2020年5月31日日曜日

孤独な人はいない



 今朝、トイレで座っていて、ふと思ったのが、「ここは世

の中ではないな」ということだった。

 そりゃそうだろう。究極的にプライベートな場所なんだ。

世の中であるわけがない。


 「トイレに居ると落ち着く」という人がよくいるが、世の

中から距離を置いている感覚があって、「ホッとする」とい

うことなんじゃないだろうか? 私はトイレに長くいる趣味

はないけどね。


 トイレに座っていて、さらに考えたのが、「孤独」につい

てだった。

 「一人でトイレに居ると落ち着く」という人が、「街の中

や自分の家に一人でいると孤独だ」と感じたりする。いや、

「トイレに居ると落ち着く」という人ほど、孤独を感じやす

い人なのではないだろうか  独断ですが。


 「トイレに居ると落ち着く」という人は、普段から世の中

にどっぷり浸かっていて、世の中のストーリーの中に完全に

自分をはめ込んでいるのではないだろうか。そして、世の中

の動きの中で、ある意味、常に興奮状態なので、トイレに入

っているとやっと世の中から離れることができて、「落ち着

く」のではないか。当人はそんなこと意識してはいないだろ

うけど。


 「トイレに居ると落ち着く」という人は、そのように世の

中にどっぷりな人だと思われる    私が勝手に思っている

  ので、世の中、つまり人と人との関わりの中でしか自分

を位置づけられない人だろう。人との関係性が最も重要で、

関係が持てなくなると不安でたまらなくなるのだ。つまり

「孤独」を感じる。


 私の場合、「孤独」というものは感じない。感じたことが

あったかもしれないけど、さしあたり記憶に無い。なので、

「孤独」というものがどういう感じなのかが、リアルには分

からない。


 「疎外感」というものは感じる。「ああ、ここでは部外者

なのね」ということはよくあることで(こんなブログを書い

てるような人間だからね)、そういう時は、失礼にならない

よう気を使いながら “部外者” を務めているが、それで落ち

込んだり苦痛を感じたりはしない。「自分はこういう人間だ

から、こういうことがよくあるのはしようがない」と思って

いるので。


 私はそういう人間で、「孤独を感じない」わけなんだけ

ど、それが何故かというと、「孤独」というものは、人との

関わりの中で自分の存在を確認する人が感じるものなので、

私の様に、人との関わりを自分の存在確認の基盤にしていな

人間には関係ないからです  私は《世の中なんてたしな

む程度にしておきなさい》と言っているぐらいですからね。



 というわけで、私には「孤独」というものがよく分からな

い。何なんでしょう、「孤独」って?そんなもの、本当にあ

るのでしょうか?


 「自分の周りの人間が、自分に関心を持っていない」から

といって、それを悲しんだり恐れたりするなんて、私から見

れば傲慢なんですけどね。だって、「孤独だ」という意識の

裏には、「わたしは他人から関心を持たれてしかるべきだ」

という勝手な思い込みが隠れていると思うからです。


 ほとんどの人間は、アタマにそそのかされて右往左往して

いて、忙しくて他人のことなんか本気で相手にしていないん

だから、「誰も自分に関心を持っていない」と感じることな

んて普通のことでしょうよ。


 「他人に関心が無い」ことと、「他人に関心を持たれな

い」ことは一緒でしょう。つまるところ、どちらも「自分だ

け」なんだから。


 それに、「他人に関心がある人」でも、「他人に関心を持

たれる人」でも、所詮相手は「他人」なんだから、言葉や距

離の近さという表面上のつながりということであって、それ

がどんなに濃密になろうと(「自分」じゃないという意味で

は家族なども「他人」に含まれる)、人はそれぞれ「独り」

です。「仲間がいるから、家族がいるから、自分は独りじゃ

ない」なんて、欺瞞です。


 それと、「他人に関心がある」という場合でも、「この人

が、 “わたし” に関心があるかどうかに、関心がある」とい

う関心でしかない可能性は高い。その人は、他人 “その人” 

に関心があるのではなくて、自分がどう見られてるかに関心

があるだけということです。そのような関りを一般に「人間

関係」と呼ぶようですが、それは他人に無関心な人々がお互

いを探り合っている関係ですから、結局だれともつながりを

持っていない・・・「孤独」でしょうよ。


 逆説的ですが、人間関係の中では人は「独り」なんです。

そして、人間関から離れると、人は「独り」ではないので

す。

 だって、「独り」って、関係性の中に立ち現れる感覚・概

念ですからね。人と関わるからこそ、「孤独」という意識が

生まれるわけです。

 ということで、人と関わりを持つことで「孤独」から逃れ

ようとするのは、まったくの見当違いで、逆に「孤独」が再

生産されるんですね。


 見当違いなのに、人と関わることで「孤独感」が解消され

るように思うのは、ただの自己暗示であり、錯覚です。

 「(誰かと)一緒だから孤独ではない」という、思考のお

約束によって、一時落ち着くだけです。そもそも「孤独感」

というものは錯覚です。


 そう、「孤独感」というものは錯覚です。本当は「孤独」

なんて存在しないのです。「孤独な人」も存在しないので

す。


 しかし、「孤独」あるいは「孤独感」というものとは、い

ったい何でしょう?

