クリシュナムルティの名前は昔から知っていて、興味もあ

ったのだが、なぜかこれまで接することがなくて、予備知識

も無いまま読み始めたのだけど、私にはなじみが良い。語ら

れていることがスッと入ってくる。ただ、この本の構成には

少し難がある。でも、それは編纂者のせいであって、クリシ

ュナムルティのせいではない。

 で、今回こういう本を読んだ流れで、「瞑想」について書

いてみたいと思う。


 私はこれまで「瞑想」というものをしたことがない。自分

のしていることが実質的に「瞑想」になっているということ

はよくあったけれど、意識して「瞑想」をしたことはない。

座禅だとかマインドフルネスだとかもしたことがない。そう

いう “型” を使うと、その “型枠” の分だけ取りこぼし  

るいは消し残し  がありそうな感じがして、どうも嫌なの

だ。

 そういう私の気持ちを裏打ちしてくれるように、クリシュ

ナムルティは「瞑想」の技法の持つ “落とし穴” のような部分

をさまざまに語っている。


 「瞑想」というと、「意識のシンプルな一点に集中するこ

と」のように言われることが多いようだ。

 たとえば、呼吸に意識を集中することで、思考が暴れるの

を防いだりというように。

 さらにその状態を深めて「無心になる」というのが、「瞑

想」の完成のように思われてもいるのだろう。けれど、クリ

シュナムルティの語ることに耳を向けると、そのようには言

っていないようだ。そして私もそう思っている。


 一時、思考をおとなしくさせることはできても、そんなこ

と長くは続かない。そして、「無心」になんて死ぬまでなれ

ない。そのようなことを目的にすれば、その目的の為に、思

考に微妙なエネルギーが供給され続けることだろう。「無心

になれた」と思うことはできるだろうが、そう「思う」のも

思考の働きにとどまる。


 「無心」になんてならなくていい。もとよりそんなこと無

理だし、その必要もない。考えるのがアタマの役目なのだか

ら、考えさせておけばいい。


 クリシュナムルティの語る「瞑想」は、アタマの右往左往

はそのままにさせておきながら、そのバックグラウンドに 

“静寂の空間” が広がっていることに気付いていることだろ

う。それにさえ気付いているのなら、しゃべっていようと、

働いていようと、泣いていようと、怒っていようと「瞑想」

の中に在る。そういうものだろうと、いわゆる「瞑想」をし

たことがない私は思う。


 泣いたり笑ったり怒ったり羨んだり、さまざまにかき乱さ

れながらも、その右往左往は、完全に安らかな “静寂の空

間” の中で行われている。


 そんなことを考えていたら、急に孫悟空の話が頭に浮かん

だ。「お釈迦様の手のひらの上」で右往左往する孫悟空の話

は、“静寂の空間” の中で右往左往するわたしたちのアタマを

表している。いくら「瞑想」しても、それも右往左往のひと

つ。「瞑想」も辞めて、お釈迦様の手のひらの上に「どっこ

いしょ」と座って、お釈迦様の手のひらとひとつになれば、

“自分の思考” という〈孫悟空〉が、必死に飛び回っているの

が眺められるだろう。


 「ああ、ごくろうさんだな」


 そう思えて、孫悟空が可愛く思えることだろう。


 わたしたちは、ホント、「ごくろうさん」なのだ。





2021年12月7日火曜日

「背かない」 釈迦の言葉



 You Tube のおすすめで『シャカ』という昔のテレビ番組

がアップされてたので観た。

 いい番組だった。昔は民放でもこんな番組を作っていたの

だ。テレビはどこで道を間違えたのか?

 それはさておき、番組の最後の方で、釈迦の次の言葉が紹

介された。


 世間すべてに背くことなく

 犀の角のように

 唯独り歩め


 たぶん『法句教』の中の言葉だと思うけど(たぶんで

す)、画面に出て来たこの言葉の字面を見ていて、「背く」

という言葉の意味を捉え直すことができた。


 世間すべてに背くことなく・・・


 「そんなこと不可能でしょ」

 誰もがそう思うでしょう。私もそう思ってきた。

 「背く」という言葉は、「逆らう」「反発する」といった

意味なので、〈 世間すべてに背くことなく 〉といっても、相

反する立場の人たちの間に立てば、あちらを立てればこちら

が立たずということになってしまって、どちらにも背かない

でいることなどできないはず。

 「お釈迦さんムリ言うなぁ」と思ってしまう。

 ところが、今回、字面を見て気が付いたんです。「背かな

い」というのは、単に「背を向けない」と捉えればいいのだ

と。


 世間のすべてに「背を向けない」だけであって、それぞ

れ、おのおのの立場に踏み入らないで、ただそれぞれの立

場・考えがあることを認識しているだけ。それなら可能だ

し、それは最上のことだろう。

 なぜなら、人の世に絶対に正しいことなどないのだから、

ある立場に立つことは、程度の差こそあれ、間違いを犯すこ

とに他ならない。けれども、人の数だけ世間はあって、それ

ぞれが「自分は正しい」と思っている。つまり、誰もが間違

いを犯している。

 なので、それに賛同したり反対したりするのではなく、た

だ観ている。それが  “中道” であり 、“正道” というものだ

ろう。


 釈迦は、世間の中に在って、なおかつ世間の立場に立たな

かった。

 世間の立場に立たないのならば、世間から離れてしまえば

よさそうなものなのにそうしなかったのは、慈悲によっての

み生きていたからだろう。慈悲の存在として在ることだけ

が、釈迦の生きる意味だったからだろう。


 世間すべてに背を向けない。

 どのような立場の者でも、誰一人否定しない。

 そのような人間(釈迦)が、実際に生きている。目の前に

る・・・。


 釈迦に出会うことは、正しさと間違いのせめぎ合いの中で

翻弄される人々にとって、世の中がひっくり返るような事だ

っただろう。


 「正しかろうが間違ってようが、そんなこと、生きている

こととは関係ないのだ・・・」


 釈迦が生きていることが、その証明になる。

 釈迦が生きて、歩いていることによって、それを突きつけ

られる。

 そして、その姿によって人々は気付く。


 「自分は、生きていながら、生きるということを観ていな

かった・・・」



 大それたことだけど、冒頭の句を、私なりに補足しよう。


 世間のすべてに背を向けることなく

 それぞれの弱さに対する慈しみを持ち

 それぞれの苦しみを共に悲しみながらも

 それらの人々の拠り所となるために

 心の中の、まっさらな、よどみのないスペースを開いて

 犀の角のように

 唯独り歩め


 その歩みは、なによりもまず、自分自身の安らぎになる。


 大袈裟な事じゃない。

 ほんの少しでも、そうあれば、その分だけ自分もまわりも

安らげる。

 背を向けない。

 そして、ただ、観ている。同じ人として、同じ苦しむも

のとして、同じ生きるものとして、いま在ることの不可思議

を喜びながら。