2020年2月29日土曜日

コロナウイルスには殺されなくても、社会に生殺しにされる コロナ ⑦



 思い出したのだった。前に『安心・安全原理主義』

(2017/5)というタイトルで書いたとき、最後にこういう

ことを書いたのを。 




〈そのうち、そう二十年ぐらい先。時の、総理大臣か厚生労

働大臣が、こんなコメントを出すかも知れません。


 「生きていると、さまざまなリスクがあり、これらをすべ


て避けることは容易ではありません。ですから、国民の皆様


におかれましては、なるべく生きない様にして下さい」と。


 もうすでに、国民の何割かは、「生きていない」と思いま


すけどね。今。〉




 今回、安倍総理の打ち出した「休校」要請や、厚労省が出

している「なるべく出かけず、できるなら仕事も休ん

で・・・」とかいう公共広告は、まさに上に書いたことです

ね。二十年先ぐらいと書いたのに、三年足らずで現実化して

しまった・・・。ああ、怖い。


 私は「若くて健康な人がバタバタ死んでるわけじゃないん

だから、こんなウイルス感染、放っておけばいい」と思って

る人間なので、安心安全原理主義者に殺されないように外国

へでも逃げたいところだが、各国のコロナウイルス対応を見

ていると、日本と変わらない・・・。どうなってるんだ。


 私は、「安心安全原理主義」は日本で特に強い力を持って

いるのだろうと思っていたけど、もはやそういうことではな

いんだね。どこも一緒なんだ。

 今回のコロナ騒動は、みんながスマホばっかり見ているこ

とと関係ありそうだと思う。

 「スマホのせいでこうなった」というのではなく、みんな

がスマホを見ているようなメンタリティや行動様式と、この

騒動の “根” は一緒なんだろう。どう一緒なのかは、考えて

みてくださいな。


 現代は「生き辛い時代」だと言われる。昔だって生きるの

は大変だったろうけど、その大変さと、今の「生き辛さ」は

たぶん別物だ(昔を体験していないので、確証はない)。


 すべてをコントロールしようとする社会。そこに必要なの

は人間ではなくて、社会を社会の思い通りに動かすためのパ

ーツだ。そんなところに居たのでは、人が生き辛くて当然で

す。でも生き辛さを感じない人間もいる。そういう人間はみ

ごとに社会適応して、パーツに成れている。それを「社会的

成功」という。


 しかし、そんな成功者も、社会にとってはパーツの一つに

過ぎない。社会にとって大事なのは社会だけです。社会の維

持に必要があれば、簡単に見捨てる。今回のように「良しと

いうまでじっとしてろ!」みたいなことになる。人間の都合

は無視です。


 社会が守りたいのは観念としての社会であって、人が暮ら

している実社会ではない。

 「ウイルス」「感染症」という、得体のしれない、“自然”

いうコントロール外のものの侵入は、観念としての社会に

っては我慢ならないので、何を犠牲にしても排除したいの

しょう。わたしたちの「暮らし」なんかどうなってもいい

わけです。




 ということで、皆様におかれましては、「なるべく生きな

いで下さい」。


 さて、どうなるんでしょうねぇ・・・。私の知ったこっち

ゃないけど。



  
 

何も起こっていないんだ。



 今朝、目が覚めて何気なく窓の方を見た。

 ベージュのカーテンを透過して外の光が部屋をほのかに明

るくしている。

 壁、天井、カーテン、何一つ動くものが無い部屋の中で、

そのカーテンのドレープを見ていたら、突然こう思った。

 「何も起こっていない」


 部屋の中で何も起こっていないということではない。この

世界で「何も起こっていない」と思った。


 さあ、この説明は難しい。どう表現していいのやら。



 いままでに何度か《起こった時には終わってる》という言

葉を書いた。その言葉を捉え直すと「何も起こっていない」

と言えそうなので、その線で行こう。


 この世界のすべての出来事は、起こった時には終わってい

る。それは誰でもが納得できる事実です。わたしたちは、出

来事の「余韻」とでも言うべきことに、思考のエネルギーを

与え続けて、出来事に実体感を持たせているのです。が、そ

こには実体は無い。すべての出来事は、その都度「終わり続

けている」。わたしたちが意識した瞬間には、その出来事は

もう終わっている。存在していない。それは、今、この瞬間

には「何も起こっていない」ということなんです。


 今、この瞬間には「何も起こっていない」にもかかわら

ず、わたしたちの記憶の中には膨大な「起こった事」が蓄積

されている。けれど、その「起こった事」は、記憶が無くな

れば無くなってしまう。私に「起こった事」も、忘れてしま

えばもう「起こった事」でさえない。何もなかったことにな

るというより、何もなかったのです。


 わたしたちが思考のエネルギーを注ぎ続けなければ、「起

こった事」さえ消えてしまう。「私の父や母が生きていた」

ということは、私や家族の記憶に有っても、もうその二人は

この世界の何処にも存在していません。私や家族が死ねば、

父と母の存在したという記憶すら、この世界に残りません。

誰一人として記憶していない事は、存在しなかった事です。

「起こらなかった事」です。果たして私の父と母は存在して

いたのでしょうか?