 なぜ、「自分は他人から関心を持たれていない」というこ

とが苦しみになるのでしょう?

 「他人からの関心」などというものに、自分の存在価値を

見いだすということが、妥当なことなのでしょうか?



 妥当なわけありませんね。自分の存在価値もしくは安心感

といったものを、他人の手にゆだねてしまっているわけです

からね。それが「孤独」の正体でしょう。



 「他人に関心を持たない人々」の中に立ち混ざって、そこ

で「自分への関心」探してる・・・、ほとんど絶望的で

す。「孤独」とは “見ない事にしている絶望を見てしまうこ

と” でしょうね。


 「独りであること」=「孤独」ではない。

 「独りであること」は、単に「独りである」ということだ

けで、すべての人間は、生まれてから死ぬまで「独り」で

す。その当たり前の「独りであること」に、人間関係の中で

「孤独」というタグがつけられ、人をネガティブな意識に引

き込んでゆく・・・。


 「他人からの関心」を考える前に、自分自身に関心を持つ

べきなんでしょう。社会の中の役割としての自分ではなく、

生きている〈自分〉そのものに・・・。


 (考えてみれば、トイレは “生きている自分そのもの” に

関心が向く場所ではあるね)







2020年5月25日月曜日

希林さんが降りてきた・・・、かな?



 新型コロナの騒動は、もう収束するのだろうな。

 「第二波が来る」などと言われたりしているが、何の根拠

も無い。「そういう可能性も有る」ということに過ぎない

し、来たところで、「それがどうした」という程度の病気で

しかないことはもうあきらかになった。結局のところ、高温

多湿ではおとなしくなるのだろう。コロナが高温多湿に弱い

というより、高温多湿だと呼吸器系の負担が減るので、結果

的に、発症したり重症化したりすることが減るのではないだ

ろうかと思うけどね。

 それはさておき、今日、コロナ騒動のことを考えていたら

樹木希林さんのことを思い出した。


 希林さんが亡くなったのは一昨年の九月。あの時、テレビ

ではかなり時間を割いて希林さんの生き方・発言などを取り

上げていた。

 「自然体だ」だとか、「癌を受け入れながら淡々としてい

た」とか、「常識にとらわれずに物事を見ていた」だとか言

って持ち上げて、「希林さんの生き方に学ぶ」といったスタ

ンスで番組を作り、出演者が希林さんの生き方・考え方を肯

定的に見るコメントをしていた。

 が、そのテレビが、今回のコロナ騒動で発信していたこと

は何か? おおよそ希林さんの生き方・考え方とは真逆のこ

ではないか?「希林さんの生き方に学ぶ・・・」のではな

かったのか?

