2019年7月31日水曜日

一日中夢を見ている


 今朝は、あまり気分良くない夢を見つつ目が覚めた。

 そのまま、ぼ~っと考え事をしていて、ふと思った。「 

“夢を見る” と言うけれど、誰が見てるんだ?」。


 起きているとき、わたしたちはものを考え、「自分が考え

ている」と思う。「考えを見ている」などとは思わない。

 一方、寝ているときに夢を見るのも、脳が考えているのだ

が、「夢を考えている」とは言わない。夢は「見るもの」

だ。けれども、いったい誰が?

 見ているはずの当人は眠っていて、起きているときの思考

のように考えをコントロールしていないけれど、「見てい

る」という感覚を覚えるのだから、夢という思考活動を客観

視している “何か“ があるわけだ。それは “何” か?


 起きて考えているときは、考えを時系列や因果関係で整理

して話の筋立てをしているが、夢を見ているときは、思考の

断片が整理されることなく意識されるのでその内容は支離滅

裂になる。

 夢は整理されずに意識化されるので、“意識のコントロー

ル下にはない” という感覚があり、“自分のしていることで

はない” と感じるために「見る」という感覚になるのだろ

う。

 それに対し、起きているときの「思考」は、意識に浮かび

上がってくる情報を時系列・因果関係で整理してまとめられ

る。その “まとめる過程” を「考える」と言い、“自分がし

ている” と感じるので、それを「見る」とは言わないのだろ

う。

 そう考えると、「夢」も起きているときの「思考」も本質

的には変わらないものだ。違いは、まとめられているかどう

かということだけ。


 わたしたちは、自分の意志で「思い(情報)」を意識にの

ぼらせることはできない。

 「思い」が勝手に意識にのぼってくることは、「夢」でも

「思考」でも変わらない。

 ただ、起きているときは、勝手に涌いている「思い」を必

死になってコントロールして  コントロールしているつも

りなだけですが  まとめるので、それが勝手に涌いてきて

いることを意識しづらい。だから「自分が考えている」と思

うのだが、実質的には「白昼夢をまとめる過程」を “見てい

る” のだ。
 

 「夢」も「思考」も、どちらもわたしたちの〈意識〉が

「見ている」脳の活動で、〈意識〉というものは「夢」や

「思考」とはちがうところに在るものらしい。

 とはいえ、麻酔をかけられると〈意識〉はなくなるので、

〈意識〉もほぼ脳の中にあるらしいが、その在り方は「夢」

や「思考」とはちがう。このことは「麻酔がなぜ効くのか、

その仕組みは分かっていない」ということとも関係がありそ

うだが、それは私の手におえる話ではない(「それ」だけで

はないが・・・)。


 話が少しそれた。

 ことほど左様に「思考」といものは安定しない。当然なが

ら「思考」には台本も原稿も無いので、わたしたちは次の瞬

間に何を考えるのか分からない。普段のわたしたちの会話を

考えても、目や耳から入ってくる情報によって、話はどんど

ん移ろってゆく。その移ろいを必死になってまとめているの

で気にしていないが、もしも一日の会話をすべて記録してお

いて、そのテーマを細かく書き上げたら、その脈絡のなさは

「夢」と変わらないことだろう。「思考」というものは “コ

ントロールしているつもりの「夢」” なのだ。


 結局のところ、人は昼も夜も「夢」を見ている。それを見

ている〈意識〉とは何か? それはどこに在るのか?

 それについては以前書いたブログを見てもらいましょう。

あんな面倒なこと、もう書く気になれませんからね。(『意

識について』2018/8)



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