 わたしたちは何を見ているのでしょう?何を聞いているの

でしょう?

 わたしたちは何をしているのでしょう?もとより、わたし

たちは居るのでしょうか?この世界は「在る」のでしょう

か?


 世界は在ります。

 厳然として、世界は在る。

 ただ、その在り方は、アタマが捉えているような在り方で

はない。


 こういうことにしておきましょう。


 《 無限の “在る” が、“今” に満ち満ちているのだ 》と。


 「何も起こっていない」

 ただ、今すべてが在る。



 (途方もないことを書いてしまったけど、私が書いたんじ

ゃない



2020年2月28日金曜日

「美しさ」が問いかけるもの



 我が家のクレマチスの芽が動き始めて、「そういえば、去

年ブログにそういうことを書いたなぁ。あれは、いつだった

っけ?」と思って、その時のブログを見返した。

 日付は三月三日になっている。今年は一週間ほど芽吹きが

早いのだ。


 そのままブログを読み進めると、最後にこんなことを書い

ている。



  〈 春、さまざまな命が、“移ろい” の力によってこの世

界に押し出されて来る・・。“美しさ” という「問い」をた

ずさえて・・・。〉(『春を探す』2019/3/3)


 「へぇ~」などと思う。

 “美しさ” は、「問い」なんだ・・・。


 “美しさ” は、何を問うているんでしょう? かなり「深

い」ことを問いかけているように思います。ほとんど、「命

の根源」とか「生きる意味」ぐらいのレベルのことのように

感じますが、それをこれから探りましょう。(ああ、無謀

だ・・・)


 と、思ったんですが、もうすでに『美しいとは』

(2018/6)という話を以前に書いていた。もう、ネタ切れ

なんだな。でも、まぁそのラインで話しを進めてみよう。


 今朝も、自分が育てている花を見て「きれいだなぁ」と思

っていた。

 いつも、ほんとうに不思議なんです。なぜ、人は花を見て

キレイだと思うのか。

 花は、植物の生殖器官です。その色や形状は、ほとんどの

場合昆虫を引き寄せる為に適応・進化して今に至っている。

そこに人間の影響は無いはずです。なのに、なぜ人間が花を

「きれいだ」と思うのか?


 花は、昆虫を引き寄せて受粉し、実を付けます。その実が

人間の食糧になることも多いので、人間が植物の実を見て

「キレイだ」というような肯定感や期待を持つのなら自然だ

と思うけれど、なぜ具体的な価値を持たない花を見て、「美

しい」といった肯定感を持つのか? それは単なる文化的な

影響の産物なのか?

 けれど、それが文化的な産物になるためには、最初の一人

が「きれいだ」という思いを抱く必要がある。結局、なぜ

「きれいだ」と思ったのかという話に戻ってしまう。

 そもそも「きれいだ」という感情はいったい何か?


『美しいとは』という回で書いたのは、「美しさ」とは “言

葉には出来ない世界の肯定感” みたいなことだったんですが

(もっとメンドクサイ言い回しでしたが)、なぜそれが「問

い」なのか?


 世界が、存在が、美しさを見せて語りかけているのでしょ

うね、「これを見ろ。いったい何の不服がある?」と。


 わたしたちは、エゴのフィルターを通して世界を見るの

で、普段は思考(言葉)によって加工された世界を見てい

る。けれど、その思考を突き抜けるようにしてわたしたちの

意識に飛び込んでくるものがある。それが「美しさ」の正体

だろうと思う。

 「美しさ」はわたしたちの “加工された価値観” を破壊す

る。


 ここで言う「加工」とは、アタマのつじつま合わせという

ような意味合いですが、「美しさ」は、そのつじつま合わせ

とは違う次元でわたしたちの意識に届く。霧の中でも声が聞

こえるように。

 それは、感性のバイブレーションとでも言うべきもので、

考を透過して人の意識に届き、命の本質的な部分を揺さぶ

ので、アタマはそれを恐れる。放っておけば「つじつま合

せ」が崩壊してしまうので。


 「美しさ」は語りかける。「これを見ろ。いったい何の不

服がある?」。

 その問いは、常に「足りない」と言い続けるエゴにとって

恐怖であり、嫌悪の対象でもある。なので、エゴは「美し

さ」をダイレクトに受け止めないようにフィルターをかけて

いる。(『感動から逃げるな』2017/11参照)

 エゴも必死ですが、「美しさ」がそのフィルターを突破し

た時、人は世界の本質を一瞥する。そして人は変容する。そ

して、本当のしあわせを感じる。


 「美しさ」は美しい。


 

2020年2月24日月曜日

生老病死 コロナ ⑥



 今回は「苦」について考えてみる。


 仏教で言うところの「四苦八苦」は、「生・老・病・死」

の四苦と、「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛

苦」の四つの苦。

 先の根本的な「四苦」に後の四つの苦を合わせて「八

苦」。それで「四苦八苦」という。


 「老・病・死」が「苦」なのは誰でも理解できるが、

「生」がなぜ「苦」なのか?私はいまだにピンと来ない。

 「生きること」と読めば、他の七つを総合したすべての

「苦」のこととなるだろうから、「苦」の内訳にはならな

い。「苦」は七つということになる。

 テーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナラーサ長老は、

「生」を「生まれること」として、「生まれてくるときは死

ぬか生きるかの危機なので、とても苦しい。なので “苦” な

のだ」といった解説をしているが、生まれてくるときに自己

としての意識は無い。それが肉体的な「苦」であったとして

も、当人に認識は無い。それを「苦」と言ってよいのだろう

か?