 ホント、その場その場の気分と都合で、受けのイイことだ

けを言ってりゃ済むんだから気楽なものだ。でも、もうそん

なことはお終いにしよう。

 私はこれまでも、テレビの流すことは「話半分以下」とし

て受け止めていたが、もうこれからは「話百分の一」と見る

ことにする。そうせざるを得ない。こちらから情報を選択で

きないという面も考えればネット以下だ。テレビ世代の人間

としては悲しいけどね。


 希林さんの事については、亡くなった翌日にブログを書い

たので、よければそちらを見て欲しいけれど(『樹木希林さ

んの真っ当さ』2018/9)、「死」という、この世界で当た

り前の事を、当たり前の事としてちゃんと考えるという「真

っ当さ」が、特筆すべきことになっている世の中というもの

は、当然ながら、真っ当ではない。

 世の中というものは、そもそも変なものだが、ことここに

至っては異常さが極点まで来たと見るべきかもしれな

い・・・。


 「わたしが “変な人” だと思われてるのは分かってるけ

ど、わたしからすればどう考えても世の中の方が変なんだけ

どねぇ・・。まぁ、どうせわたしの言うことなんか、面白が

るだけで本気で聞いてはしないのは分かってるのよ。どうぞ

ご自由に」


 コロナ騒動を見ながら、そんなことを、今頃(生きてらっ

しゃった時も)希林さんはつぶやいているような気がす

る・・・。


 「アンタ、勝手な事言わないでよ」


 いま、そんな声が聞こえた気もする。







2020年5月24日日曜日

努力は、しあわせとは関係ない



 いま部屋の窓を開けた。

 初夏の気持ちのいい風が入って来て、白いカーテンをなび

かせている・・・。

 「なんとも平和で、しあわせな光景だな・・・」などと思

う。事実、しあわせだと思う。


 例えば、平安時代。庶民がどのような暮らしをしていたの

かはよく知らない。貴族の暮らしなどはよく取り上げられる

が、当時の庶民の事は何にも分からなくて、ほとんど想像も

つかない。現代に比べて 衣・食・住 のすべての面で大変だ

ったろうことは間違いないのだろうが、それで彼らの暮らし

が、日々苦しいだけだったというわけではないだろう。

 アルミサッシの窓も白いカーテンも無いが、現代特有の苦

しみも無い。

 しあわせか不しあわせかは、今も昔もその人の運次第だろ

う。


 「しあわせか不しあわせかは、今も昔もその人の運次第だ

ろう」などと言うと、現代人の中には目くじらを立てる人が

多くいる。

 「当人の “努力” だとか “心構え” などとかが大切だろ

う!」と怒られてしまったりする。

 でも、努力したり、自分を律する心構えを持てたりできる

のも、運でしょ。


 以前に書いたような気もするけど、“努力する強い心を持

てない根性なし” がいたとして、その人はどのような努力を

すれば努力できるようになれるのか

 努力できない人は、努力できるようになる為に努力するこ

とはできないのではないだろうか?

 努力できるような強い心を持つには、「努力できる才能」

が必要だと思うが、それを持てるかどうかは「運」だろう。


 商売してお金を儲けたくても、商売する元手が無い。

 金なら借りてくることもできるけど、努力できる強い心は

貸してはもらえない。

 努力できない人が努力できるようになるかどうかは運次

第。


 こんな風に言うと、努力できない人には望みがないような

感じがしてしまうものだけど、そう感じるのがそもそも現代

病のようなものだ。

 努力したらしあわせになれるわけではないのに、ほとんど

の人が、努力したらしあわせになれるような思い込みを持っ

ている。それは現代社会の大きな病根だと私は思っているけ

どね。


 《 努力は、しあわせとは関係ない 》


 (お金があれば、この言葉を、朝日新聞あたりに全面広告

で載せたいところだけど、無理なのでブログのタイトルにし

ておく)


 平安時代の庶民の暮らしは大変だったろう。けれど、その

暮らしの中で彼らはそれなりのしあわせを感じていただろ

う。そして、自分たちの暮らし向きが楽になるかどうかは運

次第だと考えていたに違いない。もちろん暮らしを楽にする

ために、できることは何でもしただろう。けれど、それは

「努力」だっただろうか? 単に「しなければならないから

する」だけであって、そこに「努力」というような不純な観

念は無かっただろうと想像する。

 日々の暮らしの為に自分たちがするべき事をして、あとは

運次第。運が良ければしあわせでいられる。変な観念を持た

ない分、今よりもしあわせだったかもしれないね。先に書い

ように、昔のことはよく分からないんだけどね。


 「努力」という言葉・概念は、社会が個人をコントロール

するために作り出したものですよ。したい人はすればいいけ

ど、「しあわせとは関係ないよ」と言っておきたい。



 昨日、家の近くで、小さな男の子がおばあさん(そんな歳

でもない人だったけど)と競争をしていた。

 男の子はやっと走れるようになったばかりで、今にも転び

そうな不器用な足どりで一生懸命に走る。疲れては止まり、

止まってはまたスタートし直し、何度も何度も走る・・。

 彼は努力していたのではない。走れるようになったこと、

走るたびに少し自分が上手になること、「自分が走る」とい

うこと自体の不思議なんかを感じて、走りたくてたまらなか

ったのだろう。その姿を見ていて、人の自然な向上心だと

か、人が、命が持っている「生きている」という喜びを感じ

た。


 「努力」だとか、あるいは「目標」「夢」といった不純な

観念にとらわれずに、人が自然に持っている「何かをするこ

との喜び」が素直に出せることが、人にとってしあわせであ

り、それは社会にとっても良いものをもたらすだろうと、私

は思うんだけどね。(スポーツなんかも、本来そういうもの

だったはずだけど、バカが寄ってたかって「競争」にして、

商売にしてしまうんだよね)


 ただ、もうすでに、誰ものアタマには「目標」や「夢」な

んかが浸潤しているので、「素直に何かをする」のは不可能

に近いのだけれども・・・。


 また風が入ってきた。白いカーテンが揺れる・・・。

 私は運が良い。








 

2020年5月20日水曜日

0 何でも無い



 前回は、社会の中での「正しさ」は “数” によって担保さ

れるが、個人のしあわせはまた別の話だということを最後に

書いて終わった。個人のしあわせは “数” とは関係ない。ど

んな “数” とも関係がない。


 多くの場合、社会的なしあわせは “数” と深く関わってい

る。“量” といってもいい。「多い」か「少ない」か、「強

い」か「弱い」か、といった具合に。

 けれど、個人のしあわせ  生きていること自体のしあわ

せというべきだけど  はまったく違う。定量的なものでは

ない。むしろ 、“数” や ”量” から離れて、初めて知ること

ができるものだ。


 0(ゼロ)。

 すべてのベースとしての 0(ゼロ)。

 それは、絶対の安定だ。

 量が無いがゆえに、変化から免れている。何ものにも乱さ

れる可能性がない。


 しかし、0(ゼロ)という、「何も無い」ものがしあわせ

だと言えるのだろうか?


