2019年7月14日日曜日

「無我」とは



 “わたしは生きていない” という話を前回書いて、「これ

は存外、重要なことだぞ」と後で思った。


 仏教などの教えや逸話の中には、「無我」というように、

「自分というものは無い」という話がいくらでもあって、そ

れが根本的な教えとなっているけれど、「自分というものは

無い」と言われたって、「自分は、現にここにあるじゃない

か」と思ってしまう。

 「無我」なんて言われてもそんなの無理だ。死ぬまで「無

我」になんてなれない。

 けれど、「わたしは生きていない」という意識を持つこと

は可能だ。前回書いたように、「わたし」というものは身体

が生きていることの副産物であって、それに実態はないのだ

から、「わたし」というものは生きていない。それは事実で

す。


 「わたし」というものは、世界の中には存在していない。

 「わたし」という意識は、身体をコントロールして、世界

の中に「わたし」というものを存在させようと全精力を傾け

るけれど、それは永遠に徒労に終わる。「わたし」が実体を

持つことはない。

 この世界の中では、最初っから最後まで「わたし」は無

い。つまり、もともと「無我」なんだ。「無我」というの

は、そのことに気付くことなのだろう。「我を無くす」こと

ではなくて、「我は無い」ことに気付くことなんだろう。


 とはいえ、「我は無い」と言ったって「我」という意識は

消えない。けれど「我は生きていない」という意識で在る

らば、「我」が存在を示そうとする愚考と、「我」が身体に

行なわせる愚行に、強いブレーキを掛けるだろう。


 「わたし」とうものは、ただ「わたし」という意識のまま

で留まっていればそれでよくて、そのまま出しゃばらずに世

界を見守っていればよいのだ。それが、「わたし」にとって

も世界にとってもしあわせなのだ。


 「わたしは生きていない」。

 いや、「わたしは生きなくていい」。


 そう気付いて「わたし」の徒労を辞めさせることできれ

ば、「わたし」は穏やかでいられるのだろう。


 「わたし」が生きようとしないことが、「わたし」を生き

させることになるのだろう。意識の世界でね・・・。




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