2022年1月9日日曜日

病気かもしれないけれど



 このブログを始めて、今日で丸5年になる。

 なぜブログを始めようと思ったのかは全然分からない。そ

んなこと考えたことも無かったのに、5年前仕事を辞めてか

らすぐにそう思って始めてしまった。

 それからもう600回以上も口から出まかせを書き続けて

いる。われながら「すごいなぁ」と思う。良くも悪く

も・・・。


 これまで書いて来たことは、例えば本屋の “仏教” や “精神

世界” といった棚を物色すれば出会えるようなことで、私の

オリジナルな内容では無い。そんな既に存在している話をわ

ざわざ私のような人間が書くというのは、いわばムダなの

で、このブログが書かれる理由は、あくまでも私の都合によ

る。どんな都合か本人にもよく分からないけれど・・・。


 そのような、個人的で、他でも目にする機会がいくらでも

あるような話をして、何になるのか?

 僭越ながら、同じことを表現するのでも、いままでに無か

った、私でなければできない表現というものがあって、他の

人の表現ではピンと来なかったことが、私の言い回しで腑に

落ちるといったことがあるはずなのです。そこを拠り所にし

て、このブログを続けている。


 「書いたものは残る。いつ誰が読むかしれない」

 そしてこの口から出まかせが、誰かのちょっとした支えに

なるかもしれない。いや、なるはずなのです。

 ここに書かれていることの多くが、これまで私が支えられ

た話を私なりに消化して出て来たものです。つまり、私で実

証済みなのです。

 もちろん、こんな話は万人向けではない。一般向けじゃな

い。私は一般に入れない人に向けて書いている。「そういう

人の役に立て」と。


 もしかしたら、こんな話は、社会の落ちこぼれが「同病相

憐れむ」といった感じの、情けない自己満足かもしれない。

でも、たとえそうだとしても、それは結構大事なことです。

 世の中にはさまざまなコミュニティが有って、それぞれが

同じような価値観や感覚を持つ人たちの集まりで、極端に言

えば、“「同病相憐れむ」まとまり” がいろいろ有るというこ

と。自分とは全然違う趣味を持っている人たちを見て、「下

らない」とか「何が面白いのか」とか「意味が無い」とか思

ったりするのは、それが他人から見れば病気でしかないから

です。けれど人はそういうものを必要としている。

 宗教や娯楽や経済活動のように、何千万人、何億人という

規模になるものもあるけれど、いくら規模が大きくても病気

は病気です。「同病相憐れむ」です。それが世の中です。


 このブログは、そんな世の中の「病気」が嫌で、なんとか

それから逃れようとするあがきのようなものでしょう。世の

中の側から見れば、こっちが “病気” でしょうけど。


 こんな「同病相憐れむ」ような話を書いて、私が無意識に

目指しているものは、「相憐れむ」ことからの解放なのでし

ょう。

 人がそれぞれに「病気」であるのは、「独り」が怖ろしい

から。人がそれぞれに「独り」であることから逃れたいか

ら。その為に、本当は意味のないことを依り代にしてまで集

り、「独り」を無いことにする。「同病相憐れむ」。

 けれど「同病相憐れむ」ことが「病気」を存続させる。多

くの場合、増悪させる。

 それが人の事実だと思う。


 こんなブログを続けて、私なりに同病相憐れみながらも、

「独り」ということを捉え直したい。「独り」を怖れること

は大間違いなのだと。


 「独り」ということの真実を掴むことができたら、私たち

は「同病相憐れむ」のではなく。健全に集うことができるの

でしょう。


 こんな考え、病気かもしれないけど、しようがない。これ

がいまの私だから。

 病気でも、病気じゃなくても、これが私なら、私はこれを

生きるしかない。そして、それでいい。誰一人うなずいてく

れないとしても、私は私の「独り」を尊重する。なにしろ、

さしあたり、いま私はこの世界に生かされている。これほど

大きな承認はない。

 「独り」は世界によって支えられている。

 明日は知れないけれど、とにかく、いま、この時、この世

界にいるすべての「独り」は・・・。




 

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