 たぶんだが、0(ゼロ)は、「何も無い」ということでは

ないだろう。

 何も拒むことなく、そこにどんなものでも現れることを許

す “場” であって、それは「何でも無い」ということなんだ

ろう。


 わたしたちが、“数” や “量” から解き放たれて、0(ゼ

ロ)になり、自分が「何でも無い」ことを受け入れた時、し

あわせを知る。


 「何も無い」のは “虚無” だが、「何でも無い」ことは、

あらゆるものがそこに現れるのを拒まないがゆえに、限りな

く豊かになり得る。さながら、最初の生命が生まれた時の地

球のように(ちょっと、カッコよく言い過ぎだな。でもいい

表現だと思うので、このままで・・・)。


 こういう話を書くと、すぐに「無」だとか「空」だとかい

う仏教の言葉が思い起こされる。

 私が、いまこういうことを書いているのも、「無」だとか

「空」だとかについて考えて来たことに由来しているのだろ

う。けれど、この「無」や「空」という言葉は、これまでに

数えきれないほどの人たちを誤らせてきたのかもしれない。

 「無」「空」と言われると、どうしても「何も無い」と考

える。その為、「何ひとつ有ってはいけない!」という思い

に囚われて、不可能で不毛な夢想に囚われてしまいかねな

い。


 一休さんはこんな句を残している。


   釈迦といういたずら者が世にいでて 

   おおくの人を惑わすかな
 

 もちろん一休さんは釈迦をバカにしているのではないだろ

う。けれど、その教えの持つ危うさと、実際に起こってしま

う問題・弊害を考えるとき、「いっそ釈迦はこの世に出てこ

なかった方が良かったかもしれない」といったことを考えた

のだろう。確かにそうかもしれない。「知らぬが仏」という

意味深な言葉もあるし・・・。


 たぶんわたしたちは、「無心」にも「空」にもなれない。

 わたしたちのアタマは四六時中、思考と感情に満たされて

いる。寝ている時でさえ夢を見ている。そんな思考の働きを

止めることはできない。せいぜい、瞑想して、静かで穏やか

な方向へ一時的に思考を向けさせることができる程度だろ

う。


 「無」になろうとか、「空」になろうとかいうのは、勘違

いなのだ。

 「無」も「空」も、なるものではなくて、わたしたちの 

“命” のベースとして、もともと在るものなのだ。

 それを忘れているので、アタマのから騒ぎに我を失ってし

まうのだが、その騒ぎを静かに見ていられる場所がある。穏

やかに見ている “何か” が存在している。「無」だとか

「空」だとかいう言葉で示される、「何でも無い」スペース

が在る。


 0(ゼロ)であるところ。

 初めから終わりまで、何も変わらないところ。

 生まれてから死ぬまで  たぶん死んでも  何でも無い

ままの働き。

 “命” 以外は何も無いところ。

 何にも乱されることがない存在。

 わたしたちの思考の背後に、無限に広がっているもの。

 「ライフサイド」。


 誰もが持っていて、誰もがそれに持たれているのに、その

ことを忘れてしまっているのだ。


 喜んでいる時、悲しんでいる時、怒りに震えている時、苦

しみに打ちのめされている時、自分が今そうあることを、感

じている意識がある。“それ” は「思考」だろうか? 「思

考」でなければ、“それ” は、何か?


 結局のところ、わたしたちの体験は、“命” にとっては

「何でも無い」のだ。

 そしてそれ故に、初めから終わりまで、完璧に穏やかなの

だ。

 



2020年5月16日土曜日

所詮、多数決なのだ。



 人間のアタマは悪い。

 なので、人間が集まって作っている世の中もアタマが悪

い。

 その悪さの根本は何かというと、「“正しいこと” があ

る」と思っていることです。


 ちょっと考えてみて欲しいのですが、私ひとりだけが「正

しい」と思っていて、他の人がそれを「正しい」とは思って

いないことを、私が「正しい」と言い張れば、私は狂人です

よね。

 そのように、自分しか「正しい」と思っていないことは、

他の人からすれば狂気でしかないのですが、同じことを

1000万人が「正しい」と思えば、それは「正しいこと」と

して、世の中を通って行くことになります。中身は同じでも

ね。


 そう考えると見えてくるのは、世の中の「正しさ」って、

結局、 “数” なんだということです。人は、自分の「正し

さ」を担保する為に、“数” に頼るんですね。


 「結局、“数” か・・・」とか思ってしまいますが、しか

し、なぜ “数” なんでしょうか? なぜ「いいね!」がそんな

に欲しいのでしょうか?


