2020年5月20日水曜日

0 何でも無い



 前回は、社会の中での「正しさ」は “数” によって担保さ

れるが、個人のしあわせはまた別の話だということを最後に

書いて終わった。個人のしあわせは “数” とは関係ない。ど

んな “数” とも関係がない。


 多くの場合、社会的なしあわせは “数” と深く関わってい

る。“量” といってもいい。「多い」か「少ない」か、「強

い」か「弱い」か、といった具合に。

 けれど、個人のしあわせ  生きていること自体のしあわ

せというべきだけど  はまったく違う。定量的なものでは

ない。むしろ 、“数” や ”量” から離れて、初めて知ること

ができるものだ。


 0(ゼロ)。

 すべてのベースとしての 0(ゼロ)。

 それは、絶対の安定だ。

 量が無いがゆえに、変化から免れている。何ものにも乱さ

れる可能性がない。


 しかし、0(ゼロ)という、「何も無い」ものがしあわせ

だと言えるのだろうか?


 たぶんだが、0(ゼロ)は、「何も無い」ということでは

ないだろう。

 何も拒むことなく、そこにどんなものでも現れることを許

す “場” であって、それは「何でも無い」ということなんだ

ろう。


 わたしたちが、“数” や “量” から解き放たれて、0(ゼ

ロ)になり、自分が「何でも無い」ことを受け入れた時、し

あわせを知る。


 「何も無い」のは “虚無” だが、「何でも無い」ことは、

あらゆるものがそこに現れるのを拒まないがゆえに、限りな

く豊かになり得る。さながら、最初の生命が生まれた時の地

球のように(ちょっと、カッコよく言い過ぎだな。でもいい

表現だと思うので、このままで・・・)。


 こういう話を書くと、すぐに「無」だとか「空」だとかい

う仏教の言葉が思い起こされる。

 私が、いまこういうことを書いているのも、「無」だとか

「空」だとかについて考えて来たことに由来しているのだろ

う。けれど、この「無」や「空」という言葉は、これまでに

数えきれないほどの人たちを誤らせてきたのかもしれない。

 「無」「空」と言われると、どうしても「何も無い」と考

える。その為、「何ひとつ有ってはいけない!」という思い

に囚われて、不可能で不毛な夢想に囚われてしまいかねな

い。


 一休さんはこんな句を残している。


   釈迦といういたずら者が世にいでて 

   おおくの人を惑わすかな
 

 もちろん一休さんは釈迦をバカにしているのではないだろ

う。けれど、その教えの持つ危うさと、実際に起こってしま

う問題・弊害を考えるとき、「いっそ釈迦はこの世に出てこ

なかった方が良かったかもしれない」といったことを考えた

のだろう。確かにそうかもしれない。「知らぬが仏」という

意味深な言葉もあるし・・・。


 たぶんわたしたちは、「無心」にも「空」にもなれない。

 わたしたちのアタマは四六時中、思考と感情に満たされて

いる。寝ている時でさえ夢を見ている。そんな思考の働きを

止めることはできない。せいぜい、瞑想して、静かで穏やか

な方向へ一時的に思考を向けさせることができる程度だろ

う。


 「無」になろうとか、「空」になろうとかいうのは、勘違

いなのだ。

 「無」も「空」も、なるものではなくて、わたしたちの 

“命” のベースとして、もともと在るものなのだ。

 それを忘れているので、アタマのから騒ぎに我を失ってし

まうのだが、その騒ぎを静かに見ていられる場所がある。穏

やかに見ている “何か” が存在している。「無」だとか

「空」だとかいう言葉で示される、「何でも無い」スペース

が在る。


 0(ゼロ)であるところ。

 初めから終わりまで、何も変わらないところ。

 生まれてから死ぬまで  たぶん死んでも  何でも無い

ままの働き。

 “命” 以外は何も無いところ。

 何にも乱されることがない存在。

 わたしたちの思考の背後に、無限に広がっているもの。

 「ライフサイド」。


 誰もが持っていて、誰もがそれに持たれているのに、その

ことを忘れてしまっているのだ。


 喜んでいる時、悲しんでいる時、怒りに震えている時、苦

しみに打ちのめされている時、自分が今そうあることを、感

じている意識がある。“それ” は「思考」だろうか? 「思

考」でなければ、“それ” は、何か?


 結局のところ、わたしたちの体験は、“命” にとっては

「何でも無い」のだ。

 そしてそれ故に、初めから終わりまで、完璧に穏やかなの

だ。

 



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