2019年7月31日水曜日

一日中夢を見ている


 今朝は、あまり気分良くない夢を見つつ目が覚めた。

 そのまま、ぼ~っと考え事をしていて、ふと思った。「 

“夢を見る” と言うけれど、誰が見てるんだ?」。


 起きているとき、わたしたちはものを考え、「自分が考え

ている」と思う。「考えを見ている」などとは思わない。

 一方、寝ているときに夢を見るのも、脳が考えているのだ

が、「夢を考えている」とは言わない。夢は「見るもの」

だ。けれども、いったい誰が?

 見ているはずの当人は眠っていて、起きているときの思考

のように考えをコントロールしていないけれど、「見てい

る」という感覚を覚えるのだから、夢という思考活動を客観

視している “何か“ があるわけだ。それは “何” か?


 起きて考えているときは、考えを時系列や因果関係で整理

して話の筋立てをしているが、夢を見ているときは、思考の

断片が整理されることなく意識されるのでその内容は支離滅

裂になる。

 夢は整理されずに意識化されるので、“意識のコントロー

ル下にはない” という感覚があり、“自分のしていることで

はない” と感じるために「見る」という感覚になるのだろ

う。

 それに対し、起きているときの「思考」は、意識に浮かび

上がってくる情報を時系列・因果関係で整理してまとめられ

る。その “まとめる過程” を「考える」と言い、“自分がし

ている” と感じるので、それを「見る」とは言わないのだろ

う。

 そう考えると、「夢」も起きているときの「思考」も本質

的には変わらないものだ。違いは、まとめられているかどう

かということだけ。


 わたしたちは、自分の意志で「思い(情報)」を意識にの

ぼらせることはできない。

 「思い」が勝手に意識にのぼってくることは、「夢」でも

「思考」でも変わらない。

 ただ、起きているときは、勝手に涌いている「思い」を必

死になってコントロールして  コントロールしているつも

りなだけですが  まとめるので、それが勝手に涌いてきて

いることを意識しづらい。だから「自分が考えている」と思

うのだが、実質的には「白昼夢をまとめる過程」を “見てい

る” のだ。
 

 「夢」も「思考」も、どちらもわたしたちの〈意識〉が

「見ている」脳の活動で、〈意識〉というものは「夢」や

「思考」とはちがうところに在るものらしい。

 とはいえ、麻酔をかけられると〈意識〉はなくなるので、

〈意識〉もほぼ脳の中にあるらしいが、その在り方は「夢」

や「思考」とはちがう。このことは「麻酔がなぜ効くのか、

その仕組みは分かっていない」ということとも関係がありそ

うだが、それは私の手におえる話ではない(「それ」だけで

はないが・・・)。


 話が少しそれた。

 ことほど左様に「思考」といものは安定しない。当然なが

ら「思考」には台本も原稿も無いので、わたしたちは次の瞬

間に何を考えるのか分からない。普段のわたしたちの会話を

考えても、目や耳から入ってくる情報によって、話はどんど

ん移ろってゆく。その移ろいを必死になってまとめているの

で気にしていないが、もしも一日の会話をすべて記録してお

いて、そのテーマを細かく書き上げたら、その脈絡のなさは

「夢」と変わらないことだろう。「思考」というものは “コ

ントロールしているつもりの「夢」” なのだ。


 結局のところ、人は昼も夜も「夢」を見ている。それを見

ている〈意識〉とは何か? それはどこに在るのか?

 それについては以前書いたブログを見てもらいましょう。

あんな面倒なこと、もう書く気になれませんからね。(『意

識について』2018/8)