 人間は「社会性動物」だということが、まずあるんでしょ

うね。


 社会に依存しているので、社会の承認を得られて、社会の

協力が得られれば生きて行きやすいから。

 考え自体の合理性だとか直感的正当性だとか、具体性や身

体的実感といったものは、“数” の前では無視されてしま

う。


 “ 一人は「異常」、五人で「正常」”

 そういったことが普通にまかり通る。そして、その五人

も、百人の都合に合わなければ「異常」と見做されたりする

ので、世の中の主流になっている考えに内容なんか無くっ

て、バカ丸出しだったとしても、驚くに足りない。


 選挙とか、国会とかまさにそうなんだけど、「所詮、“多

数決” でしょ」と思う。

 他にやりようが思いつかないので仕方がないのだろうけど

ね。ああ、人間のアタマは悪い。


 “多数決” って、「多数の賛成がある考えを採用する」と

いうことなんだけど、言い換えると、「“多数” が、決め

る!」ってことだね。

 「多数決」って、便宜上その決め方で行くということなの

に、いつの間にか “多数” なら「正しい」ということになっ

てしまう  それで世の中を何度も誤らせて来たのにね。


 そういえばゲーテが言ってたなぁ。


 《あやまった「多数」の概念から大きな不幸が生まれ

  ようとしている》


 それからこんなのもあった。


 《多数というものよりしゃくにさわるものはない。

  なぜなら、多数を構成しているものは、少数の有力

  な先進者のほかには、大勢順応のならず者と、同化

  される弱者と、自分の欲することさえ全然わからな

  いでくっついて来る大衆とであるから》


 人間が集まって何かをしなければならない時に、多数決に

なってしまうのは致し方ないことではある。けれど、「多

数」=「正しい」ではないことを常に知っておかなければな

らないと思う。でも、そんな上品な人は滅多にいない。

 ということで、「多数」=「正しい」という思考放棄は、

世の中を “怪しい決め事” が覆うことを許し、時には、悲

な状況を生み出したりする。


 《あやまった「多数」の概念から大きな不幸が生まれよう

としている》と、ゲーテが憂いたような事が、これまでも世

界中で繰り返されてきたのだった。そして、これからも繰り

返されて行くのだろう。

 ただ、《あやまった「多数」の概念》という言葉からすれ

ば、《正しい「多数」の概念》というものもあるように思え

るけど、冒頭に書いたように「“正しいこと” がある」わけ

ではない。その点、ゲーテにはまだ遠慮があるようだ。「多

数」にとっては、「多数」であることが「正しい」のである。


 《 人は「正しいこと」など求めていない

  「多数」の支持・理解を求めているだけなのだ

  「自分は正しい」と思いたいが為に 》


 「正しさ」を担保するものが、結局 “数” でしかないとい

うことが、「正しさ」というものが存在していないことを明

らかにしている。

 どんなに理屈をこねようが、証拠を示そうが、世の中で力

を持つのは “数” なのである。

 ただ、その “数” が、個人のしあわせを担保するかどうか

というのは、また違う話なのだ。





 

2020年5月14日木曜日

“新しい思考様式”  コロナ ㉒



 新型コロナのニュースの中で、一つ良い話題があった。

 自粛の影響で、学校や会社に行かなくてよくなったせい

で、四月の自殺者数が減ったらしい。

 コロナのせいで、生活が破綻して自殺する人が増えると思

っていたが、それよりも、従来の暮らしの中で受けるプレッ

シャーから解放されて持ちこたえた人の方が多かったという

ことのようだ。

 良い話題だが、一方で、それほど今の日本の普通の社会は

病んでいるということが露呈してしまったとも言える。


 「病んでいるのは、社会じゃなくて個人の方だ」という見

方もできる。けれど、「“病んだ個人” が自ら死ななくては

ならない社会」は、“病んでいる” と言ってよいだろう。

 しかし、新型コロナで病んだ人や病むかもしれない人の為

に、沢山の人の暮らしを顧みずに動くことができる社会なの

だから、世の中のプレッシャーや非情さに苦しむ人をおもん

ばかるくらいは朝飯前なのではなかろうか?(イジワル言っ

てる~)


 考えてみて欲しい。

 世界的な混乱を招く感染症が広がっている社会で、その

会的混乱のせいで自殺しなくて済む人がたくさん出てくる社

会とは、いったいどんな社会なのか? 

 その社会は、そもそも狂気に支配されてる社会じゃないだ

ろうか?


