2020年2月24日月曜日

生老病死 コロナ ⑥



 今回は「苦」について考えてみる。


 仏教で言うところの「四苦八苦」は、「生・老・病・死」

の四苦と、「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛

苦」の四つの苦。

 先の根本的な「四苦」に後の四つの苦を合わせて「八

苦」。それで「四苦八苦」という。


 「老・病・死」が「苦」なのは誰でも理解できるが、

「生」がなぜ「苦」なのか?私はいまだにピンと来ない。

 「生きること」と読めば、他の七つを総合したすべての

「苦」のこととなるだろうから、「苦」の内訳にはならな

い。「苦」は七つということになる。

 テーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナラーサ長老は、

「生」を「生まれること」として、「生まれてくるときは死

ぬか生きるかの危機なので、とても苦しい。なので “苦” な

のだ」といった解説をしているが、生まれてくるときに自己

としての意識は無い。それが肉体的な「苦」であったとして

も、当人に認識は無い。それを「苦」と言ってよいのだろう

か?

 いずれにせよ、私には「生」が「苦の一つ」というのはピ

ンと来ないのです。


 他の七つの「苦」のうち、「五蘊盛苦」は、わたしたちが

感覚から受けとることと、それによって起こるさまざまな認

識作用に執着することで起こる「苦」のことのようで、ざっ

くり言えば「執着」のことらしい。


 「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」はいずれも、観念

が生み出す「苦」。


 「死」は、“自己” にとっては、あくまでも未来に待って

いる恐怖の対象であって、わたしたちの “自己” は「死」を

体験することはできません。ですから、「死」も「観念とし

ての苦」です。


 「老」。老いると、身体があちこち傷んできて、「痛い」

「苦しい」ということになりますが、この「苦」は「病」と

同じカテゴリーに入るものです。「老」の「苦」としての本

質は、“自分がいよいよ「死」に近づいて行くという意識” 

にある。ですから、「老」も「観念としての苦」です。


 残る一つの「病」だけが、身体的な感覚の「苦」です。他

はすべて観念が生み出す「苦」。いわば、自分で生み出す

「苦」です。


 「病」は、自然の一部である身体に起こる「苦」であり、

自然が生み出す「苦」ですが、ほかの「苦」は、自分の観念

が生み出すものであって、いわば、自業自得なんですね。

(「病」の中には、依存症とか生活習慣病とか、“自業自

得” のものもありますがね)


 唯一具体的な(身体的な)「病」という「苦」は、自然の

摂理として起こるものです。誰も避けることができません。

中には生きているうちにほとんど「病」に出会わないという

幸運な人もいるかもしれませんが、普通はそうはいきませ

ん。その「苦しさ」を回避しようと、アタマは自分の身体や

周りの環境をコントロールすることに囚われ、それは時とし

て常軌を逸したレベルになることがあります。そして、身体

的な「苦」である「病」も、「観念としての苦」に変質して

しまいます。

 わたしたちは、あるがままのものを受け入れることが出来

ず、アタマで自らの「苦」を組み立て、自ら苦しむのです。



 生きるものは必ず死にます。死なないのであれば「生きて

いる」という概念自体が成り立ちません。「生」は「死の概

念」があるからこそ存在します。「死の概念」を排除する

と、「生」は意味を失うことになります。

 そのため、「死」を忌み嫌えば忌み嫌うほど、「生」は貧

弱なものになると私は思っています。その実感と豊かさを失

うと。


 昔の誰かの言葉に「死はわれわれすべてが、支払わねばな

らぬものだ」というのがあったように思いますが、最後の支

払いのためには、ちゃんと貯めて(生きて)おかねばなりま

せん。

 「観念としての死」という負債(恐怖・不安)を抱えたま

ま、現実の「死」を迎えると、恐れの中で人生を終えること

になります。(支払いができなければ、地獄へ連れて行かれ

て、労働させられます😂)


 自然の摂理である感染症と、それによって免疫の弱いもの

が亡くなるという自然な出来事を受け入れられず、いまや世

界中が “恐怖の観念” の中に巻き込まれようとしています。

 それをコントロールしようとすればするほど、新たに “恐

怖の観念” が生まれ、「苦」は増大するのですが・・・。


 この現状に、お釈迦様はため息をついているのでしょう

か? 泣いているのでしょうか?





 

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