2021年3月21日日曜日

そういう風になっている



  昨日はササユリの話から書き始めて思わぬ方へ話が転がっ

てしまい、憎まれ口を叩いて終わってしまった。始めは自然

のことなどを書こうと思っていたのに・・・。

 今日は天気予報の通りの雨で、風も強く、ちょっした春の

嵐のようになるかもしれない。こういう天気だと、例年なら

近くの街路樹のクスノキから葉っぱがいっぱい飛んできて、

家の前に溜まってしまうのだが、今年はクスノキがバッサリ

と剪定されているので、その心配は無い。その代わり、楽し

みが一つ減っている。私はクスノキの新緑が大好きなのだ。

 クスノキの新緑はとてもみずみずしい。そしてカラフル。

 個体差が大きく、黄、黄緑、ピンク、赤と、木ごとに美し

い新葉を出す。目の保養になる。そして、新葉と入れ替わり

に昨年の葉を落とすので、まわりが葉っぱだらけになってし

まう。私としては、葉っぱの掃除をしてもいいので、新緑が

見たいところだけど、それは他のところで楽しむことにしよ

う。クスノキは神戸市の木に指定されているので、いたると

ころにあるから。


 クスノキがいたるところにあるということで、神戸では夏

になるとアオスジアゲハが飛び回る。アオスジアゲハの幼虫

がクスノキの葉を食べて育つので、当然そうなる。けれど、

クスノキが背が高い木だということもあって、アオスジアゲ

ハの幼虫を見たことが無い。まぁ神戸では普通の蝶なので、

本気で探したこともないけれど。

 しかし、防虫剤の成分を含む  なのでクスノキ(薬の

木)と呼ばれる  葉っぱを食べて育つなんてとんでもない

奴ではある。どのように適応していったのか興味があるとこ

ろだけれど、「そういう風になっている」ということでいい

か。調べる暇も能力も持ち合わせていないから。


 なべてこの世は「そういう風になっている」ものだ。

 「なぜだ!」なんて言っても、「そういう風になってい

る」のだから、万事そういうものだと受け取っておくのが、

人として本当に立派な態度ではないだろうかと思う。


 バカな連中がどこかに戦争をしかけたり、人を騙して私腹

を肥やしたり、そのうち人類が AI に支配されるようになっ

たとしても、「そういう風になっている」と思っているしか

ない。だってそうなってたり、そうなっちゃったらしようが

ない。


 現代人は大抵のことをコントロールできると思い上がって

いるけれど、な~に、自分のことさえ思い通りにならない。

自由意思さえ無いし、有ったとしても大したこともできな

い。自分で自分のしたことを「大したことだ」と思い込むこ

とはできてもね。人間のアタマの悪さも、「そういう風にな

っている」のだから、そういうものだと受け止めておくしか

ないのだ・・・。と、私が考えるのも「そういう風になって

いる」ということで・・・。無限ループにハマるので、話の

外へ出よう。


 ずいぶん昔、本屋でさくらももこの『そういうふうにでき

ている』という本を目にして、「おっ!」と思い、少し読ん

でみたが自分の思う内容ではなかったので買わなかったこと

がある。私の場合の「そういう風になっている」は、仏教の

「縁起」と同じことなので、そんな身も蓋も無いことは、さ

くらももこは書かないし、そういうことが書かれた本は、本

屋の平台には並ばない。そういう風になっている。そして、

どこの馬の骨か知れない男がネットの辺境でそういうことを

書く。そういうものだろう。そういう風になっている。


 一時雨が止んでいるようなので、クスノキの新緑を見に近

所を歩いてみようか。

 クスノキは若葉を広げ、ササユリは伸びはじめ、春の雨は

降る。世界ではありとあらゆる人間のごたごたが起きている

のだろうが、さしあたりここは春だ。そういう風になってい

る。




2021年3月20日土曜日

「ゼロ・デス(Zero Death)社会」に向けて・・・



 2月の始めに植えたササユリの芽が出た。ホッと一安心。

さて、これが順調に育って花が咲いてくれるのか? 慎重に扱

おうと思っている。家の横のヤマザクラも今日花を開いて、

「ああ、春だな」。


 この国は、毎年、桜の開花が話題になる国だけど、もしも

何かの異変が起きて、日本中の桜が花を咲かせなかったら、

どんなに気温が上がり、他の花が咲いたりしても、日本人は

「春が来た」 とは思えないのではないだろうか? それぐら

い、桜は日本人にとって特別な花ではあるだろうが、外国人

が日本に来て桜を見ても感動するのだから、桜自体の魅力は

文化の違いや人種を越えたものだろう。それに加えて、日本

独特の文化的な背景があって、桜を特別な花にしているのだ

ろうな。
 

 今年もまだ、「花見は自粛を・・」などと言って、酒宴な

どしないように呼びかけているが、いったいいつまで続ける

気なのだろう? ウイルスが消滅することはないのだから、永

遠に自粛させる気だろうか?


