2020年5月16日土曜日

所詮、多数決なのだ。



 人間のアタマは悪い。

 なので、人間が集まって作っている世の中もアタマが悪

い。

 その悪さの根本は何かというと、「“正しいこと” があ

る」と思っていることです。


 ちょっと考えてみて欲しいのですが、私ひとりだけが「正

しい」と思っていて、他の人がそれを「正しい」とは思って

いないことを、私が「正しい」と言い張れば、私は狂人です

よね。

 そのように、自分しか「正しい」と思っていないことは、

他の人からすれば狂気でしかないのですが、同じことを

1000万人が「正しい」と思えば、それは「正しいこと」と

して、世の中を通って行くことになります。中身は同じでも

ね。


 そう考えると見えてくるのは、世の中の「正しさ」って、

結局、 “数” なんだということです。人は、自分の「正し

さ」を担保する為に、“数” に頼るんですね。


 「結局、“数” か・・・」とか思ってしまいますが、しか

し、なぜ “数” なんでしょうか? なぜ「いいね!」がそんな

に欲しいのでしょうか?


 人間は「社会性動物」だということが、まずあるんでしょ

うね。


 社会に依存しているので、社会の承認を得られて、社会の

協力が得られれば生きて行きやすいから。

 考え自体の合理性だとか直感的正当性だとか、具体性や身

体的実感といったものは、“数” の前では無視されてしま

う。


 “ 一人は「異常」、五人で「正常」”

 そういったことが普通にまかり通る。そして、その五人

も、百人の都合に合わなければ「異常」と見做されたりする

ので、世の中の主流になっている考えに内容なんか無くっ

て、バカ丸出しだったとしても、驚くに足りない。


 選挙とか、国会とかまさにそうなんだけど、「所詮、“多

数決” でしょ」と思う。

 他にやりようが思いつかないので仕方がないのだろうけど

ね。ああ、人間のアタマは悪い。


 “多数決” って、「多数の賛成がある考えを採用する」と

いうことなんだけど、言い換えると、「“多数” が、決め

る!」ってことだね。

 「多数決」って、便宜上その決め方で行くということなの

に、いつの間にか “多数” なら「正しい」ということになっ

てしまう  それで世の中を何度も誤らせて来たのにね。


 そういえばゲーテが言ってたなぁ。


 《あやまった「多数」の概念から大きな不幸が生まれ

  ようとしている》


 それからこんなのもあった。


 《多数というものよりしゃくにさわるものはない。

  なぜなら、多数を構成しているものは、少数の有力

  な先進者のほかには、大勢順応のならず者と、同化

  される弱者と、自分の欲することさえ全然わからな

  いでくっついて来る大衆とであるから》


 人間が集まって何かをしなければならない時に、多数決に

なってしまうのは致し方ないことではある。けれど、「多

数」=「正しい」ではないことを常に知っておかなければな

らないと思う。でも、そんな上品な人は滅多にいない。

 ということで、「多数」=「正しい」という思考放棄は、

世の中を “怪しい決め事” が覆うことを許し、時には、悲

な状況を生み出したりする。


 《あやまった「多数」の概念から大きな不幸が生まれよう

としている》と、ゲーテが憂いたような事が、これまでも世

界中で繰り返されてきたのだった。そして、これからも繰り

返されて行くのだろう。

 ただ、《あやまった「多数」の概念》という言葉からすれ

ば、《正しい「多数」の概念》というものもあるように思え

るけど、冒頭に書いたように「“正しいこと” がある」わけ

ではない。その点、ゲーテにはまだ遠慮があるようだ。「多

数」にとっては、「多数」であることが「正しい」のである。


 《 人は「正しいこと」など求めていない

  「多数」の支持・理解を求めているだけなのだ

  「自分は正しい」と思いたいが為に 》


 「正しさ」を担保するものが、結局 “数” でしかないとい

うことが、「正しさ」というものが存在していないことを明

らかにしている。

 どんなに理屈をこねようが、証拠を示そうが、世の中で力

を持つのは “数” なのである。

 ただ、その “数” が、個人のしあわせを担保するかどうか

というのは、また違う話なのだ。





 

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