 今回のようなバカな騒ぎで人の暮らしがメチャクチャにな

るのはいただけない。

 けれど、これまでの人の暮らしが良いものだなどとはとて

もじゃないが言えない。

 「暮らしが破綻したら自殺者が減る」なんて、呆れかえる

しかない。

 分かってるか? 政治家たちよ、経営者たちよ、教育者た

ちよ、すべての日本人よ。


 いい機会ではなかろうか。

 「今の社会は狂っている」とみんなで自覚しよう。

 『新しい生活様式』ではなく、“新しい思考様式” を生み

出そう。

 こんな病気ぐらいで世の中を狂わせて平気なのだ、やろう

と思えば、それぐらいのことはできるだろう。


 「目標」「効率」「こうあるべき」

 それらを押し付けず、人が本来持っている “善性” に

、信じる。

 人が幸福であるためには、その方がいいだろう。



 「目標」「効率」「こうあるべき」

 それらを押し付けず、人が本来持っている “生きる力” に

任せ、信じていれば、今回のコロナ騒動も、もっと穏やかな

展開をみせていたのではなかろうか?


 *************************


 このところ、ずっと気分が悪いので、憂さ晴らしに言って

おこう。


 “新型コロナ専門家委員会” は、『新しい思考様式』を身

につけましょう。思考が「ロックダウン」して、偏見が「オ

バーシュート」しているよ。

 それから、彼らは事あるごとに「可能性は否定できな

い・・・」と言う。

 これは “魔法の言葉” だ。

 この言葉を使えば、どんな妄想を語ったとしても許され、

後で間違いだと分かっても、責任を免れる。



 私が思うに、いま語られているストーリーの他に、少なく

ともあと五つは、「可能性を否定できない」違う見方ができ

るよ。論理的、科学的にね。

 安倍総理、見てる?





 
 

2020年5月10日日曜日

リモコンに手を合わせて



 近くの教会の掲示板に、こんな言葉が書いてあった。


 「わたしについて来なさい。安らがせてあげよう」(もし

かしたら少し違ったかもしれない)


 イエスの語った言葉なのだろう。

 イエスの目的は、人々を安らがせることだったろうという

ことに間違いはない。すべての宗教の目的もそうだろう  

そのはずだけどね・・・。


 釈迦もそうだろう。どうしたら安らかでいられるのかを説

いたのだ。

 人々が、そのような人の言葉に耳を傾け、従おうとするの

は、当然ながら安らいでいないからだ。安らぎが欲しいのに

安らげない。ほとんど誰もが安らぎを求めているけれど、普

通の暮らしの中で手に入る安らぎは、あっという間にどこか

へ行ってしまったり、不完全だったりして、すぐに不安にさ

いなまれてしまう・・・。


 「安らぎが欲しい」

 それは何千年も変わらぬ人の願いだ。それほどまでに、人

は安らげないものなのだ。


 私は現代しか生きたことがないので昔のことは分からない

が、昔の人の安らぎの無さは、今のわたしたちと比べてどう

だったのだろうか? 昔の方が安らげなかったのか、現代の

方が安らぎが無いのか?

 なんともいえないが、現代の安らぎの無さは相当なものだ

から、もしかすると今の方が安らぎが無いのではないかとい

う気がする。それは、現代人が何でも意のままにコントロー

ルしたがり、ある程度できてしまうが故に、他人に対して

も、自分に対しても、自然に対しても、非常に “あきらめが

悪い” と思うから。


 現代は、例えば少々ひどいケガをしてもかなり直せて、生

活に困らないようにできるし、日本のような国では冷暖房も

自在、衛生的で快適な暮らし・・・、本当に安楽なのだ。

 ところが、心の病を持つ人はとても多く、誰もがすぐにイ

ライラして、不機嫌で、すぐに怒る。戦争もテロも起こり続

け、変な事件もしょっちゅう起こる。相変わらず自殺は多い

し、自殺の少ない国では殺人が多かったりもする。ほとんど

の人にとって、安らぎなんて、週に何時間か有れば上出来な

のかもしれない。


 「わたしは毎日楽しいですよ!」という人もいるけれど、

その人が一か月後に泣き伏していてもなんの不思議もない。

しかし、なんだって、そんなにも安らげないのか? 昔に比

べて、物質的にこんなに恵まれているのに?


