2022年11月20日日曜日

レトロの、今



 久しぶりにナット・キング・コールを聴きながら、これを

書き始めた。以前『ナット・キング・コールと不寛容社会』

(2017/7)という話を書いたけど、今日はそういう話じゃな

くて「レトロ」について書こうかなと思っている。

(さっき、NHKの『COOL JAPAN』で「レトロ」の話題を

観たからだけど・・)


 「レトロ」というのは【回顧的(懐古的)】とか【郷愁を

誘う】とかいうことらしいけど、最近の「レトロ」は、素直

に「こういうの見たことなくて新鮮。カワイイ!カッコイ

イ!」ということで、率直に「イイ!」ということのよう

だ。

 世界のいわゆる先進国では文化が行き詰まって、もう新し

いものが生み出せなくなっていると私は考えている。つまり

前に進めない。ならば、昔のものが再認識され、若い世代が

それを「新鮮」と感じても不思議は無い。なので、以前の

「レトロ」とはだいぶ違うだろう。


 以前の「レトロ」は、やはり「懐かしい」というものだっ

ただろうけれど、それは「これから先には未来がある」から

こそ「懐かしい」のであって、「もう済んだものの中にもイ

ものが有った」ということだろう。

 それに対して、現代の若い世代にとっての「レトロ」は違

う。もう新しいものは生まれないので、「知らない昔に戻る

しか手が無い」ということなのだろう。

 たぶん、この十数年の間に、1950年代から2000年

頃までの文化をループして、近・現代の文化は終わりを告げ

るのだろう。さよなら、20世紀・・・・。


 さて、新しいものが生み出せなくなって、そのリサイク

ル、リユースも終わって、人は何をするのだろうか? 文化と

いう「装飾」が価値を保てなくなったら、「装飾」ではない

ものに目を向けるしかないだろうと思う。


 もう30年以上前に見た本に、「“情報化社会” の次には 

“精神性の社会” (だったと思う)になる」という話が書いて

あったけど、どうやらそれは正解だったように思える。

 具体的にでも、情報としてでも、もう “外からのもの” に価

値を見いだす時代は終わろうとしているように思う。 人は一

万年以上の時間をかけて、ようやく “内的幸福” に辿り着こう

としているのではないだろうか? そうであってほしいけど。


 文化というものは、上手に付き合えば楽しいものだ。新し

くてもレトロでも、それが「飾りである」「お話しである」

と認識した上で人生に取り入れるのなら問題は無い。けれど

も、人の生の本質や自然への畏怖を覆い隠してしまうようで

あるならば、文化は束縛であり、さらには呪縛となって、人

を牢獄へと引き込む。

 最近の「レトロ」が、“ある時代の文化” を再認識するだけ

でなく、“文化” というもの自体を再確認するものになればい

いなと思う。つまり「なんだってイイんだ!」という自由さ

を知るということに・・・。


 “文化” って、要するに形式のことだろうけど、形式ができ

と、どうしても「正・誤」が生まれてしまう。さらに、そ

「正・誤」が、その人の「正・誤」の評価にまでなってし

う。そのことが、古来から人を苦しめて来た。


 昔の文化が「新しい」ものになり、外国の文化が美しかっ

たりカッコ良かったりするのならば、それは “文化” というも

に「正・誤」など無いからだろう。そして、「正・誤」が

いのは、もともと実体が無いからだ。


 もうそろそろいいのではないか?

 人は、“文化” から一歩退き、命の側に立って “文化” を味

わい楽しむ存在になれるはずなのだ。

 「レトロ」が新しいのは、その時が近付いているからなの

か、それとも単に行き場を無くしているだけなのか?


