2022年1月21日金曜日

そんな自分を守って、それでどうするの?



 コロナ騒動を見てるとよくわかるけど、みんな自分を守ろ

うと必死ですね。

 それはたんに命・健康を守ろうというだけではなく、同調

圧力を恐れて社会的な自分の立場を守ろうとしたり、自分の

意見を守ろうとしたり、なんらかの利権を守ろうといった具

合に、社会的・観念的にも自分を守ろうとしている。むし

ろ、そちらの側面の方が大きいでしょう。けれど、その守ろ

うとしている “自分” は、自分で納得できるような自分なんで

しょうか?


 安全策  当人にとってはですけど  をとって、リスク

を最大限排除して、それで守られる “自分” は、そんなに素晴

らしい “自分” なのでしょうか? 少々のリスクなどもろとも

せず、日々を受け止めて行った方が、自分が活きて、深まる

ように思いますが・・・。


 もちろんリスクをとればイイというものでもない。別に、

エベレストに登ったり、鳴門海峡を泳いで渡ったり、デカい

ビジネスに人生を賭けなくていい。そういうことではなく

て、普通に生きていれば起こり得るリスクを回避しようとし

過ぎると、その分だけ、生きることは狭くなってしまうだろ

うと思うのですよ。

 不都合なことを経験して、精神的にも肉体的にもジタバタ

しながら、そのことで “自分” が洗練され、成熟して、上手く

行けば「生まれて来て本当に良かった」と思える “自分” にな

れるかもしれない。その為には、個人としての自分の感覚に

敬意を持って、なるべくそれを優先させた方がいいのだと思

う。そうして、社会や自然とぶつかることで “自分” の本質が

分かってくる。

 何度も何度もぶつかって、はじかれて、自分が自分らしく

居られる場所が定まってくる。そこにしか自分の居場所が無

いのだと分かってくる。

 そこからさらに “自分” ともぶつかって、“自分” にも不自

然さを感じて、さらに奥へと落ち着きどころを求めて行く

と、“人間” として落ち着くべき場所を知る。観念に右往左往

させられる “自分” ではなく、“人間” としての〈自分〉に落

ち着く。

 「生老病死」

 生まれて、老いて、病気になって、死んで行く。

 その “自然” を、当たり前を、当たり前に受け入れておおら

かに生きられるようになる。


 「生まれなければよかった」

 「歳をとりたくない」

 「病気になりたくない」

 「死にたくない」

 そんなの無理でしょ?


 泰然自若。一切動じない・・・。そういうことではないの

です。人間は大理石の彫刻ではないですから、「生老病死」

が苦しくて当たり前です。ただ、現代人がそれを拒む姿はあ

まりに病的です。“自分” を生みだした自然に対する畏怖や敬

意が無い。私の目から見たら、思い上がりにしか見えない。

「私の目」が何ほどのものかは知りませんけど。


 アタマが「これが自分だ」と考えている “自分” と、アタマ

とは関係なく存在している〈自分〉がある(心臓を動かして

いるのはアタマではない)。現代はあまりにもアタマ優先。

アタマの思い上がりが極限まで来てしまって、何が何だか分

からなくなっているようにしか見えないが、当の本人(社

会)は上手くやってるつもりなんだろう。


 「何もかも、自分の気の済むようにコントロールするん

だ!」

 それが現代人の不文律らしい。

 すれば?

 そうして、「あってはならないこと」とか「想定外のこ

と」とかを無くせばいい。けれども、それは同時に、「思い

がけない」とか「思いもよらない」とか「思いのほか」とい

う生きている喜びも消すだろう。そして、〈自分〉の成熟も

無いだろう。


 ゲーテは、“昔の人から学ぶことは無い” と言う人間を、

「お手製のバカモノ」と言った。

 自分の考えから外れるものや、社会が容認しないことを排

除することしか知らない現代人は、さしずめ「既製のバカモ

ノ」なのだろう。


 「おまえは自家製のバカモノだよ」と言われれば、私には

それに反論する確固としたものはないけど、必死に守りたい 

“自分”というものは無いので、「そうですか」と言うだけ。

 なにせ、人はみんな出来損ないだと思ってますからね。私

も出来損ないのひとりなので。


 出来損ないの自分の “出来損ない性” を減らすには、自然と

いう「完璧」なものに、なるべく繋がるほうが良い。それし

か手は無い。

 アタマの承認する “自分” を守れば守るほど、〈自分〉は縮

こまってゆく。命が衰弱してゆく・・・。

 私は〈自分〉を生きたい。

 