 いずれにせよ、私には「生」が「苦の一つ」というのはピ

ンと来ないのです。


 他の七つの「苦」のうち、「五蘊盛苦」は、わたしたちが

感覚から受けとることと、それによって起こるさまざまな認

識作用に執着することで起こる「苦」のことのようで、ざっ

くり言えば「執着」のことらしい。


 「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」はいずれも、観念

が生み出す「苦」。


 「死」は、“自己” にとっては、あくまでも未来に待って

いる恐怖の対象であって、わたしたちの “自己” は「死」を

体験することはできません。ですから、「死」も「観念とし

ての苦」です。


 「老」。老いると、身体があちこち傷んできて、「痛い」

「苦しい」ということになりますが、この「苦」は「病」と

同じカテゴリーに入るものです。「老」の「苦」としての本

質は、“自分がいよいよ「死」に近づいて行くという意識” 

にある。ですから、「老」も「観念としての苦」です。


 残る一つの「病」だけが、身体的な感覚の「苦」です。他

はすべて観念が生み出す「苦」。いわば、自分で生み出す

「苦」です。


 「病」は、自然の一部である身体に起こる「苦」であり、

自然が生み出す「苦」ですが、ほかの「苦」は、自分の観念

が生み出すものであって、いわば、自業自得なんですね。

(「病」の中には、依存症とか生活習慣病とか、“自業自

得” のものもありますがね)


 唯一具体的な(身体的な)「病」という「苦」は、自然の

摂理として起こるものです。誰も避けることができません。

中には生きているうちにほとんど「病」に出会わないという

幸運な人もいるかもしれませんが、普通はそうはいきませ

ん。その「苦しさ」を回避しようと、アタマは自分の身体や

周りの環境をコントロールすることに囚われ、それは時とし

て常軌を逸したレベルになることがあります。そして、身体

的な「苦」である「病」も、「観念としての苦」に変質して

しまいます。

 わたしたちは、あるがままのものを受け入れることが出来

ず、アタマで自らの「苦」を組み立て、自ら苦しむのです。



 生きるものは必ず死にます。死なないのであれば「生きて

いる」という概念自体が成り立ちません。「生」は「死の概

念」があるからこそ存在します。「死の概念」を排除する

と、「生」は意味を失うことになります。

 そのため、「死」を忌み嫌えば忌み嫌うほど、「生」は貧

弱なものになると私は思っています。その実感と豊かさを失

うと。


 昔の誰かの言葉に「死はわれわれすべてが、支払わねばな

らぬものだ」というのがあったように思いますが、最後の支

払いのためには、ちゃんと貯めて(生きて)おかねばなりま

せん。

 「観念としての死」という負債(恐怖・不安)を抱えたま

ま、現実の「死」を迎えると、恐れの中で人生を終えること

になります。(支払いができなければ、地獄へ連れて行かれ

て、労働させられます😂)


 自然の摂理である感染症と、それによって免疫の弱いもの

が亡くなるという自然な出来事を受け入れられず、いまや世

界中が “恐怖の観念” の中に巻き込まれようとしています。

 それをコントロールしようとすればするほど、新たに “恐

怖の観念” が生まれ、「苦」は増大するのですが・・・。


 この現状に、お釈迦様はため息をついているのでしょう

か? 泣いているのでしょうか?





 

2020年2月22日土曜日

ロスト「ロストシティ」~何が感染したか?~ コロナ ⑤



 この二週間ほどコロナウイルス関係のことばっかり考えて

いる。コロナウイルスそのものには感染していない(と思

う)が、私のアタマはコロナウイルスの「情報」に感染して

しまったようだ。こまったもんだ。


 身体の免疫システムというのは素晴らしくよくできたもの

なので、お任せしていれば大抵のことは(ジタバタすること

があっても)切り抜けてくれるから、今回のウイルスなんか

も別に何ほどのものでもない。けれど、アタマの方の免疫シ

ステムは、はなはだ出来が悪い。

 身体の免疫システムは入ってきた異物を排除するか壊す

(殺す)けれど、アタマに入ってきた異物  思考の安定を

脅かす情報  は、排除することがまず不可能なうえに、壊

すことも大変難しい。なぜか?

