2021年12月13日月曜日

クリシュナムルティと孫悟空 ~ 瞑想について



 クリシュナムルティの著作から、瞑想についての言葉だけ

を集めた、『瞑想』という本を先日買って読んでいる。

 詩集のような体裁の100ページほどの本なので、普通に

読めば一時間もかからないと思うけど、寝床に入ってから読

んでいるので、20ページぐらいで眠くなってしまって、ま

だ読み切れていない。今日か明日には読み終わるだろうけ

ど。


 クリシュナムルティの名前は昔から知っていて、興味もあ

ったのだが、なぜかこれまで接することがなくて、予備知識

も無いまま読み始めたのだけど、私にはなじみが良い。語ら

れていることがスッと入ってくる。ただ、この本の構成には

少し難がある。でも、それは編纂者のせいであって、クリシ

ュナムルティのせいではない。

 で、今回こういう本を読んだ流れで、「瞑想」について書

いてみたいと思う。


 私はこれまで「瞑想」というものをしたことがない。自分

のしていることが実質的に「瞑想」になっているということ

はよくあったけれど、意識して「瞑想」をしたことはない。

座禅だとかマインドフルネスだとかもしたことがない。そう

いう “型” を使うと、その “型枠” の分だけ取りこぼし  

るいは消し残し  がありそうな感じがして、どうも嫌なの

だ。

 そういう私の気持ちを裏打ちしてくれるように、クリシュ

ナムルティは「瞑想」の技法の持つ “落とし穴” のような部分

をさまざまに語っている。


 「瞑想」というと、「意識のシンプルな一点に集中するこ

と」のように言われることが多いようだ。

 たとえば、呼吸に意識を集中することで、思考が暴れるの

を防いだりというように。

 さらにその状態を深めて「無心になる」というのが、「瞑

想」の完成のように思われてもいるのだろう。けれど、クリ

シュナムルティの語ることに耳を向けると、そのようには言

っていないようだ。そして私もそう思っている。


 一時、思考をおとなしくさせることはできても、そんなこ

と長くは続かない。そして、「無心」になんて死ぬまでなれ

ない。そのようなことを目的にすれば、その目的の為に、思

考に微妙なエネルギーが供給され続けることだろう。「無心

になれた」と思うことはできるだろうが、そう「思う」のも

思考の働きにとどまる。


 「無心」になんてならなくていい。もとよりそんなこと無

理だし、その必要もない。考えるのがアタマの役目なのだか

ら、考えさせておけばいい。


 クリシュナムルティの語る「瞑想」は、アタマの右往左往

はそのままにさせておきながら、そのバックグラウンドに 

“静寂の空間” が広がっていることに気付いていることだろ

う。それにさえ気付いているのなら、しゃべっていようと、

働いていようと、泣いていようと、怒っていようと「瞑想」

の中に在る。そういうものだろうと、いわゆる「瞑想」をし

たことがない私は思う。


 泣いたり笑ったり怒ったり羨んだり、さまざまにかき乱さ

れながらも、その右往左往は、完全に安らかな “静寂の空

間” の中で行われている。


 そんなことを考えていたら、急に孫悟空の話が頭に浮かん

だ。「お釈迦様の手のひらの上」で右往左往する孫悟空の話

は、“静寂の空間” の中で右往左往するわたしたちのアタマを

表している。いくら「瞑想」しても、それも右往左往のひと

つ。「瞑想」も辞めて、お釈迦様の手のひらの上に「どっこ

いしょ」と座って、お釈迦様の手のひらとひとつになれば、

“自分の思考” という〈孫悟空〉が、必死に飛び回っているの

が眺められるだろう。


 「ああ、ごくろうさんだな」


 そう思えて、孫悟空が可愛く思えることだろう。


 わたしたちは、ホント、「ごくろうさん」なのだ。





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