2022年1月17日月曜日

風にまかせて



 今日は1月17日で、27年前に阪神淡路大震災が起きた

日。被災者の一人として、朝目が覚めたら一応手を合わせ

た。


 当時は、「震災の帯」と言われる震度7の地域に居た。

 寝てると「ドン」からだが持ち上げられ、そのまま、浮い

たまま身体を揺さぶられているような感覚だった。その時の

ことを例えるのに、いつも「紅茶の缶の中に入れてシェイク

れているゴルフボールになった感じ」と、私は言う。いま

でも、身体がその感覚を覚えている。


 あれから27年も経った。今年も東遊園地(神戸市役所の

横にある公園)で追悼の行事があった。今年は「忘」という

字がテーマとして掲げられていた。「忘れない」と「(辛い

で)忘れたい」という両方の想いを込めて選ばれた一文字

だそうだ。

 「忘れない」も「忘れたい」も、そこには意思があるけれ

ど、私は、ことさら「忘れない」ようにする必要は無いと思

うし、ムリして「忘れる」必要もないと思っている。「忘れ

る」のなら忘れていい。「忘れられない」のなら忘れなくて

いい。そういうなりゆきにアタマが介入すると、あまり良い

結果にはならないような気がする。


 今日も、遺族の追悼に訪れていた女性が泣きながら語る姿

をニュースで流していたが、その姿を見ていて、「う~

む」と考えてしまった。「この人、ムリして忘れないように

してるんじゃないだろうか」と。

 もう27年も経っているんですよ。もう少し受け入れて消化

しているのが普通じゃないんだろうか。私は震災で身近な人

を亡くしてはいないけれど、そう思う。それは、9歳で父親

に自殺されたことを私が受け入れるのに、そこまでかからな

かったから。


 思い出して辛いとかいうのは中学生の頃で済んでいて、自

分なりに一応受け止められていたし、28歳の時には完全に

消化することが出来た。まぁ、20年ほどかかったわけです

が、父親には父親の事情があり、それが父親の人生だったん

だからそれでいいのだと、肯定することができるようになっ

たわけです。そして私は私でいいのだと。

 そのような自分の経験からすれば、27年も経って、まだ

思い出して悔やんで泣いているあの女性の姿は奇異に映るの

です。(うがった見方をすれば、テレビ局のヤラセかもしれ

ない。よくやるそうだから)


 あの女性は27年生きてらっしゃる。その為には食事を摂

らなくては生きていられない。当時、大切な人を亡くして、

数日間食事がのどを通らないということもあったことでしょ

う。けれど、いま生きてらっしゃるということは、当時、ほ

どなくして食事を摂るようになったわけです。それは、その

時点ですでに「忘れる」方向へ進んでいるということを表し

ているわけです。それが自然です。それは「冷たい」とか

「愛が無い」とかいうことを意味していない。生きてゆくと

いうことは、「苦しみ」を忘れることを必要としているので

はないでしょうか?そのような仕組みが備わっているのでは

ないでしょうか?


 「震災を風化させない」、事あるごとにその言葉を耳にす

る。

 確かに、教訓としては風化させない方が良いと思う。けれ

ど、辛さ・苦しみ・悲しみは風化して良いだろう。それが自

然な事だろう。

 酷い言い方だと思われるかもしれないけれど、「悲しむこ

と」は愛ではない。それは執着です。(仏教では「愛」は

「渇愛」といって、執着のひとつです)

 「愛しているから悲しむ」と、普通は捉える。けれど、私

は違うと思う。「悲しむことで、愛しているつもり」になっ

ているだけだと。

 愛しているのなら、その「死」も含めた “その人” を受け入

られるのではないでしょうか? 