 以前、養老孟司先生の本を読んでいたら、「蛇口をひねる

とお湯が出るという破天荒な事が・・」という一節があっ

た。現代のわたしたちの暮らしは驚異的に安楽だ。

 私は風呂に浸かりながら、よく給湯器のリモコンに手を合

わせる。「なんと恵まれているんだろう・・・」と言葉を失

いながら・・・。なぜなら、井戸と薪の時代に、家で風呂に

入ろうと思ったらどれだけ大変だったかを思うから。(井戸

で汲んだ水を、桶で何十回も風呂に運び、焚口で薪をくべて

丁度良い湯加減まで温めて、やっと入れる。もちろんシャワ

ーなど無いのだ)


 わたしたちは、「家で毎日風呂に入れる」ということ一つ

でも驚異的に安楽なのに、その風呂に浸かりながら、今日あ

った事を思い出して泣いていたりする・・・。


 アタマというものは、本当に出来が悪い。いつでも、どん

なことでも、満足して受け止めることができない。いま、こ

こに無いことをアタマの中に持ち込んできて、自前で不幸を

作り出す。まったく凄い能力だと言うしかない。


 「恵まれない人の事も考えろ」などということを言いたい

のではない。『足るを知れ』という言葉もあるけど、あれ

は、「何かと比べて」ということではない。「いつ、いかな

る時でも “足りている”」ということに思いを馳せること

だ。だって、いまここに存在しているのだから、「足りて

る」のだ。足りてなければ、いま、ここに居られない。

 その上に、暖かかったり、涼しかったり、美味しかったり

するのなら、文句の付けようが無いはずなのだが・・・。



 「私について来なさい。安らがせてあげよう」

 私の場合、あなたを風呂に連れて行くのだ。





2020年5月5日火曜日

闘って、幸福になれるか? コロナ ㉑



 安倍総理は「緊急事態宣言」を五月いっぱいまで延長する

と発表した。

 「コロナウイルスに勝利するために、さらに我慢しろ」と

いうことだが、要するに「欲しがりません勝つまでは!」と

いうことだね。

 そして、家でじっとしていない人間や自粛要請に従わない

店などには、“正義の人”(安心安全原理主義者)から嫌がら

せが行われる。「こいつらは “非国民” だ!」と見做してい

るのだろう。


 「欲しがりません勝つまでは!」

 「非国民」


 このような言葉は、大東亜戦争中の日本国内のトレンドワ

ードだけど、それと同じ意味合いの事が今言われていて、そ

れと同じ心理に基づいた事をする人間が沢山いるようだ。


 「欲しがりません勝つまでは!」

 「非国民」


 こういう言葉は、大東亜戦争中に、国民が国のプロパガン

ダにも乗せられて、冷静さを失い、当時の社会の雰囲気に思

考停止したことの象徴のようになっているもので、国民、あ

るいは人間そのものの愚かさ・怖さをあらわすものだったは

ずだ。それが戦後日本の “国民的コンセンサス” ではなかっ

たのだろうか? 少なくとも、私はそう受け止めてきた。


 ところが、冒頭に書いたように、現在、同じ意味のことが

公式に述べられ、同じ意味の事が起こる。


 《 人は歴史から学ばないということを、私は歴史から学

んだ 》(『復興が、人を迷わせる』2019/3)と、前に書

いた事があるが、あれはやっぱり正解だな。


 「戦争と感染症は違う!」ということかもしれないが、

「何か」と闘い、その闘いに賛同しないものは「仲間ではな

い!」ということに違いは無い。戦時中と同じ。たった80

年程で、人間が変わるはずがないよね。2000年以上も変わ

って来なかったのだからね。まぁ、憲兵が捕まえに来ないだ

けマシではあるのだろう。(戦時中に大変な目に遭った人も

いるわけだから、茶化してはいけないんだけど、ここはご容

赦を)


 いったい「何」と闘っているのか?


 「ウイルス」?

 「病気」?

 「死」?