2019年7月28日日曜日

“そう” だから、“そう” なのだ



 前回、『京都のオシッコ』という話の最後に、「次回は

『変』がテーマになるようです」と書いたので、今回は

『変』について・・・。

 と、思ったんですが、考えてみたら、前に『 “変” は普通

だ!』(2019/3)という話を書いていたのでした。だから

止めにします。



 最近パソコンを買い替えて、Windows7から10にしたの

ですが、デジタル弱者なものでデータの引っ越しやらいろん

な設定に四苦八苦して、やっと昨日、一応の片がついた。

 こういった作業をしていていつも思うのは、「理科系の奴

に文章を書かせるんじゃねぇ!」ということですね。パソコ

ンの中やその周辺には、「これでも日本語か?」といった言

葉がゴロゴロしていて、理解不能。書いた奴だけが分かって

いて、読む方に分かってもらおうという意識が欠落して

る。


 今これを表示している画面の右側にも「パーマリンク」と

いう言葉が出ているけれど、意味が分からない。日本語にし

てくれないか。

 日本は ”おもてなしの国” なんだそうだが、「私ももてな

してくれよ」などと思う。


 パソコンやネット関係で分からないことがあったときに、

多くの人がネット検索して情報を得ようとするでしょうが、

「分かりやすく解説します」などという言葉に期待してサイ

トを開くと、専門用語が解説なしに並んでいてゲンナリし

しまう、ということを多くの人が何度も経験している事でし

ょう。


 人間というものは、自分が知ったことや出来るようになっ

たことについて、知らなかった時、出来なかった時のことを

忘れてしまうことが多い。

 「そんなこと当たり前だ」という態度で、出来ない人に接

し、時にはバカにしたりして、はなはだ不親切であることは

ごく普通ですよね。


 知らない人、出来ない人を冷遇したり、バカにしたりして

いいのなら、赤ん坊はみんな何も知らなくて、何も出来ない

んだから、すべての人間は生まれてきたらバカにされてしま

う・・・。


 「そーじゃないだろ」と思う。

 人はみんな出来損ないですが、赤ん坊はそれ以前の存在で

す。出来損ないどころか、無力です。そしてみんなそうだっ

たのです。


 謙虚になれよ。

 お互い様なんだから、親切にしろよ。

 人に敬意を払えよ。

 ちょっと何かが出来るようになっただけで、自分が価値あ

るものになったように思うんじゃないよ。

 出来なかった時の自分のように、いま出来ない人に親切に

してあげろよ。


 そんな風に言いたくなるのですが、こういう追及は “文章

力の無い理科系” に対して不親切な態度だなぁ・・・。親切

って難しいなぁ。


 何かが出来たり出来なかったり、人はそれぞれにそのよう

な自分を生きるしかありません。パソコンを買い替えただけ

で、二週間もジタバタしなければならないのはくたびれます

が、それはそれで面白いことでもありますし。他愛のない話

です。

 人を傷付けてしまったり、犯罪を犯してしまったりして苦

悩することになったりすることを思えば、日々の面倒は娯楽

のようなものです。


 世の中には娯楽のように犯罪を犯す人間もいますが、それ

もその人がそういう自分を生きているということであって、

その人はその時そう生きるしかないのです。表面上の意思と

か思いがあったとしても、その意思や思いによってそう生き

ているわけではない。そう思わされ、やむにやまれずそうあ

るだけです。


 ひとりひとりが、感じ、考え、動くことは、すべて世界の

状況の一つに過ぎない。誰かを責めても意味がない。自分が

誰かを責めるということも、自分がそういう状況にあってそ

うしているのであって、自分という主体が、誰かに働きかけ

ているのではない。責めている者と責められている者がある

という状況が現れているだけで、“自分” というものが何か

をしているのでも、 “誰か” が何かをされているのでもな

い。状況の中でそれぞれひとりひとりのエゴが右往左往して

いるだけだし、その「エゴの右往左往」も状況ですし・・。



 パソコンの言葉が分からないという話が、大げさな話にな

りましたけれど、「変更が適用されるのを待機しています」

などという表現をして人をイライラさせることと、ナイフで

刺したりミサイルを撃ち込んで人を殺したりすることに、本

質的な違いはないのです。

 わたしたちの心情としては天と地ほどの違いを感じること

ですが、どちらもある状況が展開しているというだけです。

こんなことを言うと怒る人がいっぱいいるでしょうがね。


 「そんな非情な考え方をして何の意味がある」などと思わ

れるかもしれませんが、いまの私はそう書かざるを得ない状

況なのでしょう。

 あえて人にとっての意味を考えるならば、「何が起きてい

ても、世界はその時そのような状況であるというだけであ

る」という世界の捉え方をできれば、わたしたちは状況に乱

されることを軽減し、少し落ち着きを保てるのではないでし

ょうか  それもまたそういう状況ということですが・・。


 「変」について書こうとし始めただけでしたが、何の算段

もなしにこういう展開になりました。状況がこうさせたので

すね。私には何故こうなるのか分かりませんし、これがどう

いう意味を持つのかも分かりません。本質的には無意味でし

ょうしね。

 ただ、人のひとりとして、この画面に表れている状況が、

別の場所でそこの状況にはまり込んで苦しんでいる人が、そ

こから心理的に抜け出す助けになればいいなと思います。

 逆に、こんなものを読んでしまったせいで、かえって自分

の生き方に不安定さを感じてしまう人もいるでしょうが、ま

ぁそれもそういう状況でしょうし、世界は自分の都合の為に

あるわけじゃないですからね。“自分” というもの自体

が、“(自分という)状況” であって、個別に存在している

わけじゃないですから、「そういうもんなんだな」と思えれ

ばそれで済んでしまいます。
 
 “そう” だから、“そう” なんです。


 しかし、理系の奴ら、ちょっとは考えて日本語に訳せよ

な。めんどくさ過ぎるぜ。






2019年7月25日木曜日

京都のオシッコ



 「梅雨明け」だそうです。

 神戸はさほど降らなかったけれど、まぁそこそこ梅雨らし

い「梅雨」だったような気がする。水は海から陸へ、そして

海へとぐるぐるぐるぐる巡り続けて、その中で人は一喜一

憂、悲喜こもごも右往左往する。みんな、ご苦労さん。


 関西にはこんな言葉がある。

 「大阪と神戸は、京都のオシッコを飲んでいる」

 よその人には分からないでしょうが、大阪と神戸の水道水

は、ほぼ淀川から取水されていて、その上流には京都があ

る。京都では下水を処理してから淀川に流すので、私たちは

実際に京都のオシッコを飲んでいるわけです。


 あなたが京都へ旅行して用を足すと、そのオシッコの水分

子の二三個ぐらいは私の口に入るかもしれません。


 満員電車に乗ると、イケメンや美人の汗が蒸発してあなた

の鼻や口から取り込まれる。同時に、オヤジの靴の中から蒸

発した汗も・・・。

 世の中には “潔癖症” の人も沢山いますが、これを読んだ

ら明日から引きこもりになるかもしれないね。


 「ヤなこと言うなよ」と思われたかもしれませんが、水と

いうものはそういう風に世界を巡っているもので、例え

「○○の天然水」であっても、同じことです。

 京都のオシッコは海へと流れ、海から蒸発して雨となって

「○○」に降り注ぎ、地下水となってから取水され、ボトル

に詰められてコンビニに並ぶ。「天然水」ってどういう意味

なんだろうか? (などと、とぼけてみる)