 「情報」というものには実体が無い。実体が無いものを壊

すことはできない。

 「情報」というものは、ある思考とある思考の、関係性の

ことなので、ある「情報」を排除すると、アタマの中の関係

性(ネットワーク)に穴が開いてしまって、非常に気持ちが

悪い。なので、「情報」の排除は難しい(この表現を理解し

てもらうのも難しいかなぁ)。などと、口から出まかせを言

ってみる。


 ということで、アタマの免疫システムは、「異物」が入っ

て来ても、それをどうにかこうにかしてアタマの中の関係性

の中になじませるしかない。その時々の自分に都合のいい場

所に。


 そうして、無理やりなじませて、落ち着かせたつもりにな

って、その場所を別の思考で覆い隠したりしても、その「情

報」の「異物」としての存在は解消できていない。遠から

ず、それは問題を起こすことになる。・・・・・・・・。



 「・・・・・・・」と書いたのは、「面倒な話を始めてし

まったな・・・」という、私の気分の表現です。これはちょ

っと、くたびれそうだなと・・・。

 というわけで、今日はここで止めておこう。



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 一日経った。話題をちょっとずらして再開しよう。


 今から三十年以上前、神戸の元町に「ロストシティ」とい

う、全国的にも名の知れた老舗のライブハウスがあった。ラ

イブハウスといっても、今のライブハウスのイメージとは程

遠い、小さな小さな店で、カウンターの横で身を寄せ合うよ

うにして、バンドがカントリーウエスタンを演奏していたの

です。

 私はこの店が好きでよく通っていた。乞われて、一度弾き

語りのようなものを披露したことがある(緊張して上手くで

きなかったけどね)。その「ロストシティ」は、残念ながら

1987年に閉店した。なぜだと思います?


 1987年1月17日に(神戸の1月17日は厄日だね)、日本

で最初の女性のエイズ患者が見つかった。その女性が働いて

いたか住んでいた所が、「ロストシティ」のすぐそばだった

のです。

 当時、エイズはまだまだ研究がすすんでおらず、「感染し

たら必ず死に至る最悪の病」のように思われていて、ホモセ

クシュアルが罹る病気だと思われていたのですが、その病気

に女性が罹ったのが分かったのです。


 マスコミが騒ぎ立て、週刊誌やクチコミでありとあらゆる

デマが流された。人々は不安に襲われ、「ロストシティ」の

る界隈には誰も寄り付かなくなってしまった・・・。そし

て、閉店・・・。

 他の事情もあったかもしれないけれど、騒動が大きな影響

を与えたのは間違いない。


 この時、エイズそのものは何の被害ももたらさなかったけ

れど、人々の「不安」や「疑い」は現実の社会を恐ろしい力

で変質させてしまったんです。エイズ(HIV) は誰にも感染

しなかったけれど、「不安」と「疑い」は瞬く間に人々に感

染し、沢山の人の人生に困難を与えた。


 あることでマスコミが過熱したりする時は、私はそれに反

比例して急速に冷める。生理的に “引いて” しまう。

 「過熱している」ということは、情報に感染して「発熱」

しているんですからね。近付くと変なものを感染(うつ)さ

れそうで気持ち悪い。それがたとえポジティブな話題でも、

その中に何を持っているか分かったもんじゃない。


 疑り深いというのではない(とは言い切れないけど)。ヒ

ートアップしている人間は、その意味合い通り冷静さを欠

く。個人ならまだしも、組織や集団が過熱しているときは何

をしでかすか分かったもんじゃない。

 「不安」や「疑い」の広がりは、内にこもる「過熱」で

す。その熱は、人の情動にこもり続け、きっかけがあれば、

理性を吹き飛ばして爆発する。暴力的な犯罪の多くや、暴

動・戦争だって、そのようにして起こる。


 マスコミがネガティブな話題で過熱している時などは最悪

のパターンです。その話題の本質以外のところで、恐ろしい

ことや醜悪なことが起こる。そしてさらにいやらしいこと

に、その “ズレ” に人は気付かず、目を向けもしない。世界

の歴史に残るような恐ろしい出来事の多くも、そのようにし

て起きた。


 今回、私のアタマはコロナウイルスの「情報」に感染して

いるけど、他人がコロナウイルスの「情報」に感染してパニ

ックを起こしているのを見ると、私のアタマの免疫システム

はまぁまぁよくやってる方だろうなと思う。『正常性バイア

ス』が係って、誤作動している可能性もあるけどね。


 私のアタマに感染したこの「情報」を、無毒化して「ワク

チン」として、他の人に感染(うつ)せたら・・・。それ

が、最近コロナウイルスのことばかり考えてしまう理由かも

しれない。

 逆に、強毒化させているのかもしれないが・・・。



2020年2月16日日曜日

ルーシー・トーマスを聴け!



