2021年12月25日土曜日

私の現実



 こんなブログを書き続けて、もうすぐ丸5年になる。

 内容からすれば、「この書き手は現実から乖離している」

と思われたとしても無理はない。

 「アタマが悪いなんて言ってるけど、アンタのアタマはオ

カシイよ」と言われても、「そう思われてもしようがない

ね」と答えるだろう。とはいえ、私は現実から乖離していは

いないだろう。


 字も書ける。人と普通に会話もできる。仕事もしている。

信号も(一応)守るし、車が来たら除ける。猫は猫に見える

し、クリサンセマム・ムルチコーレはクリサンセマム・パル

ドーサムではないと分かる。大晦日には年越しそばも食べ

る・・・。それなりに現実とつき合っている。ただ、普通の

人の現実に比べたら、私の現実の内容のバランスはかなり違

うだろう。


 普通の人の現実は、人間の「お話し」が大部分を占めてい

て、大変重要に捉えられていると思うけど、私の現実では、

人間の「お話し」はあくまで「お話し」であって、現実とし

ての重み付けは低い。

 私にとって、人間の「お話し」は、「一応配慮しておかな

いと、赤信号で渡ると車にはねられるかもしれない」という

程度であって、本当の現実ではないと認識している。私の現

実は「お話し」の外に在る。


 そういう立ち位置なので、素直にものを言うと、このブロ

グのような話になってしまう。


 そんな私の “現実” が、本当に現実から乖離していたら、精

神病院に入ったり、変な命の落とし方をしたりすることだろ

うけど、この先、そうなったらそうなったで構わない。それ

が自分の在り方ならばしようがない。自分は自分を生きるし

かないし、自分に起きること、自分がすること、それがなん

であろうと、自分にはそれしかないのだろうから、それを生

きるだけなのだ。


 それは人間の「お話し」も包括している “この世界” の大

な流れだから、人間の小賢しい考えはさておき、その流れ

ノープランで流されて行くにしくはない。


 人生という船の上で、あれこれ考えたりうろつき回ったり

してもよい。けれど、流されていることにかわりはない。着

く所は同じ。

 普通の人にとって、現実は船の上のことなのだろうが、私

にとっては船から見える景色が現実だ。甲板に吹く風が現実

だ。ホールで踊ったり、映画を観たりするのはとうの昔に飽

きてしまった。


 甲板に出て、命の風を感じる方が気持ちがいい。空の色や

飛ぶ鳥に目を奪われている方が心が喜ぶ。

 「お話し」ではないもの。それが私にとっての “現実” だ。

 そして、おそらくすべての人にとっても 、それが “現実” 

のはずだ。


 自分の船が大きいか小さいか・・。それの見方は人によっ

て違うだろう。けれど、空は誰が見たって広い。そして、空

は誰の上にも広がっている。

 誰にとっても変わりなく在るもの。

 それが現実でなくて何が現実だろうか?



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