2019年7月17日水曜日

欲望の価値論



 二三日前に、NHK で『欲望の貨幣論』という番組を見

た。

 以前からやっている『欲望の資本主義』というシリーズの

特別編ということで、「経済に飲み込まれたわたしたちの社

会と、わたしたちの生きるこの世界はどうなってゆくのか」

ということがシリーズのテーマであり、今回は貨幣を軸にそ

れを考えるという企画。


 メンドクサイので詳しい内容には触れませんが、見ていて

気になったことがあった。

 経済学者や哲学者などが何人か登場して、「経済とは?」

「貨幣とは?」といったことについて持論を述べ、さらに

「より良く生きるためには、これから先、経済とどう付き合

うべきか?」などをさぐるわけですが、その中に何度も出て

きた言葉が「価値」だった。


 ざっくり言うと、「今までとは違う、”新しい価値” を見

出さなければ、人類は地球環境もろとも資本主義経済に食い

潰されてしまいかねない・・・」といった話なんですが、話

を聞いていて、「価値かぁ・・・。新しかろうがどうだろう

が、“価値” を求める限り同じ轍を踏むんじゃないの?」と

思ったんですね。

 それが “健康” であれ” 、“平和” であれ、“教養” であ

れ、はたまた “愛” であれ、何かが社会の “価値基準” とし

て支配的になると、人は視野狭窄を起こしてしまうんじゃな

いだろうか? 要するに、「こうでなければならない」、

「こうあるべきだ」という固定観念に囚われて、結果的にゆ

とりを無くしてしまうと思う。“価値” に縛られ、「遊

び」  自由さ・テキトーさ  が無くなってしまうだろ

う。そして硬直化して行き詰まる。


 “価値” というものは、わたしたち人間の意識の中にしか

存在しないものです。どのようなものであれ、“価値” とい

うものは「作り事」で「お約束」であり、人間の社会以外で

は意味を持たない。それどころか、わたしたちが本来適応す

べきである「自然」との間で、夾雑物となるものです。人間

に無駄なエネルギーを使わせるものです。


 その “価値” の作り事度合いが手の込んだものであればあ

るほど、自然との乖離は酷くなり、エネルギーの無駄使いも

激しくなる。

 人は自然との親和性を失って、身体的にも精神的にも、バ

ランスを取ることに大きなエネルギーを使わなければならな

くなってしまい、疲弊する。


 「新たな価値」を見出す努力なんて、しないほうがいい。

 人は “価値” を設定しなければ生きられないけれど、社会

に広く承認される「大きな価値」のようなものは、できれば

無い方がいいだろう。

 “価値” が有ろうが無かろうが、“価値” 以前にわたしたち

は存在している。けれど、“価値” に囚われているわたした

ちは、そのことを意識できない。最も意識すべきことなんだ

が・・・。


 “価値” なんてものは、個人レベルで各々バラバラに持っ

ている状態の方がいい。「お楽しみ」レベルで。

 “価値” が大きなまとまりになると、ロクなことにはなら

ない。なぜなら、“価値” が設定されると、必然的に “無価

値” あるいは “低価値” ・ “反価値” と見做されるものが生

まれてしまうから。それは貶められ、嫌われ、排除され、最

悪消去されることになってしまう。


 嫌悪・差別・搾取・格差といったものが、“価値” が設定

されると不可避的に生まれてしまうのだけれど、人は普通、

それが不可分なものだとは気付かない。

 「“価値” あるものは良いものだから、どんどん “価値” あ

るものを生み出せばよい」などと思っていて、同時に生まれ

てくるネガティブなものには目が向かない  ずっと後にな

って気付くことになるのがよくあるパターンですね。


 “価値” に「価値を置く」ことは決して賢いことではない

ということが一般常識になればいいのにと思うね。


 と、ここまで来ると、書いておかなければいけないことが

ある。


 こういう話を書くことは、そこに何がしかの “価値” を見

出しているからなので、話と行動が矛盾する。

 このブログはこんなことばっかりだけど、仕方がない。な

にせ『アタマが悪い』という話をアタマで考えているんだも

の。


 矛盾を抱え込みつつ生きるというのは、結構価値のあるこ

とだとは思うんですよ。「“価値” が確定しない」というと

ころがね。






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