 ルーシー・トーマス(Lucy Thomas)という、オーディ

ション番組をきっかけに歌手デビューした16歳のイギリス

の女の子に、最近ハマってしまっている。


 ホイットニーヒューストンがデビューした時も「すごい人

が出て来たなぁ」と思ったものだが、ルーシーの衝撃はその

四倍ぐらいだ。

 オーディション番組の審査員が「パーフェクト」と評した

が、「パーフェクト」としかいいようがない。歌手として求

められるすべての要素を完璧に備えている。しいて言えば、

声量がまだ少しあってもいいということぐらいだろう(今で

も十分だけどね)。


 ノートパソコンのスピーカーで聴く You Tube の歌声

に、心を揺さぶられてしまうのだ。なんという才能!デビュ

ーCDを早速買って聴いているが、次のアルバムを早く聴き

たくてしようがない。


 かねてから私は、「人類史上、最も歌の上手い人間は美空

ひばりだ」と思ってきた。ジャンルの枠にとらわれず、あら

ゆる表現の可能な万能の歌手だと。まぁ、日本の “流行歌” 

を歌う “昭和の歌手” としての「クセ」というものはありま

したがね。

 そして、あのような完璧さを持つ歌手はもう現れないかも

しれないと思っていた。が、現れたんですよ。ルーシー・ト

ーマスが!


 歌い過ぎることがない。歌い足りないこともない。

 その曲が求めている最高で最適なものが本能的に分かり、

そしてそれを表現できる・・・。

 まだ16歳だが、あと二年もすれば、本当に、まさに「完

璧」になるだろう。そして人生経験を積むに従い、その表現

に深みが加わってゆくだろう。空恐ろしいというか、こんな

歌手の歌が聴ける時が来るなんて夢のようだ。なんと有難

い。


 彼女は、オリジナル曲ではなく、ミュージカル曲や他の歌

手の曲をカバーしているのだけど、彼女にカバーされる歌手

はたまったもんじゃないだろうな。ことごとくオリジナルを

越えてしまう。その意味では同業者に嫌われるかもしれな

い。私が嫌いな『アナ雪』のテーマも、彼女が歌うと名曲

だ。みごとなコントロールとエモーション。

 幼いころからボーカルトレーニングをして来たそうだが、

それを生かし切る天賦の才能を持っている。

 あまりの感激に You Tube のオリジナルサイトにコメン

トしたら、可愛い返信を送ってくれた。もうメロメロであ

る。


 何かアクシデントが無い限り、彼女は世界的な歌手として

長く人々に感動を与えて行くことになるだろう。ぜひ、そう

なって欲しい。いや、そうならないはずがない。彼女の歌声

は人類の宝だ。もしそうならないのなら、世界の音楽シーン

など消えてなくなればいい。存在する値打ちなどないとまで

思うね。


 ああ、聴きたくなってきた。


 人生にはこんなに楽しいこともある!







2020年2月10日月曜日

自想現実 コロナ ④



 世の中には、あらゆるジャンルのあらゆる情報が流れる。

 A から流れた情報が B では否定され、B から流れた情報

を C が修正し、C の情報を D が訂正したりしているうち

に、結局 A の情報を肯定する形となり、それをまた B や E 

が否定するといったような混沌が繰り広げられるが、つまる

ところ、人は自分の信じたいことを信じるだけなので、自分

の気に入った「正しさ」を信じて行動指針にしながら、生き

て行く。そして “自分の信じる「正しさ」” に殉ずることに

なる。誰一人としてそこからは逃れられない。


 《「正しい」とは、そういうことにしておけば

                                      気が済むということである》


 世の中では、まったくどうでもいいとしか思えない事か

ら、世界的な影響を与えそうなかなり深刻なことまで、「あ

あだ、こうだ」と人々がとやかく言って収まることがない。


 「気のすむようにやってくれ。どうせ “気の済むようにし

か” できないし、揉めることがお気に入りならそれもしょう

がない」などと、私は思うしかない。それで私の気が済むわ

けではないが、〈もの言えばくちびる寒し〉などともいうで

はないか。余計な口出しは、事をさらにややこしくするだけ

だ。

 こうしてネットの辺境のさらに片隅で、ひとりごとを書き

連ねてお茶を濁しているのが、害が無くていい。“正しい人”

に関わると大抵くたびれるし、ロクな事にはならないしね。


 人というものは、自分が正しくないことを前提には動けな

ので、「自分は正しい」から逃れられないんだけれども、

“正しい人” というものは、「自分正しい」と信じて疑わ

ないので大変始末が悪い。

 それが、自分の都合に過ぎないなんて夢にも思っていな

い。違う立場の者を完全否定するので凶悪で冷酷だが、本人

は「正しいことを言っている」「正しいことをしている」と

思い込んでいる。ああ、恐ろしい。


 誰も彼もが世の中のことを「ああだ、こうだ」と言うけれ

ど、「正しさ」が世の中を “正す” ことは無いので、ついに

「正しい世の中」というものが実現することは無い。

 この世の終わりまで、世の中はごった返したまま続いて行

くのだろうな。可哀想なわたしたち。


 私からすれば、世の中に「正しい」ことなど存在しない

が、以前にこのブログで書いたように、最近はこう思ってい

る。

 《 「正しい」ことがあるとすればそれは

                                 「仲良くすること」だろう 》と。


 人がそれぞれ自分の「正しい」を主張して、他の「正し

い」と対立すれば、世の中は乱れ、生き辛くなるしかない。

それならば、世の中を乱さず、わたしたちが生きやすくなる

には、お互いの「正しさ」はさておいて「仲良くする」こと

だろう。違う言い方をするならば、「“アタマの言い分” よ

りも、“生きているお互い” が大事だと気付くこと」だろ

う。さらには、「“アタマの都合” よりも、“出来事の実際” 