 ホントは、そのどれでもないのだろう。私はそう思う。


 いま、世界中で人々が闘っている相手は、「不安」でしょ

う。

 そして、太古の昔から現在に至るまで、人が闘って来た相

手は、要するに「不安」でしょう  「恐怖」と言ってもい

いですね。 


 人が持つ、未来に対する根源的「不安」を、その時々に

「何か」に投影して、それを「敵」だと思い込み、その

「敵」との闘いに勝利すれば、「不安」が消えると信じる。

 実際は、その “闘い” がさらに「不安」を増大させること

になるのだけれど、人はそれには気付かない。興奮しちゃっ

てるからね。


 そもそも、わたしたち人間の生きているこの世界には、

「不安」は存在しない。

 地球上のどこを探しても、宇宙の果てまで探索しても、

「不安」などというものは存在しない。「不安」が存在する

のは、わたしたち人間のアタマの中だけ。


 “「不安」を感じさせるもの” が存在すると思われるかも

しれない。けれど、どのようなものであれ、すべての人間が

「不安」を感じるものは無い。

 虫を見て悲鳴を上げる人もいれば、それを食べてしまう人

もいる。「不安」というものは、人それぞれの “気分” でし

かない。


 「死ぬのが怖い」と怯えている 90歳の病気のお婆さんも

いれば、「もういいから死なせて欲しい」と言う 90歳の病

気のお婆さんもいたりする。


 「不安」は、わたしたちのアタマの中にある。

 その「不安」に “闘い” を挑んでいるのは、わたしたちの

アタマだ。

 わたしたちは、「自分」と闘っているのだ。

 さらに言えば、「自分のイメージ」と闘っているのだ。

 あまりにも「ご苦労さん」なことではないか。


 そして、その「イメージ」を「社会」という巨大なスクリ

ーンに投影して、社会全体で「社会的不安」と闘う。その 

“闘い” が「社会的不安」をさらに増大させているのに、そ

のことは目に入らない・・・。

 そうして、人は幾度となく惨事を起こしてきた。歴史を振

り返れば誰にでも分かることだ。


 昔は、「疫神」や「妖怪」が “疫病” を起こすと考えられ

ていたが、現代はそれが「ウイルス」や「細菌」にとって代

わっただけで、そのストーリーの形は変わらない。

 「科学・医学が発達した」と言いながら、この大騒動なの

だ。人は進歩していない、何も賢くなっていないということ

を、図らずも露呈してしまっている。

 根本的に「不安」との対し方を考え直すべきだろう。



 人は生きている限り「不安」を無くせないだろう。けれ

ど、「不安」を「不安」のまま受け止めていれば、「不安」

は「不安」のまま、わたしたちの “気分” の中に在るだけな

のだ。しかし、「不安」と闘えば、その「不安」が「不幸」

へと姿を変えてしまう・・・。


 わたしたちを「不幸」にし、「地獄」を生み出すのは、

「ウイルス」でも「病気」でも「死」でもなく、さらには

「不安」でもなく、 “闘うこと” なのではないだろうか。


 安倍総理、見てる?







 

2020年5月3日日曜日

なぜ、死にたくないのか?



 ずいぶんなタイトルだ。

 人に「なぜ、死にたくないのか?」と尋ねたら、たぶん相

手は、しばし呆然とした後、心底呆れかえるか怒り出すので

はないか?


 「“死にたくない” ことに、なぜもへったくれも無い。“死

にたくない” から、“死にたくない” のだ!」と。


 そこで私は、こう畳み掛けるだろう。


 「『“死にたくない” から、“死にたくない”』のは、な

ぜ?」


 ホント、意地が悪いけど、「考えてみなさいよ。少しぐら

いは・・」と思うし、考えなければならないことだとも思

う。だって、人の死亡率は100%なんだから、「死にたくな

い」なんて言ってたって死ぬ。死ななければしようがない。

だったら、「なぜ、死にたくないのか?」ってことは、考え

てみるべきことだろう。

 100% 起こることなら、それを否定したり、拒絶したり

するのは、あまり利口な事とは言えない。何がしかのやり方

で、それを自分の中に位置づけ、消化するほうが、「生きる

こと」を豊かにすると、私は思う。

 というわけで、人は「なぜ、死にたくないのか?」。


 どうやら私は、ここで答えを出そうとしているようだけ

ど、ちょっと無謀過ぎないか?(何も具体的なことは浮かん

でいないのですよ。この段階で・・・)

 でも、先へ進もう。


 「なぜ、死にたくないのか?」


 いま考えたら、答えはあっさり出ました。

 「人は、わがままだから」です。(本当に、いま考えまし

た)


 単純と言えば単純。当然といえば当然の答えですね。

 生物はすべて「死ぬ」。それなのに「死にたくない」とい

うのは、単に「わがまま」なだけですね。そして、この答え

によって、私の中で問題の力点が変わってしまいました。

「死にたくない」とうことよりも、「人が “わがまま” なこ

とは、人にとって良い事なのか?」ということへ。


 人が、他の生き物と同じように「100% 死ぬ」というこ

とは、当然ながら、人も自然の一部だということを表してい

ます。

 その「自然の一部」が、「わがまま(我の、したいま

ま)」であろうとすることは、自然から「孤立」することを

意味する。世界からはみ出すことを意味する。

 「死にたくない」というのは、世界からはみ出し、孤立す

ることになるのだけれど、それって “しあわせ” なんだろう

か?


 「生・死」の循環からはみだした者を、昔は「亡霊」とか

「幽霊」とか呼んだのではなかったか?

 「魂魄この世に留まりて・・・」、死からも、生からもは

み出して、行き場を無くしてしまう。

 そして、そのような思いに囚われた人間は、死ぬ前からす

でには「生・死」の循環からはみ出している。

 生きてる内からすでに「亡霊」。

 「生・死」から外れているので、その存在は「ゾンビ」。


 「死」を厭えば厭うほど、人は世界から孤立してゆく。

 「死」を恐れれば恐れるほど、その人は「生」の実感を亡

くしてゆく。

 私はそう思う。


 あまりにも「死にたくない」という思いが強い人は、「生

きていない」といえるだろう。
 

 「なぜ、死にたくないのか?」


 「わがまま」なんですよ。

 そして、「ひとりぼっち」なんですよ。

 この世界で。


 気の毒に・・・。