 「クオリティ オブ ライフ」という言葉があるね。癌などで

無暗に根治を目指したりして身体的不具合や苦痛をもたらす

より、生活の質を落とさないよう緩和治療を行いながら病気

と付き合ってゆく考え方だけど、社会自体もそういう考えで

やって行く方がまともだと思うのだが、「ゼロ・コロナ」な

んてことまで言うバカな政治家までいる始末で、ため息が出

る。

 現代人の多く、特にマスコミやリベラルの連中のアタマの

中は「ゼロ・ウイルス」「ゼロ・シック」「ゼロ・デス」な

んだろうな。

 「不安、あるいは問題を一切無くしてから人生を生きるこ

とが正しい」とでも思っているのだろう。それじゃぁ永遠に

生きられないまま墓に入ることになるだろうね。おっと、

「ゼロ・デス」だから、彼らが墓に入ることは無いの

か・・・。ということは、彼らは生きることが無いまま、永

遠に “生きる” のだな。


 二三日前に、最近の世の中のことを考えていて、映画『マ

トリックス』のことに思いが及んだ。「あの映画では人間が

機械に支配されてしまっているわけだけど、あれは人が望ん

だ結果として自ら機械に管理されているんだな」と思った。

物理的・身体的な事はすべて機械に管理させて問題を無く

し、自分は面白い夢を見ているだけ・・・。それは、現代人

の考えが行き着く先に、当然の事として待っている結果だな

と。ようするに「アタマだけ有って、アタマが満足できれば

それでいいのだ」と。


 花見をしたって、スマホや一眼レフカメラで花の写真を撮

ったら、上手く撮れたかどうか確認してそれで納得している

というのが、近年の花見の光景。じっくりと自分の目で花を

見ている人などほとんど見かけはしない。視覚情報は、自分

の頭ではなくスマホのメモリーに入れたらそれで満足。必要

な時はスマホを開けばいい。自分の頭や身体は、スマホとい

う中枢に情報を取り込むための道具になってしまっていない

か? その内、自分の代わりに、スマホが感動してくれるよう

になるのだろうな。そして、スマホが感動しているのを確認

して、「ああ、これは感動すべきことなんだな」と満足す

る・・・。そうなれば、もはや “生きる屍” だけど・・・。


 生きられてる?


 「ゼロ・デス」を求める人間が行き着く先に、命の喜びは

ゼロです。


 私はこの春も、自分の目と耳と鼻と肌と舌とを使って楽し

もうと思う。あいにく明日は雨だけど、「春雨じゃ、濡れて

参ろう」というのも有りだしね。

 雨もまた良し。



2021年3月10日水曜日

途方もない日々



  今朝、気付いたことがある。知っていたのに理解していな

かったことに、突然気が付いた。

 「自分は、無限で永遠の世界の中に生きている」のだと。


 こういうと、大袈裟で誇大妄想に囚われているかのように

思われるかもしれない。けれど、改めて考えてみれば、誰が

考えたって当たり前の事です。


 地球も、あと五十億年もすれば、赤色巨星となった太陽に

飲み込まれて無くなる。そして、太陽も爆発してチリとガス

になる。有限です。

 この宇宙は138 億年前にビッグバンで生まれたことにな

っていますが、それ以前には存在していなかった。そして、

今後どうなるかはいくつか説があるようですが、あるところ

まで膨張した後、収縮し始めてビッグバンの始まる前の状態

まで戻るとか、無限に広がり続けて冷たく冷えて動かなくな

るとか・・・。いずれにせよ、この宇宙も有限ですが、その

前もその後も “この宇宙をも含んだ「この世界」” は在るので

す(「在る」というのも変ですが、他に表現が有りませ

ん)。つまり無限に永遠に「この世界」はあるのです。そし

て、わたしたちは「この世界」の一部として、いま「在

る」。


 当然ながら、わたしたちのこの身体は有限です。けれど、

無限で永遠の「この世界」を構成している、無限で永遠の一

部です。

 そんな誇大妄想のような事実を思いながら、今朝家を出て

歩いていると、世界の見え方が少しばかり変わってしまう。


 無限で永遠の世界を、いま自分が歩いている。

 無限で永遠の世界を、いま自分の足が踏みしめている。

 無限で永遠の世界の中で、いま自分が風を感じている。

 無限で永遠の世界の中で、いま自分が泣いたり笑ったりし

ている。

 無限で永遠の世界の中で、いま自分がその一部として在

る。

 いま、自分も、無限と永遠を体現している・・・。

 いま、あなたも、無限と永遠を体現している。


 これは、妄想ではありませんよ。事実です。そのことを心

に留めれば、人間の世の中などの方が妄想だとわかるでしょ

う。もちろん私やあなたのエゴも。


 人々のエゴや、それの総体としての世の中とは無関係に、

無限で永遠の世界とその構成要素としての私やあなたが存在

している。

 言葉を失ってしまうような感覚です。 
  

 「世界が永遠だなんて言ったって、この身体は何十年かで

死んで無くなってしまう」


 そう思われるかもしれませんね。それについて説明し始め

たら長くなるので、そう思われたら、『「死」から生まれて

きた』(2019/2)という回の話を読んでみて下さい。実のと

ころ、わたしたちの身体も無限で永遠なんです。わたしたち

がエゴの枠をはめなければね。