2021年12月19日日曜日

情報禍社会



 早くも十二月も押し迫って来て、今年もあっという間の一

年だった。 

 歳を取ると一年はあっという間に過ぎて行く。さまざまな

に慣れて、日々の出来事の印象が薄いせいだろうと考えて

る。


 いろいろなニュースを見ても、「同じようなことがこれま

でにも有ったなぁ」という感じなので、過去の出来事の印象

に紛れてしまい、新鮮な驚きなんか無い。ある種、不感症な

のだろう。まぁ、しようがないだろうね。逆に、いい歳をし

て、ニュースを見ていちいち驚いてたりしたら「子供っぽい

人だなぁ」などと思われるのではないだろうか?

 というわけで、今年一年、世の中の出来事は私に大した刺

激をくれなかった。少々不快になったり、楽しんだりという

ことは有ったけれど、驚くようなことは別になかったなぁ。


 そもそも、ニュースだとか人づてに聞く話だとかが暮らし

の中で大きな位置を占めるようになったのは、そんなに古い

話でもないだろう。日本ならせいぜい江戸時代あたりからだ

ろうと思う。(えっ?古い?)


 昔は、いつどこでどんなことが起きたかなんて話は、ちょ

っと距離が離れれば、耳に入って来なかっただろう。どんな

大事件が起きていようが、知らなければ関係が無い。関係の

しようも無い。山の向こうで恐ろしい流行り病が猛威を振る

っていようと、知らぬが仏。知らなければ平和なものだ。

人々にとって重要なのは、情報ではなくて、自分の暮らしに

実際に起こる出来事。体験だった。そしてそれで十分だった

ろう。時に重大な体験をしながらも、日々の暮らしは淡々と

静かな喜びを紡ぐように過ぎたのではないだろうか? まぁ、

領主の搾取が酷かったりしたら、「静かな喜びを紡ぐ」なん

てわけには行かなかっただろうけど、どこかの「お話し」に

自分の生活が実際に揺さぶられることは無かったことだろ

う。


 それに比べて、今や誰もが「お話し」に酷く揺さぶられる

生き方をしている。なにせ、スマホの画面に表示される「死

ね」という言葉で自殺してしまったりするのだから。

 それまでの経緯があるにせよ、数十ビットの電気信号によ

る最後の一押しで、人生が終わるというのは・・・。


 それが「弱い」とか言うのではない。その気持ち、感覚は

分かる。ネット上に書き込んだ自分のコメントに、口汚い返

信をされただけで、私もかなり気持ちをかき乱されてしまう

のだから、集中して攻撃されれば相当なダメージが有るのは

理解できる。

 それは、ネット社会以前の人生の方が長い私のような者で

であっても、生活の中で情報が大きなスペースを占める生き

方をして来たことの証だろう。ならば、今の若い世代が、ス

マホに表示される情報に人生を左右されても不思議はない。

今は、体験より情報が重い世界になったのだろう。キレイな

夕焼け空の広がる街角で、スマホ画面の “自然の画像” を楽し

んでいたりするのだから。


 若い頃、「これからは “情報化社会” になる」と聞かされ

た。そして実際にそうなったけれど、なってみれば、 “情報

化社会” というより “情報禍社会” と呼ぶ方がいいのかもしれ

ない。誰もが情報に揺さぶられ、一喜一憂、右往左往して、

生きていることを味わうことなど、ほとんどの人は思いもし

いようだ。

 それを「禍(わざわい)」と呼ぶことは、決して的外れな

ことではないと思う。




    数日前の夕方。雲がオパール色に光っていた
  スマホに撮るだけではなく、しっかりと自分の目でも楽      
  しんだ 



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