をおだやかに受け入れること」でもあるだろう。


 わたしたちのアタマは悪い。わたしたちはみんな “自想現

実” とでもいうものに住んでいて、それを乱すものを恐れ、

嫌悪する。そして、それぞれの “自想現実” は、自身の本質

や世界の本質とはどんどんと乖離して行き、人は自分の本質

と世界の本質を経験しないままに、生を終えてしまう。私な

りの表現で言えば、「生き損ねる」。


 先日来の中国の「新型コロナウイルス」の騒動などは、そ

れが本当に「死に至る病」であったとしても、その騒ぎに振

り回されれば、生きていても「生き損ねる」ことになるだろ

う。

 深い省察も無いままに「死」を忌み嫌えば、「生」をも遠

ざけることになる。

 私は、そう信じて疑わない


 《 人は、“自分の信じる「正しさ」” に殉ずるしかない 》





2020年2月9日日曜日

アタマは、自己正当化のことしか考えない



 私は時々「サイト荒らし」のようなことをしてしまう。ブ

ログや YouTube を見ていて、気にいるとコメントを書き込

んだりするのだが、そのコメントに管理者や別の閲覧者から

お褒めの言葉を頂くことが多い。それに気をよくして、その

サイトの新しいアップが気に入ってまたコメントした時に、

そのサイトを「食ってしまう」という感じになってしまっ

て、管理者から無視されるという事態になることが度々あ

る。申し訳ない。(もちろん、単純に私がバカで無礼なだけ

だという可能性は拭えない。私のアタマも悪いからねぇ)

 悪気は無いのだが、行儀の良いことではないと思うので、

「気を付けねば」と最近は思っている。


 このブログの内容に表れているように、私の考えは非常識

である。そのうえに、ものを言うと、常識を装いながらそこ

に非常識を忍ばせて、人の常識をぐらつかせるということを

してしまうので、はなはだ性根が悪い。前置き無しにそんな

ことをする輩は無視されて当然である。


 とはいうものの、それは私の個性であり、私の欠点である

と同時に美点でもあるので、このブログの中では遠慮する気

はない。たとえ、たまたまこのブログを訪れてしまった人

が、「価値観の交通事故」に遭ったように感じたとしても仕

方がないと思う。世の中、何が起こるか分からないのだ。た

とえ悪縁でも、それをいかに上手に受け止めるかが、人の力

量というものだろうし、悪縁と思えるものが自分の人生を新

しい局面に導き、結果的に「あれは良かったな」と思えるこ

ともよくあるのだから。


 などと、自分の不作法を正当化しつつ、私は何を言おうと

しているのだろうか?


 実は、唐突に書き出して、ここまで何のアウトラインも無

しに来てしまっている。掛け値なしに “口から出まかせ” な

のだ。何が私にこうさせているのだろう?


 と、ここへ来て、こんな言葉を思い出した。


 《たとえ投げ捨てようとも

         人は自分から逃れることはできない》


 だれの言葉かも憶えていないし、内容も不正確だと思うけ

ど、そのような意味合いの言葉があった。


 誰も自分からは逃れられない。

 自分を変えようとしても、変えたと思っても、変えようと

するのも変えるのも、その方向付けをしているのは自分で

す。

 わたしたちは、“気に入らない・肯定できない自分” を変

えようとするけれど、その「変えよう」とする自分の思いが

妥当なのかどうかは分からないことです。単に、答えが分か

らなくて、思い込みで手近な解決策に飛びついてるだけなの

かもしれない。そもそも “生き方” に答えは無い。


 誰もかれもが「自分を生きる」しかない。その当たり前の

ことが、まるで異常な事のように言われたり、自身でそう思

ったりする(思わされるんですけどね)。

 生まれてから死ぬまで、ひっくり返そうがのたうち回ろう

が、なにをどんなにがんばっても自分は自分でしかない。何

か “大したもの” になったような気がすることはあっても

ね。


 みんな、「自分が自分してる」だけでしかない。それを自

分で認めて、お互いが「その人の自分」を認め合えたら、世

界はもう少しゆとりがあるものになる・・・。


 たとえば、アメリカでは銃を乱射して無差別に人を殺す人

間がよく出てくるけれども、そんな人間も、「それはそうと

して、その人はその人を生きるしかなかったんだ。その結果

は “これ” ではあるけれど・・・」と認めるようになればど

うなるか?

 そのように、どんな人もできる限り許容するような社会で

あれば、社会からの圧力が減り、逆に反社会的な問題を起こ

す人間は減るだろう。と、私は思っている。(もちろん、

「やっちまったこと」は、社会的に裁かれていいんですよ)


 なんだってこんな話になったのか? 