 もちろん、すぐに受け入れられるわけではない。泣いて悔

やんで過ごす日々が続いていい。けれど、のどを通らなかっ

た食事がのどを通るようになるように、自然ななりゆき、働

きで、悲しみ、苦しみは薄らいでくる。それを押しとどめる

必要は無い。薄らいでいい。それは愛の不在ではない。愛と

悲しみはまったく別のところに在るもの。悲しみは心に有る

が、愛は魂に在るとでも言えばいいでしょうか。


 大切な人を亡くした悲しみが、完全に消えることはないだ

ろうと思う。けれど、悲しみから苦しみが離れてゆき、悲し

みが愛しさを伴うようになった時、本当に愛し始めたのでは

ないか? そんな風に思うのですがね。



2022年1月15日土曜日

みんな病んでるなぁ



 この頃しみじみと思う、「みんな病んでるなぁ」と。

 そんなこと随分前から思っている。けれど最近は特に強く

思うようになった。世の中を見ててそう思う。ネットを見て

るとなおさら思うけれど、それは他人事ではない。このブロ

グを見た人が「コイツ(私のことですね)病んでるなぁ」と

思う確率もなかなかに高いだろう。

 けれど、そんなことは驚くに足りない。人は「病んでる」

のが通常だから。
 

 人は直立二足歩行をするようになって、腰痛に悩まされる

ようになったというが、それは自意識を持ったことに比べる

と大した問題ではない。人は自意識を持ったことで酷く病む

ようになった。いや、自意識を持ったということが「病」

だ。それはウイルスに感染することとよく似ている。

 ウイルスは感染した細胞の機能を利用して増殖する。自意

識も脳の機能を利用して増殖し、自らを強化してゆきつつ、

自分に都合の良い思想や宗教といったようなものの見方を産

生する。そして、脳を支配し、身体を支配しようとするけれ

ども、自意識は脳のことも身体のこともよく分かっていな

い。にもかかわらず、分かったつもりでそれを自分の気に入

るようにコントロールしようとするので、それがありとあら

ゆる人間の問題を引き起こす。

 「病膏肓(こうこう)に入る」という言葉があるけど、人

間のもっとも酷い病は脳に入っている。


 この病は形にはならないけれど、脳の中で情報のガンのよ

うに意識の中を占領してゆく。さらに厄介なのは、ガンは他

人に感染しないけれど、これは他人に感染する。感染者が増

えてくると、その一団は社会の中を自分の都合の良いように

具体的に改変して行くので、上手く行けば、かなりの期間、

自分たちに快適な環境を維持することができる。その面で

は、感染した方が幸せかもしれない。しかし、感染者を増や

し過ぎると、大抵の場合、時に破滅的で災厄としか呼べない

破壊をもたらす。歴史上、その証拠は枚挙にいとまが無い。



 人は生まれてくると、必ず感染する。誰もそれを避けられ

ない。

 目先の幸せを望むなら、感染したままでいることはメリッ

トが有るだろうけれど、生きるということを考えた時に、そ

れは得策か? できれば早い段階で感染を自覚し、その悪影響

をなるべく抑えた方がよいと私は思う。その方がレベルの違

うしあわせを生きることが出来ると思うからだ。

 ではどうやって悪影響を抑えるか?

 先に書いたように、感染を自覚することだろう。そして、

自分自身がエネルギーを与えなければ、それは具体的な力を

持たないことを意識しておくことだろう。そのようにして、

破壊的な影響を表出させないようにする。


 自意識が勢力を弱めれば、自動的に脳の他の部分や身体の

働きが表に出てくる。そして、それは世界と繋がる。自身と

世界の間に壁を作るのは自意識だから。
 

 私たちは、ひとり残らず、みんな病んでいる。病みながら

も生きている。

 勝手に心臓は動き、身体は自動的に病原体と闘ってくれ

る。自意識とは無関係に「生きている」。

 その「生きている」という部分に敬意を払い、尊重するこ

とで、自意識が思いもしなかった世界を体感することが出来

る。


 しあわせは、自意識の外にある。



2022年1月9日日曜日

病気かもしれないけれど



 このブログを始めて、今日で丸5年になる。

 なぜブログを始めようと思ったのかは全然分からない。そ

んなこと考えたことも無かったのに、5年前仕事を辞めてか

らすぐにそう思って始めてしまった。

 それからもう600回以上も口から出まかせを書き続けて

いる。われながら「すごいなぁ」と思う。良くも悪く

も・・・。


 これまで書いて来たことは、例えば本屋の “仏教” や “精神

世界” といった棚を物色すれば出会えるようなことで、私の

オリジナルな内容では無い。そんな既に存在している話をわ

ざわざ私のような人間が書くというのは、いわばムダなの

で、このブログが書かれる理由は、あくまでも私の都合によ

る。どんな都合か本人にもよく分からないけれど・・・。


 そのような、個人的で、他でも目にする機会がいくらでも

あるような話をして、何になるのか?