 私にわかるわけはないが、若い人の為に「人が文化を越え

る時が近付いているんだ」と思っておこう。









2022年11月14日月曜日

かたじけなさになみだこぼるる



 どういうご縁か知る由もないけれど、なぜかこんなブログを

書き続けている。それが何になるのかならないのか知らな

い。知ったところでどうにもならないし、知る必要も無いと

思うけれど、ただ〈なにごとのおはしますかはしらねども 

かたじけなさになみだこぼるる〉という西行の歌を思い出し

たりする。


 今日は、カーペンターズのカレンの美しい歌声をずっと聴

いているけれど、40年以上も前の歌をこういう風に今も聴

いて心揺さぶられる。・・・かたじけなさになみだこぼる

る。


 きれいな空を見上げる。輝くように開いているキンセンカ

の花を見る。久しぶりに降った雨の湿り気を感じる。雨の音

を聴く・・・。かたじけなさになみだこぼるる・・・。い

や、本当に、なみだがこぼれてくる。


 自分は決して良い人間ではない。取るに足りない存在だ。

それでも、こんなに美しく温かな思いを受け取れる。自分の

どこにそんな値打ちがあるだろうか・・・? なにごとのおは

しますかはしらねども かたじけなさになみだこぼる

る・・・。


 それこそ思い上がりかもしれないけれど、私が持つこの思

いと、西行が抱いた思いは同じものだろう。そうに違いな

い。


 なぜ生まれてきたのか知らない。

 なぜ生きているのかも知らない。

 いつ死んで、どうなるのかも知らない。

 何も知らないが、自分が生きているこの世界、この時代の

中で、自分のような者が、美しさ温かさ清々しさ和やかさを

感じられる。「なんてありがたい事か」と思う。かたじけな

さになみだこぼるる・・・。


 さまざまな不安や苦しみ、気苦労が有る。けれど、それら

を凌ぐ喜びが有る。それらが問題にならない心の場所が与え

られている。それは私だけではなく、すべての人に与えられ

ているだろう。けれども、どうやら生きているうちにそれに

気付ける人は少ないようなのだ。だからこそ、「なぜ、自分

のようなものがそう思える?」。そのことに対して、かたじ

けなさになみだこぼるる・・・。そして、その「かたじけな

さ」や「なみだこぼるる」ことが、さらにかたじなくてなみ

だこぼるる・・・。


 本当に、いま、私はかたじけなくて泣いている。


 生きている。

 苦しみも喜びも、神々しさもくだらなさも受け取りなが

ら、それを受け取れることができるこの〈自分〉というもの

に驚いている。

 「これはいったい何なのだろうか?・・・」


 ただ、かたじけなさになみだこぼるる・・・。






2022年11月13日日曜日

知性とは



 今日は “知性” というものを私なりに定義し直してみたいと

思う。 


 “知性” というと、理性(合理性・倫理性)と同じものとい

うような考えが普通なんだろう。けれど、随分賢いのに “知

性” を持ち合わせていないような人間もいる。じゃぁ “知性” 

とは何か?

