2019年7月25日木曜日

京都のオシッコ



 「梅雨明け」だそうです。

 神戸はさほど降らなかったけれど、まぁそこそこ梅雨らし

い「梅雨」だったような気がする。水は海から陸へ、そして

海へとぐるぐるぐるぐる巡り続けて、その中で人は一喜一

憂、悲喜こもごも右往左往する。みんな、ご苦労さん。


 関西にはこんな言葉がある。

 「大阪と神戸は、京都のオシッコを飲んでいる」

 よその人には分からないでしょうが、大阪と神戸の水道水

は、ほぼ淀川から取水されていて、その上流には京都があ

る。京都では下水を処理してから淀川に流すので、私たちは

実際に京都のオシッコを飲んでいるわけです。


 あなたが京都へ旅行して用を足すと、そのオシッコの水分

子の二三個ぐらいは私の口に入るかもしれません。


 満員電車に乗ると、イケメンや美人の汗が蒸発してあなた

の鼻や口から取り込まれる。同時に、オヤジの靴の中から蒸

発した汗も・・・。

 世の中には “潔癖症” の人も沢山いますが、これを読んだ

ら明日から引きこもりになるかもしれないね。


 「ヤなこと言うなよ」と思われたかもしれませんが、水と

いうものはそういう風に世界を巡っているもので、例え

「○○の天然水」であっても、同じことです。

 京都のオシッコは海へと流れ、海から蒸発して雨となって

「○○」に降り注ぎ、地下水となってから取水され、ボトル

に詰められてコンビニに並ぶ。「天然水」ってどういう意味

なんだろうか? (などと、とぼけてみる)


 ことほど左様に世界はぐるぐる巡り。

 水に限らず何もかもがぐるぐる巡っている。地球上だけで

はなく、宇宙全体ですべてがぐるぐる巡っている。

 地質学的な時間をかけて巡る物もあるし、天文学的な時間

が必要な物もある。けれどぐるぐる巡ることは間違いない。

姿を変えながら。



 やっと本題に入れます。

 輪廻の話をするはめになったようです。

 「はめになった」と書いたのは、輪廻の話をしようと考え

ていたわけではなくて、「今日の話題は『輪廻』になったよ

うだ」と思っただけだからなんですね。

 なぜ話題が「輪廻」なのか? そうなった理由はさっぱり

分かりませんが、話題というものも、どこからか「輪廻」し

てくるのでしょう。


 では「輪廻」の話ですが、「輪廻」というのは「時間」と

いうものを置かなければ考えられません。「時間は流れるも

のだ」という前提に立たなければ「輪廻」という考え方は成

立しないわけなんですが、さて「時間は流れるもの」なので

しょうか?


 「時間の流れ」を見たことがありますか? 私はありませ

ん。たぶん、誰一人「時間の流れ」を見たことはないでしょ

う。「時間」は流れません。

 私のイメージでは、宇宙の始まりから終わりまでの、全宇

宙の瞬間瞬間のすべては、重層的に存在し続けている。

 理解していただけるでしょうか?


 今、あなたと私は生きています。

 お互いに、それぞれの年数を生きて来ていますが、今まで

生きてきた自分と、自分が存在していた世界はもう何処にも

ありません。ただ単に私たちが、「記憶」という、 “過去を

生み出すツール” を使って、それらを有ったことにしている

だけです。実のところ、私やあなたは、本当に今まで生きて

来ていたのでしょうか? それを証明するすべはありませ

ん。というよりも、証明できようができまいが、これまで生

きてきたことが本当であろうがなかろうが、一切の過去はも

うありません。それと同時に、一切の未来もモチロンありま

せん。

 と同時に、私はこうも考えます。

 「無限の過去と、無限の未来」としてわたしたちが意識す

るものは、常に、永遠に存在していて、その一瞬々々の位相

毎のそれぞれの自分が、「今」を感じている。


 2019年7月26日午後10時3分の私と、2018年7

月26日午後10時3分の私は常に、永遠に存在していて、

それぞれに「今」だと思っている・・・。


 といったように私は「時間」を捉えていますが、「それが

何だ」という話でもあります。まぁ暇つぶしですね。

 そんなことを考えても何も変わらないと思われるでしょう

が、でもこういう「時間」のイメージを持つと、今ここに自

分が居る事や、空に月が輝いている事や、外から虫の声が聞

こえる事などの、「今、在る」という事のなんとも不可思議

な感覚が、より強烈になるように思います。それと同時に、

“「永遠」というものが、「今、ここ」にある” 、という感

覚も持ちます。


 1年前の私は、「今も」1年前の「そこ」にいる・・・。

 これは決して、変な話ではありません。だって、1年前の

私が、1年前の「そこ」にいるのは当然ですからね。「そ

こ」にしかいられませんから。

 そして、1年後の私は、1年後の「そこ」にいる(生きて

いればですが)。


 自分で書きながら、少し頭がクラクラしてきました。

 こういうことを考えると、からだに良くないような良いよ

うな・・・。


 「輪廻」の話でした。


 生まれ変わることは無いですね。

 もうすでに、初めっから終わりまで、すべては生まれてい

ます。

 ある人間が別の人間に生まれ変わったというシチュエーシ

ョンが実際にあったとしたって、「それはそういうこと」だ

というだけで、それで宇宙の在り方が変わるわけではないで

しょう。そういう風になっているだけのことです。


 私が誰かに生まれ変わったとしても、それが大事な事とは

思えない。生まれ変わったら、それは “その人” で、私じゃ

い。「輪廻」なんてことを考えるのは、自分の存続を望む

ゴの悪あがきでしょう。




 京都のオシッコが私の涙になったとしても、そのことに特

に意味は無い。

 大事なことは、「オシッコが出来る」、「涙が流せる」と

いう事の方でしょう。

 一喜一憂、悲喜こもごも 、何が何だか分からないまま、

すべてのものがなりゆき任せの存在ですが、今、あなたと私

は生きている。

 宇宙が生まれてから終わるまでのすべての場所とすべての

瞬間に、無限の「今、ここ」がある。

 それはカオス。

 一にして全。

 私たちの脳が、時間という感覚・概念を生んでしまわなけ

れば、すべてが、今、この瞬間にある。「輪廻」など出る幕

は無い。全部が一つなんだから。


「今、ここ」をしみじみと味わえば、「今、ここ」には完

全なやすらぎと永遠がある。(こんなことを考えるのも、や

っぱりエゴの悪あがきかもしれないけどね)


 「梅雨明け」から「京都のオシッコ」へと転んで、「永

遠」までたどり着くんだから、人間のアタマって、ホントに

変なもんだなぁ。


 「変なのはおまえだけだ」って?

 かもしれない。けど、「変」って大事ですよ。

 ということで、次回の話は「変」になるようです。







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