2020年5月10日日曜日

リモコンに手を合わせて



 近くの教会の掲示板に、こんな言葉が書いてあった。


 「わたしについて来なさい。安らがせてあげよう」(もし

かしたら少し違ったかもしれない)


 イエスの語った言葉なのだろう。

 イエスの目的は、人々を安らがせることだったろうという

ことに間違いはない。すべての宗教の目的もそうだろう  

そのはずだけどね・・・。


 釈迦もそうだろう。どうしたら安らかでいられるのかを説

いたのだ。

 人々が、そのような人の言葉に耳を傾け、従おうとするの

は、当然ながら安らいでいないからだ。安らぎが欲しいのに

安らげない。ほとんど誰もが安らぎを求めているけれど、普

通の暮らしの中で手に入る安らぎは、あっという間にどこか

へ行ってしまったり、不完全だったりして、すぐに不安にさ

いなまれてしまう・・・。


 「安らぎが欲しい」

 それは何千年も変わらぬ人の願いだ。それほどまでに、人

は安らげないものなのだ。


 私は現代しか生きたことがないので昔のことは分からない

が、昔の人の安らぎの無さは、今のわたしたちと比べてどう

だったのだろうか? 昔の方が安らげなかったのか、現代の

方が安らぎが無いのか?

 なんともいえないが、現代の安らぎの無さは相当なものだ

から、もしかすると今の方が安らぎが無いのではないかとい

う気がする。それは、現代人が何でも意のままにコントロー

ルしたがり、ある程度できてしまうが故に、他人に対して

も、自分に対しても、自然に対しても、非常に “あきらめが

悪い” と思うから。


 現代は、例えば少々ひどいケガをしてもかなり直せて、生

活に困らないようにできるし、日本のような国では冷暖房も

自在、衛生的で快適な暮らし・・・、本当に安楽なのだ。

 ところが、心の病を持つ人はとても多く、誰もがすぐにイ

ライラして、不機嫌で、すぐに怒る。戦争もテロも起こり続

け、変な事件もしょっちゅう起こる。相変わらず自殺は多い

し、自殺の少ない国では殺人が多かったりもする。ほとんど

の人にとって、安らぎなんて、週に何時間か有れば上出来な

のかもしれない。


 「わたしは毎日楽しいですよ!」という人もいるけれど、

その人が一か月後に泣き伏していてもなんの不思議もない。

しかし、なんだって、そんなにも安らげないのか? 昔に比

べて、物質的にこんなに恵まれているのに?


 以前、養老孟司先生の本を読んでいたら、「蛇口をひねる

とお湯が出るという破天荒な事が・・」という一節があっ

た。現代のわたしたちの暮らしは驚異的に安楽だ。

 私は風呂に浸かりながら、よく給湯器のリモコンに手を合

わせる。「なんと恵まれているんだろう・・・」と言葉を失

いながら・・・。なぜなら、井戸と薪の時代に、家で風呂に

入ろうと思ったらどれだけ大変だったかを思うから。(井戸

で汲んだ水を、桶で何十回も風呂に運び、焚口で薪をくべて

丁度良い湯加減まで温めて、やっと入れる。もちろんシャワ

ーなど無いのだ)


 わたしたちは、「家で毎日風呂に入れる」ということ一つ

でも驚異的に安楽なのに、その風呂に浸かりながら、今日あ

った事を思い出して泣いていたりする・・・。


 アタマというものは、本当に出来が悪い。いつでも、どん

なことでも、満足して受け止めることができない。いま、こ

こに無いことをアタマの中に持ち込んできて、自前で不幸を

作り出す。まったく凄い能力だと言うしかない。


 「恵まれない人の事も考えろ」などということを言いたい

のではない。『足るを知れ』という言葉もあるけど、あれ

は、「何かと比べて」ということではない。「いつ、いかな

る時でも “足りている”」ということに思いを馳せること

だ。だって、いまここに存在しているのだから、「足りて

る」のだ。足りてなければ、いま、ここに居られない。

 その上に、暖かかったり、涼しかったり、美味しかったり

するのなら、文句の付けようが無いはずなのだが・・・。



 「私について来なさい。安らがせてあげよう」

 私の場合、あなたを風呂に連れて行くのだ。





0 件のコメント:

コメントを投稿