 ことほど左様に世界はぐるぐる巡り。

 水に限らず何もかもがぐるぐる巡っている。地球上だけで

はなく、宇宙全体ですべてがぐるぐる巡っている。

 地質学的な時間をかけて巡る物もあるし、天文学的な時間

が必要な物もある。けれどぐるぐる巡ることは間違いない。

姿を変えながら。



 やっと本題に入れます。

 輪廻の話をするはめになったようです。

 「はめになった」と書いたのは、輪廻の話をしようと考え

ていたわけではなくて、「今日の話題は『輪廻』になったよ

うだ」と思っただけだからなんですね。

 なぜ話題が「輪廻」なのか? そうなった理由はさっぱり

分かりませんが、話題というものも、どこからか「輪廻」し

てくるのでしょう。


 では「輪廻」の話ですが、「輪廻」というのは「時間」と

いうものを置かなければ考えられません。「時間は流れるも

のだ」という前提に立たなければ「輪廻」という考え方は成

立しないわけなんですが、さて「時間は流れるもの」なので

しょうか?


 「時間の流れ」を見たことがありますか? 私はありませ

ん。たぶん、誰一人「時間の流れ」を見たことはないでしょ

う。「時間」は流れません。

 私のイメージでは、宇宙の始まりから終わりまでの、全宇

宙の瞬間瞬間のすべては、重層的に存在し続けている。

 理解していただけるでしょうか?


 今、あなたと私は生きています。

 お互いに、それぞれの年数を生きて来ていますが、今まで

生きてきた自分と、自分が存在していた世界はもう何処にも

ありません。ただ単に私たちが、「記憶」という、 “過去を

生み出すツール” を使って、それらを有ったことにしている

だけです。実のところ、私やあなたは、本当に今まで生きて

来ていたのでしょうか? それを証明するすべはありませ

ん。というよりも、証明できようができまいが、これまで生

きてきたことが本当であろうがなかろうが、一切の過去はも

うありません。それと同時に、一切の未来もモチロンありま

せん。

 と同時に、私はこうも考えます。

 「無限の過去と、無限の未来」としてわたしたちが意識す

るものは、常に、永遠に存在していて、その一瞬々々の位相

毎のそれぞれの自分が、「今」を感じている。


 2019年7月26日午後10時3分の私と、2018年7

月26日午後10時3分の私は常に、永遠に存在していて、

それぞれに「今」だと思っている・・・。


 といったように私は「時間」を捉えていますが、「それが

何だ」という話でもあります。まぁ暇つぶしですね。

 そんなことを考えても何も変わらないと思われるでしょう

が、でもこういう「時間」のイメージを持つと、今ここに自

分が居る事や、空に月が輝いている事や、外から虫の声が聞

こえる事などの、「今、在る」という事のなんとも不可思議

な感覚が、より強烈になるように思います。それと同時に、

“「永遠」というものが、「今、ここ」にある” 、という感

覚も持ちます。


 1年前の私は、「今も」1年前の「そこ」にいる・・・。

 これは決して、変な話ではありません。だって、1年前の

私が、1年前の「そこ」にいるのは当然ですからね。「そ

こ」にしかいられませんから。

 そして、1年後の私は、1年後の「そこ」にいる(生きて

いればですが)。


 自分で書きながら、少し頭がクラクラしてきました。

 こういうことを考えると、からだに良くないような良いよ

うな・・・。


 「輪廻」の話でした。


 生まれ変わることは無いですね。

 もうすでに、初めっから終わりまで、すべては生まれてい

ます。

 ある人間が別の人間に生まれ変わったというシチュエーシ

ョンが実際にあったとしたって、「それはそういうこと」だ

というだけで、それで宇宙の在り方が変わるわけではないで

しょう。そういう風になっているだけのことです。


 私が誰かに生まれ変わったとしても、それが大事な事とは

思えない。生まれ変わったら、それは “その人” で、私じゃ

い。「輪廻」なんてことを考えるのは、自分の存続を望む

ゴの悪あがきでしょう。




 京都のオシッコが私の涙になったとしても、そのことに特

に意味は無い。

 大事なことは、「オシッコが出来る」、「涙が流せる」と

いう事の方でしょう。

 一喜一憂、悲喜こもごも 、何が何だか分からないまま、

すべてのものがなりゆき任せの存在ですが、今、あなたと私

は生きている。

 宇宙が生まれてから終わるまでのすべての場所とすべての

瞬間に、無限の「今、ここ」がある。

 それはカオス。

 一にして全。

 私たちの脳が、時間という感覚・概念を生んでしまわなけ

れば、すべてが、今、この瞬間にある。「輪廻」など出る幕

は無い。全部が一つなんだから。


「今、ここ」をしみじみと味わえば、「今、ここ」には完

全なやすらぎと永遠がある。(こんなことを考えるのも、や

っぱりエゴの悪あがきかもしれないけどね)


 「梅雨明け」から「京都のオシッコ」へと転んで、「永

遠」までたどり着くんだから、人間のアタマって、ホントに

変なもんだなぁ。


 「変なのはおまえだけだ」って?