 字のごとく「知る性質」だろう。

 「知る」こと、つまり「受け取る」こと。受容性こそが 

“知性” だろうと考える。


 わたしたちの中には〈自意識〉と〈無意識〉があると誰で

も考えているだろうけど、私は〈「無」の意識〉というもの

もあると考えている。


 〈自意識〉は、考えをあっちへやったりこっちへやったり

組み立てたりバラしたりという思考の運動で、常に動いてい

る。

 〈無意識〉は思考に運動させるさまざまな衝動とエネルギ

ーが混沌として集まっている場で、外界や自意識からの刺激

に反応して、自意識にエネルギーと方向を与える働きをす

る、本能が支配するブラックボックスのようなものだろう。

 どちらも能動的で、「働きかける存在」だといえる。それ

に対して “知性” は働きかけないものだと思う。動かず、どこ

までも「受け取るもの」であると・・。


 〈自意識 (思考)〉 には理性があって知性が無い。

 〈無意識〉には理性も知性も無く、ただ衝動と反応だけが

ある。

 〈「無」の意識〉には理性も無く衝動も反応も無く、それ

は “知性” そのもので、〈自意識〉と〈無意識〉と、さらに世

界からもたらされるすべてを受け止め、包み込んで拡がって

いる  例えるなら、〈自意識〉が地球だとすれば〈無意

識〉はそれを動かす太陽で、〈「無」の意識〉は宇宙空間だ

と言えばいいかもしれない。


 ただただ受け入れる。

 より好みをせず受け入れる。

 より好みをする理由が無い。

 受け入れないことができない。

 なぜなら、自分の知覚に届くものであれば、「起きた事」

「もたらされた事」からは逃れることはできない。受け止め

ざるを得ない。拒んでも、もうその時は自分は知ってしまっ

ている。それならば受け入れるしかない。だから受け入れ

る。ただただ受け入れる。


 より好みをしない。

 拒まない。

 評価しない。

 それが自分に届いた以上、とにかく受け入れる。

 そして、そのままにしておく。


 〈無意識〉と〈自意識〉がそれをどのように扱おうと、そ

れもそのままにしておく。〈自意識〉と〈無意識〉の働き

も、やはりそれだから、ただ、それらを知っておく・・・。

それが “知性” の働きだろうし、それは四六時中、寝ている間

もそうあるはずだ。けれど、普段、〈自意識〉と〈無意識〉

の喧騒に邪魔されて、わたしたちはそのことに気付けずにい

る。もったいない話だと思う。


 わたしたちの日常では、“知性” はほとんど無視されてい

る。

 〈自意識〉は自分自身と外界に働きかけて、それらを意の

ままにしようとしているだけで、「受け入れる」のは意に叶

ことだけだし、〈無意識〉はただ自分を押し出すだけで、

「受け入れる」ということが何かさえ知りはしない。


 “知性” とは、命の働きの本質だろう。

 世界も、世界を受けとめる窓口である ”自分” も含めて、た

だ受け入れる。そして、それを味わうことが「生きている」

ということなのだろう。


 〈「無」の意識〉へ退いて、世界を受け入れ、味わ

う・・・。

 その時、私たちは世界そのものであるだろう。いや、世界

よりも広い “在ること” だろう。

 ただ ”知性” が働いていること。それが真に「生きる」と言

ることだろう。

 わたしたち(自分)の中に “知性” は無い。




 
 

2022年11月6日日曜日

「文句は無い」と・・・



 『大智禅師偈頌(げじゅ)』というものがあって、大智祖

継(だいちそけい)という、今から700年ぐらい前の熊本

出身の禅僧が残した偈頌(漢詩)なんですが、禅のテキスト

の一つとして受け継がれています。

 この偈頌について、私は余語翠巌老師の本でしか知りませ

んが、禅、仏教について、味わい深く鋭い言葉が多く記され

ています。その中で、今日は特に取り上げたい言葉があるの

でそれについて書こうと思いますが、それは余語老師の本の

タイトルにもなっていて、この偈頌の中心となっているよう

な、こういう言葉です。


  果滿三祇道始成 

  (果、三祇に満ちて、道始めより成ず
              
    ~か、さんぎにみちて、みちはじめよりじょうず)