 私は知らない。


 自己正当化だか、他者の容認だかわからないことを書いて

しまったが、これはこれで「自分」なのだからしょうがな

い。そもそも「自分」というものは、「自分」で生きている

わけでもないしね・・・。


 もう寝よう。おやすみなさい。


2020年2月8日土曜日

『不安パンデミック』 コロナ ③



 中国の新型肺炎の騒動はまだまだ収まる気配がない。「一

か月もしたら “そんな騒ぎがあったなぁ” などということに

なるだろう」と思っていたのだが、そうでもなさそうだ。や

だねぇ・・。


 そもそも「新型肺炎」という言葉はなんだろう?

 「新型ウイルス」という表現は分かるが、肺炎に「新型」

も「従来型」も無いはずで、肺炎は肺炎だ。

 「肺炎」というのは、病名というよりも、むしろ身体の

「症状」というべきものだろう。肺に入り込んだ異物を排除

するために免疫細胞が盛んに活動し、サイトカイン等を多量

に放出した結果、炎症が起き、その炎症が安静が必要となる

ぐらいになると「肺炎」と呼ばれることになる。だから病原

がなんであれ、「肺炎」は「肺炎」だ。


 そもそも、肺炎に限らず、「炎症」を起こすのはウイルス

や細菌などの異物や、なんらかの生理的な刺激だと思われて

いるだろうが、「炎症」を起こすのは、実はわたしたちの免

疫細胞だ。ウイルスなどの異物はその契機となるものであっ

て、それ自体が「炎症」を起こしているのではない。


 免疫細胞は、身体に異物が侵入するとそれを攻撃するが、

そのさいにサイトカインと呼ばれる物質をだして、他の免疫

細胞を呼び寄せるとともに、サイトカインの作用でまわりの

免疫細胞を活性化させるそうだ。しかし、このサイトカイン

が多くなりすぎると、自身の細胞を障害して「炎症」をおこ

すことになり、その人の免疫活性が低いほど「炎症」の程度

は酷くなり、事態は深刻になる。

 そのメカニズムを踏まえた上で考えると、免疫細胞の活性

が元々高ければ、そんなにサイトカインを出さなくても済む

だろうから、免疫細胞が活動しても「炎症」は起きないか、

酷くならないだろう。今回の「新型コロナウイルス」も、そ

もそも免疫活性が高ければ心配のない程度のものだと私は思

う。はっきり言えば「ただの風邪」だと思うね。


 「新型コロナウイルス」が特定されてから一月が経って、

今回の “新型肺炎” の感染者は30000人を越え、死者は600

人を越えたそうだが、それはこんなに騒ぐような異常事態な

のか?

 中国という国は14億人が暮らすところなので、常識的に

考えると年間1400万人程度の人が死ぬと思われる。(特に

衛生状態が悪い国などでなければ、一年で人口の 1 %が死

ぬものです)

 武漢市に限って言っても、人口1100万人なので、年に 

11万人。ひと月では 9000人が亡くなることになる。「肺

炎」というものは、人の死因の中では多いものなので、そ

の 9000人の中には、従来から「死因は肺炎」とされる人が

かなりの数ふくまれているはずで、その数が「千」単位でも

不思議ではない。

 そう考えると、今回亡くなった 600人は、従来のように

「肺炎」で亡くなる人の中で、「新型コロナウイルス」を病

原とする人をカウントしただけではないか? 中国、あるい

は武漢市の肺炎死亡者の数を特段押し上げてはいないんじゃ

なかろうか? 詳しいことはマスコミが流さないので知り様

もないけど、単純に死者数から考えるとそう考えるのが妥当

ではないかと思う。それと私が「ただの風邪だ」と思うもう

一つの理由は、中国は大気汚染が深刻な国だということ。中

国のある NPO の調査では、「大気汚染が原因の死者は年間

100万人にのぼる」とされる。この数字の信憑性はともか

く、それほど大気汚染が深刻だということだ。

 そのような国では、呼吸器系に問題を抱える人が非常に多

くて、「肺炎」を起こしやすい状態の人が沢山いるのは当然

だろう。その国で起きた “肺炎騒動” を、地域の特性を考慮

せずに、「他の国でも同じようなことが起きるのではない

か」と騒ぎ立てるのは理性的とは言えないね。

 マスコミやネットが「600人も・・・」と騒ぐ前に、分母

などの設定条件を考えなくちゃいけないんだが、マスコミは

脅かすのが商売だし、ネットは煽るのが本分のようだからど

うにもならないか・・・。


 『不安パンデミック』という言葉は、「不安の拡散が爆発

的に起こること」という意味で先日作りましたが(『パンデ

ミックよりも怖いもの・・・。』2020/2/2)、人はすぐ

不安にかられて妄想し、妄想が実際以上に問題を拡大させ

て、不必要で不当な行動をとるものです。そして、無意味に

幸を生み出してゆく。


 さっき「炎症」のメカニズムを書いているときに気が付い

たんですが、今の状況は、〈「新型肺炎」という “異物” に

マスコミやネットなどの “免疫系” が群がり、「不安」とい

う “活性情報” をまき散らして「感情の炎症」を起こしてい

る〉という、免疫活動のアナロジーになっている。「“安心

全原理主義” に犯された、役立たず狂った免疫系が」、

ですけどね。

 嗚呼、嗚呼、アタマが悪い・・・。


 (とは言え、ウイルスの変異は早いので、本当に深刻な病

原性を持つようになる可能性はある。と、言い逃れはしてお

こう・・・。姑息だけど、安心安全の為の警戒は、その程度

が適切だとは思うよ)







