2019年7月7日日曜日

わたしは生きていない



 わたしは生きていない。


 幽霊の話でしょうか?

  ある意味そうです。わたしは、肉体を持たない観念だけ

の存在なので、幽霊と言ってもいいでしょう。わたしは、幽

霊です。


 いったい何を話し始めたかというと、相も変わらずアタマ

の事です。

 このブログの中で「私」と漢字で書いた時は、それはこの

ブログを書いている私個人のことです。対して「わたし」と

ひらがなで書いた時は、それはひとりひとりそれぞれの持つ

セルフイメージとしてのわたしのことです。ですから「わた

しは生きていない」というのは、誰もの「わたし」は「生き

ていない」という意味です。


 「いやいや、あなたもわたしも生きているでしょうが」


 そう思われるでしょう。確かに私もあなたも生きています

が、生きているのは私やあなたの身体です。

 身体は自然の働きの一部を担うかたちで存在して、その働

きに沿って動き続けています。つまり、生きています。けれ

ど、「わたし」というのは身体から発生した観念にしかすぎ

ません。

 鳥が羽ばたくと「バタバタ」と音がしますが、「わたし」

という観念と、それが考えていると見做している「わたしの

思考」も、鳥の羽音のようなものです。わたしたち人間の身

体が働く時に起きてしまう現象でしかありません。「わた

し」に実体は無い。


 実際、実体は無いですよね。「わたしを出して見せてみ

ろ」と言われても、見せられるのは身体でしかないですし、

「わたしの思考」を語ったり文章にしたところで、それは音

や紙切れでしかありませんからね。

 わたしたちの「わたし」は、各々の身体に憑依した霊のよ

うなものです。

 身体に憑依し、その身体を思うように操ろうと必死になっ

ている浮かばれない霊と言えます。だからお坊さんは説教し

て、人々を成仏させようとするわけです。


 「成仏」というのは、「わたし」という観念(アタマ)に

憑りつかれて迷わされている身体が、観念から解放されるこ

とですが、わたしたちの「わたし」を消し去ることは出来な

いでしょう。「無我の境地」なんて、ほんの一瞬そうなれる

ことがあるというだけの話で、それがずっと続いたりすると

は思えません。人間が生きていると、必然的に「わたし」は

発生してしまいます。お釈迦さまだって、ずっと「無我の境

地」で在り続けていたわけではないと思います。


 お釈迦さまの境地は、 “「わたし」は幻であるという気付

きを、ひと時も失わずにいた” ということだっただろうと思

います。常に気付いている事で「わたし」と身体の間に緩衝

地帯が生まれる。その空間がいわゆる「空(くう)」や「浄

土」や「涅槃」であり、その「空」に在ることが「悟り」や

「往生」や「成仏」と言われるものであり、その「空」の味

わいが「安心(あんじん)」というものでしょう。


 「わたしと身体の緩衝地帯なんてあるのか?」と思われる

かも知れませんが、寝ていると「わたし」は発生しません

ね。寝ている時は誰も何の苦労もしていません。悩みも心配

もありません(悪夢を見ていれば別ですが)。お釈迦さま

は、ある意味、起きている時も寝ているような意識状態だっ

たといえるのではないでしょうか。“涅槃像” が寝ているの

は象徴的ですね。


 また、座禅をしている時もアタマは動き続けて、次から次

へと妄想を生み出してきますが、身体の方はただ座っている

だけで、アタマの妄想とは没交渉です。身体は取り合いませ

ん。取り合わずに座っていなければなりません。そういうこ

とを続けている内に、「わたし」と「わたしの思考」という

ものが、“身体の上位機能” というようなものではないこと

が、ハッキリしてくる。「わたし」は観念にすぎな

い・・・。


 点けっぱなしのテレビからワイドショーの大袈裟なお喋り

が聞こえていても、「ああ、またしようもないこと言ってる

な・・」と聞き流しているように、アタマが手前勝手なお喋

りを続けても「あっ、そう」とやり過ごす。今、生きている

身体の方に注意を払う。今、身体が生きていることを味わ

う・・・。それが、本当に「生きること」なんだろうと思

う。


 実態の無い「わたし」にばかり関わっていると、「生きて

いること」を味わい損ねる。つまり、人は生き損ねてしま

う。


 《 死んで生きよ、この神秘にふれない限り、

  いつでも人間はただ地上の悲しき客人にすぎない 》


 これはゲーテの言葉ですが、《 死んで生きよ 》というの

は、《「わたし」というものはそもそも生きていない 》と

いうことに気付くことだと思いますね。そして 《 地上の悲

しき客人 》というのは、「世界と一つ」になれず「世界と

の一体感」を持てないまま生きて行くということでしょう。


 《「わたし」は生きていない 》


 じゃぁ、今、ここに生きているのは何か?


 そっち側に心を寄せて行かなければ分からない。

 寄せて行かなければならない。

 本当に生きる為にはね。





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