 かもしれない。けど、「変」って大事ですよ。

 ということで、次回の話は「変」になるようです。







2019年7月22日月曜日

いつからそんなに偉なったんや・・・



 宮迫と亮の(愛着ゆえの呼び捨てです)会見は、見るとい

たたまれない気持ちになりそうなので、見ずにおこうと思っ

ていたのだが、テレビを見ていると、どのチャンネルでも、

何度も流れるもんだから、結局見てしまった。


 「道義的には問題がある」といえば、まぁそうなのだろう

けれど、自分のしたことが大きな問題になりそうだと思った

ときに、つい嘘をついてしまった気の弱い男が二人、あそこ

まで追い詰められるなんて、吉本興業の対応がどうこう以前

に、この世の中はいったい何という世の中なのだ。日本人

の 90% 以上は、嘘などついたことのない、間違いを犯した

ことのない、品行方正で完全無欠な存在だとでもいうの

か? 私なんぞには、あの二人を批判する資格は無いが、ほ

とんどの日本人にはその資格があるのだろうな。私にはどの

人間も出来損ないにしか見えないがね。


 このたびの報道でずっと気になっていることがある。

 くだんの芸人たちが、犯罪がらみの “汚れた金” を受け取

ったことが問題だというわけだが、吉本の劇場には、犯罪で

手に入れた金を払って新喜劇を観に来る者もいるだろう。暴

力団の幹部たちは高級外車に乗るが、その車を売ったディー

ラーは犯罪で手に入れた金を受け取るのだろう。暴力団の組

長は豪邸に住んでいることだろうが、その家を建てた建設会

社は暴力団の組長の家と知りつつ家を建て、“汚れた金” を

受け取るのだろう。

 詐欺で手に入れた金で、ロレックスや高級ブランドのスー

ツを買う者も多いだろうが、それを売るデパートは知ってか

知らずか “汚れた金” を受け取る。

 さらに、暴力団の組長は当然ながら豪邸の固定資産税を納

める。納めておかないと面倒なことになるのは目に見えてい

るので、きっと真面目に納めているはずだ。

 さらにさらに、すべての犯罪者・反社会的勢力の構成員

は、スーパー・コンビニ・レストラン・映画館・飛行機・高

速道路などなどなど、ありとあらゆるところで “汚れた金” 

を使い、消費税も払う。

 そうして税金として納められた “汚れた金” は、福祉や教

育やあらゆるところに使われ、わたしたち国民はそのサービ

スを受ける。もちろん、警察の運営にも使われる。


 そのように、日本で流れている金は、すべて “汚れた金” 

に汚染されているのだが、それを、物を売った対価やそこか

ら得る給料や行政サービスとして受け取っている私たちも、

記者会見して謝罪しなければならないのではないか?


 極端なことを言っているのは承知している。けれど、いっ

たいどこで線引きをするのか? どのラインなら「汚れてい

ない」と言えるのか?

 少なくとも、暴力団の組長に車を売ったり、家を建てたり

する会社は、宮迫や亮のように謝罪しなければならないこと

になるだろうと思うが・・・。


 社会というものは汚れた部分を持っているものです。

 その中で生活し、仕事をし、暮らしていると、汚れた部分

と一切かかわらずに生きてゆくことは不可能に近い。それを

認識できるかどうか、表ざたになるかどうかは別にし

て・・。
 

 分かった上で犯罪を犯したり、加担したり、協力したり、

人を傷つけたりしたのでなければ、「ごめんなさい」の一言

で大目に見てあげろよ。

 ちょっと嘘をついてしまっても、それは弱さの表れなんだ

から、「次はダメだよ!」ぐらいで、許してあげろよ。お互

いに人間という出来損ないなんだから。

 などと、思う。


 少なくとも私には、あの二人や同じような立場の人間を責

める資格は無い。

 前にも書いたが、姦通の罪で処刑されようとしている女を

イエスが救う話がある。

 イエスは人々に言う。

 「あなた方の中で罪のない無い者から、この女に石を投げ

なさい」

 そう言われると、集まった人々は皆、去って行っ

た・・・。


 松ちゃんが、吉本の社長に対して「いつからそんなに偉な

ったんや・・・」とコメントしたが、なんだかんだとすぐに

人を批判する連中は「いつからそんなに偉なったんや」。
 

 イエスがもう少し意地悪だったらこう言ったかもしれな

い。

 「まず自分に石を投げなさい」




 「自分は善」

 「自分は正しい」

 そう信じている人間ほど恐ろしいものはない。


 あ~あ、気が滅入っちゃった・・・。

 だから、あの会見は見たくなかったんだ・・・。






2019年7月19日金曜日

「許せない!」か・・・。“「京アニ」放火事件” で引っかかったこと。



 昨日、京都アニメのスタジオ放火事件が起きた。酷すぎ

て、事件そのものについては何も言うことが無い。


 誰もが酷いと感じるのは、その犠牲の多さによるわけだけ

れど、被害者となったひとりひとりと、その家族・友人にと

っては人数の問題じゃない。人数の多さに、切実に「酷い」

と感じるのは、仕事の関係者だろう。みんなの事を知ってい

るのだから・・・。

 それに対して、私のような第三者が「酷い」と感じるの

も、ごく自然な感情だけれど、そこには切実さというより

も、ワイドショー的に自己完結するような、むなくその悪い

いやらしさが潜んでいる気がする・・・。だから、当事者で

はない私のような者は、「お悔やみを・・・」という型通り

の言葉を述べて口をつぐむ方が、かえって誠実なのではない

だろうか。

 なので、被害に遭った人たちにも、火をつけた男に対して

も、私に言う言葉は無い。にもかかわらずこの事件にふれる

のは、「許せない!」という言葉が引っかかってしまったか

ら。


 Twitter やテレビで、この犯人に対して「許せない!」と

いう発言をする人が沢山いる。なぜ第三者の個人がわざわざ

「許せない!」などと言わなくてはならないのだろう? 何

のために「許せない!」などと言うのだろう?