2020年2月2日日曜日

人は誰でも、死ななければならないんだけどね・・・ コロナ ②



 新型コロナウイルスの件で、こんなことを考えた。


 このウイルスは、今回の騒動以前にすでに世界中の多くの

人に広がっていたが、病原性が弱くて発症者が少なく、発症

しても症状が軽かった為に、どこでも病原の特定などは行わ

れずにいたのではないか? たまたま今回、武漢市で免疫力

の落ちていた人が発症して重症化し、病原が何かを調べるこ

とになって、新型のコロナウイルスが見つかったということ

なのかもしれないと。

 なので、他の国でも、感染が疑われる人に対して検査を行

ったら、無症状の感染者(「不顕性感染」と言います)がい

っぱいいて、次々に見つかっているのではないか。

 それでも話のつじつまは合うので、実はすでに世界中に感

染者はいっぱいいるのに、中国から発生したと思い込んで

「中国に押し留めておこう」と無駄なことをしているだけか

もしれないよ。


 実際のところ、いったい何が怖いのか? 私にはさっぱり

分からない。

 「永遠に死にたくない」という人には大変な事なのかもし

れないが、私は「人は一分後に死んでも不思議じゃない」と

思っているので、今回のような事は何とも思わない。

 もちろん、なるだけ死にたくはないし、自分が大切に思っ

ている人にも死んでほしくはないけれど、「生きている」と

いうことは、「必ず死ぬ」ということなので、「自分や、自

分が大切に思っている人がいつ死ぬかも分からない」という

ことに対して、それなりに覚悟はしている。


 例えに出すのは本当に失礼で申し訳がないのだけれど、一

昨年の大阪の地震で、気の毒にも小学生の女の子が亡くなっ

てしまったことがあった。あの子の親御さんは、「いってら

っしゃい」と送り出したほんの五分後ぐらいで、我が子が死

んでしまうなんてまったく思わなかっただろう。いや、思っ

たわけがない。

 「一分後、我が子や自分自身が死ぬかもしれない」という

意識を常に持ちながら日常生活を送ることなど出来はしない

が、「それは誰にでも起きうる」ということを、人は肝に銘

じておいた方がいいだろう。「生きる」とは、そのようなこ

とも含んでいることだから。


 かなり薄情で冷酷なことを言っているのは承知している。

けれど、その「冷酷な事」が誰にでも起こり得るのが、わた

したちの人生であり、この世界というものだ。自分が、い

つ、その「冷酷な事」に直面する者になってもなんの不思議

もなければ、文句の言いようもないのだ。


 その「冷酷な事」が、例え誰かの過失や悪意によるもので

あったとしても、起こった事は元には戻せない。誰かや現実

を責めたところで、失ったものは帰りはしない。その「冷酷

な事」が起きた自分の人生を、泣きながら、地べたに這いつ

くばりながらでも受け止めざるを得ない。受け止めきれなく

て、自分が死んでしまうことになったとしても、それはそれ

でしようがない。私がそうなるかもしれないが、それならそ

れでしようがない。〈命〉には、「生」も「死」も含まれて

るのだから。


 そのような私たちの「生」を考えるとき、今回のような騒

動の無意味さや、人々が、いかに「生きているということ」

を上っ面でしか受け止めていないかという現実を目の当たり

にして、悲しく思う。


 実際に「自分が死ぬこと」や「自分の大切な人が死ぬこ

と」と、「死ぬかもしれない病気が流行っているらし

い・・・」ということを同列に思い込んで、かえって要らぬ

不安や不幸を背負いこんだり、他人を理不尽に不安にさせた

り不幸にさせたりするのは、あまりにも愚か過ぎる。


 人は誰でも、死ななければならない。

 誰も、その時を、その死に方を、自分で決めることはでき

い。自殺でさえ、そう追い込まれてしまってのことなんだ

ら・・・。


 「人は、いつ死ぬか分からない」

 その事実を “無いこと” にして、何になる?

 私には、それが不思議でたまらないし、それが良い事だと

も思わない。

 「冷酷」かもしれない。けれど、その「冷酷」の向こう

に、本当の「暖かさ」と「安らぎ」があると、私は思ってい

る。そして、誰もが、そこに「しあわせ」を見いだして欲し

いと思っている。

 その「しあわせ」は、常識の範疇にはないものだけれど

・・・・・。