2022年4月26日火曜日

命の自転 2



 前回の続きです。しかし、このブログではむやみやたらに

「死」という言葉が出て来る。書いている人はかなり異常な

のかもしれない。ほとんど「死」に憑りつかれているよう

だ。普通じゃない・・・と思われそうだけど、「死」に憑り

つかれているのは私に限ったことではない。普通一般に、人

は「死」に憑りつかれている。「死」の恐怖が、人のさまざ

まな活動の原点になっているのだから。


 人が働くのは、基本的に衣食住を得て生き延びる為だし、

健康に留意するのも生きのびる為。さまざまな宗教や文化が

生まれたのも、「死」の恐怖をごまかす為だ。人というの

は、暇だと自分の来し方行く末を考えてしまうものだ。そし

て、不安になる。その先には避けることのできない、得体の

知れない「死」が待っている・・・。だから、そんなことを

考えずに済むように、宗教や文化を生みだして、暇を潰し、

意識を「死」からそらしてきたのだ。

 だから、人はみんな「死」に憑りつかれていると言ってい

い。憑りつかれているからこそ、「死」の話題を避けるのに

懸命だ。You Tube などでは「死」という言葉を使うとトラ

ブルの元なので「タヒ」などという隠語が使われているけれ

ど、そこまで神経質に「死」という言葉を扱うほど「死」に

こだわっている。私なんぞよりはるかに異常だろう。「死」

と口にしたり書いたりすると誰か死ぬのだろうか?先端テク

ノロジーの中には、大昔からの「呪い」が生きているらし

い・・・。


 私がやたらに「死」と言うのは、その大昔からの「呪い」

にケリをつけたいからだ。「死」を表沙汰にして、陽に当て

て「呪い」を消してやりたい。


 いつとは知れないはるか昔、人は「呪い」にかかった。


 「死」「死」「死」・・・。

 「怖い」「怖い」「怖い」・・・。


 そして、その「呪い」は世代を越えて引き継がれ、「死」

を隠すことによって、かえって「呪い」のパワーは強まって

きた。

 科学と合理性が貴ばれる現代なのに、その得体の知れなさ

ゆえに「死」はかえって昔以上に怖れられ、その「呪い」の

パワーはさら増しているように思う。果たして「死」はそん

なに怖れるべきものなのか? 怖ろしいのは「死」ではなく

「呪い」の方ではないのだろうか?

「死を怖れよ」という「呪い」によって、人は「生」を台無

しにしてしまうのだから。


 朝が来て夜が来るように、わたしたちは生まれて死んでゆ

く。それは何の変哲もない当たり前の事。36億年も前か

ら、生きとし生けるものすべてがそれを繰り返してきた。な

のに人間だけがつまづいている・・・。何が「呪い」をかけ

たのか? 代わりばえのしない答えで恐縮ですが、それはアタ

マですね。わたしたちは自分で自分に「呪い」をかけた。


 自分というものを生みだしたが為に、「死」によって自分

が消え去るものであることを怖れるようになった。

 「死は怖い。死を避けよ」

 その言葉はアタマの中でループし続け、「呪い」の言葉と

なって人を支配することになり、長い長い年月が流れたいま

も、「呪い」は生きている・・・。


 もうそろそろやめにしよう。


 生まれて死ぬ、生まれて死ぬ、生まれて死ぬ・・・・・。

 そんな自転をしているわたしたちの周りには、地球の外に

宇宙が広がっているように、個人の「死」を包み込む広大な

〈死〉が広がっている。「生」を生み出す、命の母体として

の〈死〉が広がっている。そして、いままでにこの世に生ま

れた人たちは、ひとり残らずそこへ帰って行ったけれど、そ

のことで、この世界に何か異常でも起きたことがあるのだろ

うか? 


 「“不殺生” とのみ、心得よ」

 そういう言葉がある。仏教の “不殺生戒” のことです。


 殺すことはできない。死は無い。

 この世界は殺せない。この世界は死なない。

 もちろん個人は死ぬけれど、その個人とはアタマのこと

だ。世界の一部としての個体はその姿を変えて行くだけ。そ

の移り変わりの流れの中で、わたしたちのアタマだけが無意

味にもがいている。「怖い、怖い、怖い・・・」。怖がった

ところで何にもならないのに。


 自分や自分にとって重要な人の「死」を受け入れたとき、

「呪い」は解ける。そして、〈死〉に抱き止められる。

 意識は、命の自転から天空へと離れ(生きたまま!)、

〈死〉の側から世界を見つつ生きることになる。そして、も

う「死」の怖れは無い。だって〈死〉の側にいるんだもの。


 親鸞は「平生業成」と言った。生きているうちに成仏する

のだと。

 ゲーテは「死ぬことによって生きよ」と言った。


 それは無我とか煩悩を無くすとかいうことじゃなく、この

世界で「死ぬのは怖い」と右往左往しているエゴを〈死〉の

側から見る視点を、意識の中に持つこと。


 「ああ、今日もまた忙しそうに回ってるなぁ。自分もみん

なも・・・」


 そしてその自転が終わる時。それを眺めていた意識はその

ままそこに在ることだろう。だってすでにそっち側に来てた

んだから。すでに「自分」の意識ではないけどね。

(たぶん、ですけどね・・・)