 このような事をした人間を許す社会など存在しない。

 このような人間は、社会が、司法が罰する。

 第三者の個人が「許せない!」と言って、それでどうしよ

うというのだ? 
 

 当人を怒鳴りつけに行くのか? 殴りに行くのか? それと

も殺しに行くのか?

 日本では「私刑」は禁じられている。

 「許せない!」とは、“何” なのか?

 “何” が、そう言わせるのか?

 私はそこに、何やら看過出来ないものを感じる。


 今回の犯人は、たぶん「関係妄想」や「被害妄想」に囚わ

れてあんな事をしたのだろうと思うが、凶行に及ぶ前に、

「京アニは、許せない!」と思ったに違いない。

 そこに妄想が有ろうが無かろうが、社会的善であろうが悪

であろうが、「許せない!」という感情なり衝動なりは、

Twitterでコメントされる「許せない!」と同じものだ。


 あの男のアタマの中では、京アニは「悪」であり、「許せ

ない!」存在であったのだろうが、「悪である」という想念

で止まっていれば、このたびの犯行は起こさなかっただろ

う。そこに「許せない!」という感情が湧き出したことが、

あの凶行に繋がったと思う。

 「許せない!」とか「許さない!」とかいう言葉は、恐ろ

しいものを秘めている言葉ですよ。どのような文脈であれ、

よく吟味せずに言葉にするべきではないと思う。ましてや第

三者が軽々に口にすべきではない。


 勘違いされては困るので言っておきますが、私はあの犯人

を許せと言うのではない。

 あの犯人は司法が裁く。第三者は、黙っているべきだろう

と思うだけです。

 裁判になれば、あの犯人には「死刑」の判決が下されるだ

ろうが、私はそれに異論は無い(「死刑」で済む話でもない

のだが・・・)。ただ、「許せない!」という言葉が飛び交

うのを見ていると思ってしまう。“「許せない!」と言って

るあなたの中には、あの犯人と同じものが潜んでいるよ” 