 僭越ながら、同じことを表現するのでも、いままでに無か

った、私でなければできない表現というものがあって、他の

人の表現ではピンと来なかったことが、私の言い回しで腑に

落ちるといったことがあるはずなのです。そこを拠り所にし

て、このブログを続けている。


 「書いたものは残る。いつ誰が読むかしれない」

 そしてこの口から出まかせが、誰かのちょっとした支えに

なるかもしれない。いや、なるはずなのです。

 ここに書かれていることの多くが、これまで私が支えられ

た話を私なりに消化して出て来たものです。つまり、私で実

証済みなのです。

 もちろん、こんな話は万人向けではない。一般向けじゃな

い。私は一般に入れない人に向けて書いている。「そういう

人の役に立て」と。


 もしかしたら、こんな話は、社会の落ちこぼれが「同病相

憐れむ」といった感じの、情けない自己満足かもしれない。

でも、たとえそうだとしても、それは結構大事なことです。

 世の中にはさまざまなコミュニティが有って、それぞれが

同じような価値観や感覚を持つ人たちの集まりで、極端に言

えば、“「同病相憐れむ」まとまり” がいろいろ有るというこ

と。自分とは全然違う趣味を持っている人たちを見て、「下

らない」とか「何が面白いのか」とか「意味が無い」とか思

ったりするのは、それが他人から見れば病気でしかないから

です。けれど人はそういうものを必要としている。

 宗教や娯楽や経済活動のように、何千万人、何億人という

規模になるものもあるけれど、いくら規模が大きくても病気

は病気です。「同病相憐れむ」です。それが世の中です。


 このブログは、そんな世の中の「病気」が嫌で、なんとか

それから逃れようとするあがきのようなものでしょう。世の

中の側から見れば、こっちが “病気” でしょうけど。


 こんな「同病相憐れむ」ような話を書いて、私が無意識に

目指しているものは、「相憐れむ」ことからの解放なのでし

ょう。

 人がそれぞれに「病気」であるのは、「独り」が怖ろしい

から。人がそれぞれに「独り」であることから逃れたいか

ら。その為に、本当は意味のないことを依り代にしてまで集

り、「独り」を無いことにする。「同病相憐れむ」。

 けれど「同病相憐れむ」ことが「病気」を存続させる。多

くの場合、増悪させる。

 それが人の事実だと思う。


 こんなブログを続けて、私なりに同病相憐れみながらも、

「独り」ということを捉え直したい。「独り」を怖れること

は大間違いなのだと。


 「独り」ということの真実を掴むことができたら、私たち

は「同病相憐れむ」のではなく。健全に集うことができるの

でしょう。


 こんな考え、病気かもしれないけど、しようがない。これ

がいまの私だから。

 病気でも、病気じゃなくても、これが私なら、私はこれを

生きるしかない。そして、それでいい。誰一人うなずいてく

れないとしても、私は私の「独り」を尊重する。なにしろ、

さしあたり、いま私はこの世界に生かされている。これほど

大きな承認はない。

 「独り」は世界によって支えられている。

 明日は知れないけれど、とにかく、いま、この時、この世

界にいるすべての「独り」は・・・。




 

