2021年12月7日火曜日

「背かない」 釈迦の言葉



 You Tube のおすすめで『シャカ』という昔のテレビ番組

がアップされてたので観た。

 いい番組だった。昔は民放でもこんな番組を作っていたの

だ。テレビはどこで道を間違えたのか?

 それはさておき、番組の最後の方で、釈迦の次の言葉が紹

介された。


 世間すべてに背くことなく

 犀の角のように

 唯独り歩め


 たぶん『法句教』の中の言葉だと思うけど(たぶんで

す)、画面に出て来たこの言葉の字面を見ていて、「背く」

という言葉の意味を捉え直すことができた。


 世間すべてに背くことなく・・・


 「そんなこと不可能でしょ」

 誰もがそう思うでしょう。私もそう思ってきた。

 「背く」という言葉は、「逆らう」「反発する」といった

意味なので、〈 世間すべてに背くことなく 〉といっても、相

反する立場の人たちの間に立てば、あちらを立てればこちら

が立たずということになってしまって、どちらにも背かない

でいることなどできないはず。

 「お釈迦さんムリ言うなぁ」と思ってしまう。

 ところが、今回、字面を見て気が付いたんです。「背かな

い」というのは、単に「背を向けない」と捉えればいいのだ

と。


 世間のすべてに「背を向けない」だけであって、それぞ

れ、おのおのの立場に踏み入らないで、ただそれぞれの立

場・考えがあることを認識しているだけ。それなら可能だ

し、それは最上のことだろう。

 なぜなら、人の世に絶対に正しいことなどないのだから、

ある立場に立つことは、程度の差こそあれ、間違いを犯すこ

とに他ならない。けれども、人の数だけ世間はあって、それ

ぞれが「自分は正しい」と思っている。つまり、誰もが間違

いを犯している。

 なので、それに賛同したり反対したりするのではなく、た

だ観ている。それが  “中道” であり 、“正道” というものだ

ろう。


 釈迦は、世間の中に在って、なおかつ世間の立場に立たな

かった。

 世間の立場に立たないのならば、世間から離れてしまえば

よさそうなものなのにそうしなかったのは、慈悲によっての

み生きていたからだろう。慈悲の存在として在ることだけ

が、釈迦の生きる意味だったからだろう。


 世間すべてに背を向けない。

 どのような立場の者でも、誰一人否定しない。

 そのような人間(釈迦)が、実際に生きている。目の前に

る・・・。


 釈迦に出会うことは、正しさと間違いのせめぎ合いの中で

翻弄される人々にとって、世の中がひっくり返るような事だ

っただろう。


 「正しかろうが間違ってようが、そんなこと、生きている

こととは関係ないのだ・・・」


 釈迦が生きていることが、その証明になる。

 釈迦が生きて、歩いていることによって、それを突きつけ

られる。

 そして、その姿によって人々は気付く。


 「自分は、生きていながら、生きるということを観ていな

かった・・・」



 大それたことだけど、冒頭の句を、私なりに補足しよう。


 世間のすべてに背を向けることなく

 それぞれの弱さに対する慈しみを持ち

 それぞれの苦しみを共に悲しみながらも

 それらの人々の拠り所となるために

 心の中の、まっさらな、よどみのないスペースを開いて

 犀の角のように

 唯独り歩め


 その歩みは、なによりもまず、自分自身の安らぎになる。


 大袈裟な事じゃない。

 ほんの少しでも、そうあれば、その分だけ自分もまわりも

安らげる。

 背を向けない。

 そして、ただ、観ている。同じ人として、同じ苦しむも

のとして、同じ生きるものとして、いま在ることの不可思議

を喜びながら。




 

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