と・・・。それが気持ち悪いのです。


 「許せない!」

 この言葉は、誰もがしっかりと意識して、自身の中で吟味

して、その上で、出来るだけ一生使わないようにすべき言葉

はないだろうか・・・。


 犠牲になった方、被害に遭った方、ご家族、仕事の関係者

の方・・・。本当に気の毒で言葉も無い。こんなとこで私が

言ってもしょうがないのだけれど、言わずにおれない。

 「お悔やみを・・・」


 今、ため息が出ました・・。生きるのは苦しいね・・・。








2019年7月17日水曜日

欲望の価値論



 二三日前に、NHK で『欲望の貨幣論』という番組を見

た。

 以前からやっている『欲望の資本主義』というシリーズの

特別編ということで、「経済に飲み込まれたわたしたちの社

会と、わたしたちの生きるこの世界はどうなってゆくのか」

ということがシリーズのテーマであり、今回は貨幣を軸にそ

れを考えるという企画。


 メンドクサイので詳しい内容には触れませんが、見ていて

気になったことがあった。

 経済学者や哲学者などが何人か登場して、「経済とは?」

「貨幣とは?」といったことについて持論を述べ、さらに

「より良く生きるためには、これから先、経済とどう付き合

うべきか?」などをさぐるわけですが、その中に何度も出て

きた言葉が「価値」だった。


 ざっくり言うと、「今までとは違う、”新しい価値” を見

出さなければ、人類は地球環境もろとも資本主義経済に食い

潰されてしまいかねない・・・」といった話なんですが、話

を聞いていて、「価値かぁ・・・。新しかろうがどうだろう

が、“価値” を求める限り同じ轍を踏むんじゃないの?」と

思ったんですね。

 それが “健康” であれ” 、“平和” であれ、“教養” であ

れ、はたまた “愛” であれ、何かが社会の “価値基準” とし

て支配的になると、人は視野狭窄を起こしてしまうんじゃな

いだろうか? 要するに、「こうでなければならない」、

「こうあるべきだ」という固定観念に囚われて、結果的にゆ

とりを無くしてしまうと思う。“価値” に縛られ、「遊

び」  自由さ・テキトーさ  が無くなってしまうだろ

う。そして硬直化して行き詰まる。


 “価値” というものは、わたしたち人間の意識の中にしか

存在しないものです。どのようなものであれ、“価値” とい

うものは「作り事」で「お約束」であり、人間の社会以外で

は意味を持たない。それどころか、わたしたちが本来適応す

べきである「自然」との間で、夾雑物となるものです。人間

に無駄なエネルギーを使わせるものです。


 その “価値” の作り事度合いが手の込んだものであればあ

るほど、自然との乖離は酷くなり、エネルギーの無駄使いも

激しくなる。

 人は自然との親和性を失って、身体的にも精神的にも、バ

ランスを取ることに大きなエネルギーを使わなければならな

くなってしまい、疲弊する。


 「新たな価値」を見出す努力なんて、しないほうがいい。

 人は “価値” を設定しなければ生きられないけれど、社会

に広く承認される「大きな価値」のようなものは、できれば

無い方がいいだろう。

 “価値” が有ろうが無かろうが、“価値” 以前にわたしたち

は存在している。けれど、“価値” に囚われているわたした

ちは、そのことを意識できない。最も意識すべきことなんだ

が・・・。


 “価値” なんてものは、個人レベルで各々バラバラに持っ

ている状態の方がいい。「お楽しみ」レベルで。

 “価値” が大きなまとまりになると、ロクなことにはなら

ない。なぜなら、“価値” が設定されると、必然的に “無価

値” あるいは “低価値” ・ “反価値” と見做されるものが生

まれてしまうから。それは貶められ、嫌われ、排除され、最

悪消去されることになってしまう。


 嫌悪・差別・搾取・格差といったものが、“価値” が設定

されると不可避的に生まれてしまうのだけれど、人は普通、

それが不可分なものだとは気付かない。

 「“価値” あるものは良いものだから、どんどん “価値” あ

るものを生み出せばよい」などと思っていて、同時に生まれ

てくるネガティブなものには目が向かない  ずっと後にな

って気付くことになるのがよくあるパターンですね。


 “価値” に「価値を置く」ことは決して賢いことではない

ということが一般常識になればいいのにと思うね。


 と、ここまで来ると、書いておかなければいけないことが

ある。


 こういう話を書くことは、そこに何がしかの “価値” を見

出しているからなので、話と行動が矛盾する。

 このブログはこんなことばっかりだけど、仕方がない。な

にせ『アタマが悪い』という話をアタマで考えているんだも

の。


 矛盾を抱え込みつつ生きるというのは、結構価値のあるこ

とだとは思うんですよ。「“価値” が確定しない」というと

ころがね。






2019年7月14日日曜日

「無我」とは



 “わたしは生きていない” という話を前回書いて、「これ

は存外、重要なことだぞ」と後で思った。


 仏教などの教えや逸話の中には、「無我」というように、

「自分というものは無い」という話がいくらでもあって、そ

れが根本的な教えとなっているけれど、「自分というものは

無い」と言われたって、「自分は、現にここにあるじゃない

か」と思ってしまう。

 「無我」なんて言われてもそんなの無理だ。死ぬまで「無

我」になんてなれない。

 けれど、「わたしは生きていない」という意識を持つこと

は可能だ。前回書いたように、「わたし」というものは身体

が生きていることの副産物であって、それに実態はないのだ

から、「わたし」というものは生きていない。それは事実で

す。


 「わたし」というものは、世界の中には存在していない。

 「わたし」という意識は、身体をコントロールして、世界

の中に「わたし」というものを存在させようと全精力を傾け

るけれど、それは永遠に徒労に終わる。「わたし」が実体を

持つことはない。

 この世界の中では、最初っから最後まで「わたし」は無

い。つまり、もともと「無我」なんだ。「無我」というの

は、そのことに気付くことなのだろう。「我を無くす」こと

ではなくて、「我は無い」ことに気付くことなんだろう。


 とはいえ、「我は無い」と言ったって「我」という意識は

消えない。けれど「我は生きていない」という意識で在る

らば、「我」が存在を示そうとする愚考と、「我」が身体に

行なわせる愚行に、強いブレーキを掛けるだろう。


 「わたし」とうものは、ただ「わたし」という意識のまま

で留まっていればそれでよくて、そのまま出しゃばらずに世

界を見守っていればよいのだ。それが、「わたし」にとって

も世界にとってもしあわせなのだ。


 「わたしは生きていない」。

 いや、「わたしは生きなくていい」。


 そう気付いて「わたし」の徒労を辞めさせることできれ

ば、「わたし」は穏やかでいられるのだろう。


 「わたし」が生きようとしないことが、「わたし」を生き

させることになるのだろう。意識の世界でね・・・。




2019年7月7日日曜日

わたしは生きていない



 わたしは生きていない。


 幽霊の話でしょうか?