2022年1月6日木曜日

進化できるか



 この冬も、窓の外でメジロがミカンをつついている。この

小さな可愛らしい生き物が恐竜の子孫だなんてほんとかね。


 「進化」という言葉には肯定的なニュアンスがある。「良

化」というような感じですね。「あとから出て来たものが高

等だ」という暗黙の了解があるように思う。けれど「進化」

の実態は単に「変化」です。


 ダーウィン自身が “evolution” という言葉を使ったのかど

うか私は知りませんが、過ちだったように思う。

 恐竜が鳥になり、チンパンジーが人になったことが「良

い」かどうか分かりません。ただ、そうなっただけのことだ

し、人がこれまでに沢山の生物種を絶滅させてきた事などを

思えば、他の生物からは、「あれは退化だ」と言われそうに

も思う。


 人間の場合、でかくなった脳みそを使って、道具や資源の

さまざまな使い方を生みだして、一般人が宇宙空間へ行くま

でになって、それを「人類の進歩」だとか「人類の進化」だ

とか言ったりするけれど、単なる「変化」に過ぎない。それ

も表面的な「変化」でしかない。心臓がコンパクトで省燃費

になったわけでも、目にズーム機能が付いたわけでもない。

わけもわからず自分たちの周りを改変して来ただけのこと

で、それを「進歩」や「進化」と思いたいだけでしょう。


 人間のいったい何が進んだというのか? 何も進んでやしな

い。アタマも身体も相変わらずで、進んだことと言えば、妄

想を形にする度合いと、環境を食い潰す速度ぐらいのもの

で、本質は何も変わっていない。人は学べば変わるものだけ

ど、人間の本質が変わっていないということは、これまで人

間は学んで来なかったということ。身の回りを飾る手管は高

度化しスケールアップしたけれど、中身は変わっていない。

「変化」さえしていないのだ。「人類の進歩」などという言

葉を使いたければ、せめて、戦争ぐらいは無くしてからにし

てもらいたいものだ。


 もしも、人と人とがみんな仲良くして争いが無くなるのな

ら、私はそれを「人類の進化」と呼びたい。

 どのような生き物にも同種間での争いはある。人間は同種

間でむやみやたらに殺し合うほど、「争う」という点で異常

な生き物だけど、その一方で完全に争いを無くす可能性を持

っている。


 生き物はみんな生存し続けようという衝動を持っている。

その衝動が争いを生む。それは人間も同じ。けれど、意識の

在り方によっては、人はその衝動をわきにどけることができ

る。人が、赤の他人の命を助ける為に、身の危険を顧みずに

行動することは結構ある。私でも、巡り合わせによればそう

いうことはするだろう。その時、人は生存しようという衝動

を越えている。そしてそれは、わずかな例外を除いて人間だ

けができること。ならばそこに人間の真価が有るのではない

か? 人間が「進化」するとしたら、それが普通の事のように

なることではないか?
 

 アタマは悪さをする。それ故に、人間は他の生き物が呆れ

かえるような差別や争いや破壊を繰り返す。けれど、その悪

いアタマが人類のカギを握っている。

 動物の「個体」が、人間の「個人」へ変わり、そして次の

変化が求められている。

 人間同士、人間と他の生き物、人間と環境。それらのもの

と一つである意識を持つ「融合体」のような存在になるこ

と。それは人間だけが持つ可能性だろう。その可能性が発揮

される望みは絶望的に低いとは思うけど・・・。


 「死」を捉え直し、「死」の恐怖を払拭できれば、人はあ

らゆるものと仲良くなれる。人自身もしあわせを生きること

ができる。

 そろそろ「進化」したいね。



 
 

2022年1月3日月曜日

生きて花実が咲くものか?  コロナ ㉙



 この前、ワクチンのことや自粛や規制のことを考えてい

て、「雑草が生えるのを嫌って除草剤を撒くようなものだ

な」と思った。

 除草剤を撒いて一時抑えられても、また草は生える。それ

が嫌な人はコンクリートで固めてしまったりするが、コロナ

に対して外国や日本でやっていることの行き着く先は、社会

や人の暮らしをコンクリートで固めてしまうようなものだろ

うと思う。それで人々はしあわせになるのかい?

 地道に「草むしり」をする方がいいんじゃないか?それは

「指定感染症5類相当」にして、発症者の手当てにリソース

を集中するというようなことだけど・・・。


 コンクリートで固めてしまったら、確かに雑草は生えない

が、花も咲かない、実もならない。そこには「生」が無い。

 管理され切った社会には「生活」が無い。そこに暮らす人

間は、規格通りに動くだけ。少々生き長らえられるかもしれ

ないが、それは無機質な「生存」であって「生活」ではな

い。


 「死んで花実が咲くものか」という言い回しがあるけれ

ど、「生存」の為に規格通りの「生」を生きても、そこに花

実が咲くだろうか? 生き残るのは規格通りの「クローン」の

ような人間ではないだろうか?


 世界中の大多数の人間が、社会が奨励し要請する不合理を

受け入れている。管理されることで安心する。彼らは社会の

パーツに成り果てている。せっかく生まれて来たのにもった

いないことだ。それが定めであって、そういう役回りではあ

るのだろう。けれど、私はそんな役回りはゴメンだ(という

役回りらしい・・・)



 花を育てていると、必ず雑草(それぞれちゃんと名前があ

るけど)が生えてくる。私はあまり邪魔にならないものなら

そのままにしておくし、邪魔になるものは「ごめんよ」とい

いながら引っこ抜く。彼らがそこに生えてくるのは、そこが

彼らに適した場所だからであって、「邪魔をしてやろう」と

いうことではない。甘く見ていると、時にはこちらが生かし

たい植物が枯れてしまうこともあるが、彼らは、敵対し、戦

いを挑んでいるわけでもない。自然の成り行きで、必然的に

そこに生えてくるだけなので、別に彼らを憎んだりはしな

い。

 彼らを嫌ってコンクリートで固めてしまうなら、造花を置

くしかない。造花なら枯れないが、そんなバカバカしいこ

と・・・。


 安心安全の為に社会を管理して固めて、造花のような人間

が決まりきった台詞を口にして、マニュアル通りの笑顔を並

べて・・・、何が面白いのか? 誰がしあわせなのか?

 生きてみたくはないのだろうか?