 「三祇」というのは「無限の時間」という意味だそうで、

「果」は、いまこの世界のことで、「道」は絶対の幸福だと

捉えていいでしょう。

 ということで、〈 無限の過去から未来まで、始めから終わ

りまで、この世界のすべては幸福である 〉と言っているのだ

と私は受け取っています。


 何もかも、すべてはその時あるがままで完全です。だっ

て、そのようにあるこの世界にケチを付けてもどうにもなら

ない。そうなっているんだから、そうなっているんだと受け

取る以外にしようがない。ケチを付けてもつまらんだけで

す。落ち着いて考えてみればそうとしか言えない。


 そりゃぁね、刃物を持った奴が、刺そうと追いかけて来た

りしたら逃げなきゃならないけれど、それはそれということ

で、ケチを付けてもしようがない。「そういうことが起きて

いる」とだけ受け止めて、それに合わせて動くだけのこと

で、そこに評価を差し挟まない。具体的に困ったら困ったま

まで完全なのです。


 ケチを付けなければ完全です。殺されそうなままで幸福で

す。逃げ延びても幸福です。逃げ損ねて殺されても幸福で

す。起きてしまうことは起こるべくして起こるので、それは

それで、「そうなんだ」と受け取ってしまえば文句の出る幕

は無い。文句の出る幕が無ければ、文句は無いわけで・・。

だから幸福です。


 ケチを付けることもあります。でも、ケチを付けたら、

「ケチを付ける」という事が起きていると受け取って、“ケチ

を付けている自分” にケチを付けなければいいわけです

し、“ケチを付けている自分” にケチを付けてしまっても、

〈 “ケチを付けている自分” にケチを付けてしまっている自

分 〉にケチを付ける必要もないわけです。だって「道始めよ

り成ず」なんですから、そのままで完全なんです。要する

に、世界に対して自分が与える評価なんて、世界に関係ない

わけですね。
 

 文句を付けて、自分で勝手に不機嫌になっているだけのこ

とだというのが、わたしたちの苦悩であり不幸であるわけで

す。極端に言えば、「あ、そう」と受け止められないことな

か存在しないと言えるんですよね。


 「そんなこと出来ないよ」と言われるかもしれませんが、

「あ、そう」と受け止められないことがあれば、“受け止めら

れない” ということが起きているというだけのことなので、

それはそれでいいわけです。


 上手に生きても、下手くそに生きても、悟っても悟らなく

ても、何がどうだろうと幸福なんです。「果、三祇に満ち

て、道始めより成ず」なんですから・・・。文句を言ったと

ころで、そんな文句、虚空に消えて行くだけのことです。


 この世界がロクでもないと感じても、自分がどうしようも

ない出来損ないだと思えても、心配する必要はないのです。

大智禅師はそれを教えたいのだと思います。



 

2022年11月5日土曜日

余生



 ここ最近、自分の毎日が「余生」みたいに感じる。もちろ

ん、まだ「余生」と言う程の歳でもないけど。

 もともと目標だとか夢だとかいうものをほとんど持たず、

せいぜい「ちょっとしたいことが有る」ぐらいの人間だった

のだけれど、最近はいよいよ目的が無くなってしまった。と

いうわけで毎日が「余生」のように感じるのだと思う。い

や、そういう状況なのだから、ハッキリ言って「余生」その

ものなのだろうな。

 この頃の年寄りは「生涯現役!」なんて人も多いので、私

の方が “年寄りらしい” のかも。


 「余生」と言うと、なんだか「寂しい」とか「“終わり” の

始まり」みたいな感じがするけど、別に私は寂しくもない

し、終わりだとも始まりだとも感じない。「生きるって、そ

れが本当だろう」みたいに思っている。気楽で気分がイイ。


 《人生はグリコのおまけのようなもの》

 ずいぶん前にそんなことを書いたけど、いまは「〈おま

け〉はもういいよ」という感覚がとても強くなったのだろう

なぁ。


 目的とか夢を持つとかいうのは、人生という〈おまけ〉に

こだわることで、普通は、歳を取ってそういうこだわりが持

てなくなったら「余生」という感じなんだろうけど、人生は

生まれた時から〈おまけ〉であって、その〈おまけ〉にのめ

り込まずに、生きていることそのものの方に意識が在れば、

生まれた時から、日々は「余生」だろう。



 「ゴールは常に未来にあり、生は常にここにある」 

                  和尚(ラジニーシ)



 ゴール(目的)は常に未来にある。ゴールにこだわれば、

いま在る生はなおざりになる。

 ゴールを目指さなければ、目的意識や社会的・人間的な価

値観に拘泥しなければ、いまこの時がゴールになる。生きて

いることの最前線で、毎瞬毎瞬、ゴールし続けている。そち

らのゴールに意識が向けば、世の中の方のゴールは、ハッキ

リと〈おまけ〉でしかないと感じる。


 人生はグリコのおまけのようなものである。

 おまけに気を取られ、キャラメル(生きているそのもの)

を味わう人は少ない。


 目的や夢の無い人生は、無価値で余りもののようなものだ

ということで「余生」というのだろうけど、その「余生」と

呼ばれるものは、実は生きていることの本質があらわになっ

ていて、意識の立ち位置を間違わなければ、ふくよかでかろ

やかでほのぼのと甘い。それが、努力せずとも日々自分にや

って来るのだけど・・・。


 《生きることの本質は、

      求めることではなくて、受け取ることだろう》