  ある意味そうです。わたしは、肉体を持たない観念だけ

の存在なので、幽霊と言ってもいいでしょう。わたしは、幽

霊です。


 いったい何を話し始めたかというと、相も変わらずアタマ

の事です。

 このブログの中で「私」と漢字で書いた時は、それはこの

ブログを書いている私個人のことです。対して「わたし」と

ひらがなで書いた時は、それはひとりひとりそれぞれの持つ

セルフイメージとしてのわたしのことです。ですから「わた

しは生きていない」というのは、誰もの「わたし」は「生き

ていない」という意味です。


 「いやいや、あなたもわたしも生きているでしょうが」


 そう思われるでしょう。確かに私もあなたも生きています

が、生きているのは私やあなたの身体です。

 身体は自然の働きの一部を担うかたちで存在して、その働

きに沿って動き続けています。つまり、生きています。けれ

ど、「わたし」というのは身体から発生した観念にしかすぎ

ません。

 鳥が羽ばたくと「バタバタ」と音がしますが、「わたし」

という観念と、それが考えていると見做している「わたしの

思考」も、鳥の羽音のようなものです。わたしたち人間の身

体が働く時に起きてしまう現象でしかありません。「わた

し」に実体は無い。


 実際、実体は無いですよね。「わたしを出して見せてみ

ろ」と言われても、見せられるのは身体でしかないですし、

「わたしの思考」を語ったり文章にしたところで、それは音

や紙切れでしかありませんからね。

 わたしたちの「わたし」は、各々の身体に憑依した霊のよ

うなものです。

 身体に憑依し、その身体を思うように操ろうと必死になっ

ている浮かばれない霊と言えます。だからお坊さんは説教し

て、人々を成仏させようとするわけです。


 「成仏」というのは、「わたし」という観念(アタマ)に

憑りつかれて迷わされている身体が、観念から解放されるこ

とですが、わたしたちの「わたし」を消し去ることは出来な

いでしょう。「無我の境地」なんて、ほんの一瞬そうなれる

ことがあるというだけの話で、それがずっと続いたりすると

は思えません。人間が生きていると、必然的に「わたし」は

発生してしまいます。お釈迦さまだって、ずっと「無我の境

地」で在り続けていたわけではないと思います。


 お釈迦さまの境地は、 “「わたし」は幻であるという気付

きを、ひと時も失わずにいた” ということだっただろうと思

います。常に気付いている事で「わたし」と身体の間に緩衝

地帯が生まれる。その空間がいわゆる「空(くう)」や「浄

土」や「涅槃」であり、その「空」に在ることが「悟り」や

「往生」や「成仏」と言われるものであり、その「空」の味

わいが「安心(あんじん)」というものでしょう。


 「わたしと身体の緩衝地帯なんてあるのか?」と思われる

かも知れませんが、寝ていると「わたし」は発生しません

ね。寝ている時は誰も何の苦労もしていません。悩みも心配

もありません(悪夢を見ていれば別ですが)。お釈迦さま

は、ある意味、起きている時も寝ているような意識状態だっ

たといえるのではないでしょうか。“涅槃像” が寝ているの

は象徴的ですね。


 また、座禅をしている時もアタマは動き続けて、次から次

へと妄想を生み出してきますが、身体の方はただ座っている

だけで、アタマの妄想とは没交渉です。身体は取り合いませ

ん。取り合わずに座っていなければなりません。そういうこ

とを続けている内に、「わたし」と「わたしの思考」という

ものが、“身体の上位機能” というようなものではないこと

が、ハッキリしてくる。「わたし」は観念にすぎな

い・・・。


 点けっぱなしのテレビからワイドショーの大袈裟なお喋り

が聞こえていても、「ああ、またしようもないこと言ってる

な・・」と聞き流しているように、アタマが手前勝手なお喋

りを続けても「あっ、そう」とやり過ごす。今、生きている

身体の方に注意を払う。今、身体が生きていることを味わ

う・・・。それが、本当に「生きること」なんだろうと思

う。


 実態の無い「わたし」にばかり関わっていると、「生きて

いること」を味わい損ねる。つまり、人は生き損ねてしま

う。


 《 死んで生きよ、この神秘にふれない限り、

  いつでも人間はただ地上の悲しき客人にすぎない 》


 これはゲーテの言葉ですが、《 死んで生きよ 》というの

は、《「わたし」というものはそもそも生きていない 》と

いうことに気付くことだと思いますね。そして 《 地上の悲

しき客人 》というのは、「世界と一つ」になれず「世界と

の一体感」を持てないまま生きて行くということでしょう。


 《「わたし」は生きていない 》


 じゃぁ、今、ここに生きているのは何か?


 そっち側に心を寄せて行かなければ分からない。

 寄せて行かなければならない。

 本当に生きる為にはね。





2019年7月3日水曜日

イデオネラ・サカイエンシス登場!



 つい最近知ったのだが、2005年に大阪の堺にあるリサ

イクル工場から、PET 樹脂を食べる細菌が見つかっていた

そうだ。それがイデオネラ・サカイエンシス。


 いずれはそういう細菌が現れるだろうと思っていたし、そ

んなに遠い未来の事でもないだろうとも思っていた。なぜな

ら、これまでにタンカーからの重油流出事故の現場などで、

重油を分解する細菌は何種類も見つかっていたそうだし、細

菌の変異速度はとても早いので、プラスティックを食べる細

菌だって、すぐに出てくるだろうと思われたから。


 先日行われた G20 でも、海洋プラスティックゴミの問題

が議題になったりしたこともあって、十年以上の歳月の後

に、イデオネラ・サカイエンシスが注目を浴びることになっ

た。「プラスティックゴミ問題の解決に役立つのでは」と。


 この菌の研究者は、PET 樹脂のリサイクルに使えるので

はと考えているようです。

 PET を、サカイエンシスにエチレングリコールとテレフ

タル酸にまで分解させておいて、それを化学原料に使えば、

効率よくリサイクルができるのではないか、ということだそ

うだ。研究者は「ゴミ処理」なんてことは言っていない。


 賢明ですね。地に足の付いた、ちゃんとした学者さんたち

だなぁと思います。なぜなら、もしも、このサカイエンシス

の分解能と増殖力を高めることができて、それをゴミ処理に

使ったらどうなるか? PET 樹脂が分解されると、燃やすの

と同じように水と炭酸ガスになるわけですが、私の単純計算

では100トンの PET 樹脂を分解すると、218トンの 

CO2 が生成される(*)。CO2 は出さないようにしたいん

でしたよね? わたしたちは。

 ダメでしょ。


 ここからはヨタ話ですが、そのパワーアップしたサカイエ

ンシスが環境中に放たれたらどうなるか?それも、大気中で

も海水中でも同じように生きられるとしたら?

 これまで人類が作って来た PET 樹脂(ボトル・繊維・フ

ィルム・すでにゴミとなっているもの・など)のすべてが分

解されて、数十億トンの CO2 が  もっとかもしれな

  環境中に解き放たれることになる。温暖化促進に貢献

します。

 それならば、PET は燃やして、発電にでも使う方が賢い

ですよね。どうせ CO2 になるんだったらね。


 このサカイエンシスだけではなく、まだ見つかっていない

だけで、もうすでにプラスティックを分解する細菌はいろい

ろ存在していると思いますよ。PET 以外にポリスチレンや

ポリプロピレンや塩化ビニルや合成ゴムなどを分解する菌

が、それぞれにいるだろうと思いますね。(で、ここまでは

ヨタ話ですが、ここからは SF です)

 それらの菌が、キノコが木や枯葉を分解するようにプラス

ティックを分解し始めたら?

 その恐ろしさが分かります?

 こんなストーリーが考えられます。



 ある日、JAF の隊員が現場へ向かう車の中で話していた。

 「また、パンクか。この頃パンクが多いなぁ。そう思うだ

ろ? それも、バーストばっかりだ」

 「そうですねぇ。去年まではこんなに多くはなかったです

ねぇ。ホントに急に増えた感じですね。それも、春ごろか

ら」

 「この前、事務所でちょっと調べてみたら、東日本でパン

クが急増しているみたいだなぁ。何か理由がありそうだけ

ど・・・」


 同じころ、千葉県で大規模停電が発生して、東電のオペレ

ーションルームは大変な騒ぎになっていた。

 「原因は?」

 「複数のエリアで、配電線に損傷があったようですが、

まだ損傷の理由が分かっていません。いま、現地に職員が向

かっています」


 この時、東電職員は知る由もなかったが、東電管内の配電

線の被覆は怖ろしいほど劣化し、カラスが突っつくだけでポ

ロポロと砕けるような状態となっていたのだった。それも、

総延長800kmに渡って・・・。そして、その三日後、首都

圏全域が停電し、パニックが起こることや、半年後、世界の

三分の二の地域で電気が使えなくなり、現代文明が一気に崩

壊に向かうことなど、誰も想像すら出来ていなかった・・。



 とまぁ、こんなことをもう二十年ほど前から考えていて、

「誰かこのネタで映画を一本作ってくれないかなぁ」とか思

っていた。

 「脱プラスティック」なんて言っているけど、現在のよう

にプラスティックが安価に大量に使えなければ、現代文明は

維持できませんよ。みんながかなりの不便を受け入れれば、

半分ぐらいには出来るかもしれないけれど、まぁ、そんなこ

とほとんどの人は受け入れないだろうなぁ。


 「電気が使えなくなり、現代文明が一気に崩壊に向か

う・・・」

 プラスティックはさまざまな物に使われているわけです

が、現代文明にもっとも貢献しているプラスティックの特性

は、非常に優れた絶縁体であることです。

 さまざまな形・固さの素材を容易に作ることができるの

で、電線の被覆・電子部品の基盤・電気製品のキャビネット

等には無くてはならない。他の素材では代わりが効きませ

ん。プラスティックがあるからこそ、わたしたちは電気が使

えるのです。そのプラスティックが、細菌によって短期間で

劣化し始めたら・・・。さしあたり、19世紀へ逆戻りです

ね。


 もう一つ、プラスティックが大きな役割を担っているの

が、自動車のタイヤでしょうね。合成ゴムの耐久性が著しく

落ちたら、自動車に大きく依存している現代社会は終わりで

す。電気自動車も走れません。馬と荷車の出番です。


 恐ろしいでしょ?

 そんな細菌が本当に現れるのは一万年後か百万年後か知り

ませんが、いずれ必ず現れるはずです。もしかしたら、十年

後かも知れないし・・・。


 太古の昔、地球上に木が生えだした頃には木を分解できる

生物がいなかった。植物が創り出した、 “木” という新しい

物質を食べてエネルギーを作り出せる生き物が現れるには、

相当の年月が必要だったでしょう。だから、“木” は分解さ

れずに大量に残り続けて、膨大な量の石炭に姿を変えた。け

れども、プラスティックはそう永くは残れないでしょう。も

うすでにプラスティックを分解する菌がいるわけだし、プラ

スティックが生物界の食物連鎖に組み込まれるのに、何千万

年もかかるとは思えないね。
 

 「脱プラスティック」なんて言って、プラスティックを悪

者扱いするのもいいけれど、プラスティックが無ければ現代

文明は成り立たないんだから、少し感謝と敬意と畏怖を持つ

べきなんじゃなかろうか。「“プラスティックさん” ありが

とう。」ってね。


 悪いのはプラスティックじゃなくて、わたしたちのアタマ

なんだから。


 (*計算は間違ってるかも知れませんよ)