 

2022年4月24日日曜日

命の自転



 今日のタイトルを見て「何のこと?」と思われることだろ

う。単に「生と死」を「昼と夜」になぞらえてみただけで

す。ただの思い付きで、特に深い意味はない。なので、別に 

“命の公転” でもいいのです。「夏と冬」に例えてもいい。ど

ちらにせよ、命は生まれてそして死んで行く。そしてまた、

あらたな生が動き始める。

 わたしたちは生まれて死んで行く。つまるところ、それだ

けのことです。身も蓋も無い言い草ですが、結局のところそ

れだけのことです。それだけのことなんだけど、世の中はそ

れでは済ませない。「生まれるのは大歓迎!」「死ぬのは、

あってはならないこと」だと・・・。朝が来れば必ず夜は来

るのにねぇ・・・。


 私のように、「人が死んでも悲しくない」なんていうよう

な異常者の言うことに、耳を貸す人はほとんどいない。いれ

ば、その人も異常者の可能性が強い。ちなみに「異常者」と

いうのは “常識とは異なる者” のことで、決して “アタマのお

かしい者” ということではない(アタマは悪さをするものだ

から、「アタマがおかしいことは良いこと」という可能性も

有る)。


 「死ぬのは、あってはならないこと」。その考えの方が異

常なのは間違いない。

 なぜ「死ぬのは、あってはならないこと」なのか? 生きて

いるものはみんな死ぬではないか? それは「夜が来るなんて

許せない!」と言っているようなものだろう。だったら自転

を止めるのか?そうなったら、 焼け付く昼の中で、人は干か

らびてしまう。人は、夜に逃げ込むことだろう。


 「生」は光で、「死」は闇。そういうイメージが人の世の

常識だ。けれど、そのイメージは、そもそも的を得たものな

のだろうか? 

 逆に「死」は光で、「生」は闇なのかもしれない。なにし

ろ、死んだ人が「死」の実態を語ってくれることは無いの

で、わたしたちは「生」と「死」を比較できない。「生」の

側から勝手に「死」に意味付けをして、「闇」だと思ってい

るというのが実際だ。一度、既成概念から離れて考えてみる

方がいいだろうと思う。本当に「死」は闇なのか? 釈迦は

「生きることは苦」だと言った。だったら「生」の方が闇か

もしれない。


 浄土宗では、死んだら西方浄土から阿弥陀仏が光に包まれ

ながら迎えに来る。悟りを得ることを「光明を得る」ともい

う。死んだら「仏さん」になると呼ばれるのがこの国なのだ

から、「死」は光明ということになる。逆にこの世での迷い

苦しみの日々を「無明長夜」という。「生」は闇だ。だか

ら、宗教や哲学や科学やお金に頼って、それぞれが「生」の

闇を乗り切ろうとしている。「生」が光の側だなんてとても

言えないだろう。


 とはいえ、さっきも書いたように、死んだ人が「死」を語

ってくれることは無い。私も「死」の実態を知らない。生ま

れる前は「死」の世界に居たはずだが、それは憶えていな

い。なので、既成概念から離れて考えてみると言ったところ

で、「死」の側のことが実際に分かるわけでもない。けれ

ど、同じ理由で、既成概念の「死」のイメージにも実際のこ

とは何も無い。「死」を闇とする理由も、本当は無い。

「死」については、何も分からない、誰も知らないというの

が正直な回答だ。

 けれど、わたしたちが「死」から生まれてくることは間違

いないだろう。以前書いたように(『死から生まれてきた』

2019/2)、生物の量に比べて、この世界の無生物の量は圧倒

的に多い。それを考えれば、「生」は物質現象の一つのパタ

ーンに過ぎないと言える。どう考えても、「死」の方が広く

大きい。


 私は何も「死」を礼賛しているのではない。ただ、フェア

に考えたいだけだ。

 殺人も自殺も無い方がいい。事故も無い方がいい。けれど

「死」に対する扱いはフェアじゃないと思う。「死」の側の

証人も弁護士もいないまま、欠席裁判は行われ続け、「死」

は有罪のままこれまで来た。それは、あまりに一方的じゃな

いか。もし冤罪なら、人は途轍もない損失をしているかもし

れないのだ。


 自分の大切な人を亡くすと、わたしたちは苦しむ。なんと

かその苦しみから逃れたいともがく。それが普通だし、誰も

それに異を唱えはしない。けれど、その「死のもたらす苦し

みから逃れたい」という思いは、見方を変えれば「死を受け

入れ、肯定できるようになりたい」ということだ。だけど、

それは難しい。その難しさの大きな理由の一つに、世の中の

識があるだろう。

 子供を亡くした人が、葬式でニコニコしていれば非難され

ることは避けられない。大切な人を亡くしたら、そのことに

打ちのめされなくてはいけないという社会常識が、人を闇に

押し込める。苦しむことを要請されるともいえる。その一方

で、先に書いたように、その苦しみから逃れたいという人の

思いに、異を唱える人はいない。ダブルスタンダードじゃな

いか。


 「まず苦しみなさい。それから妥当な期間を経て、そこか

ら出て来なさい」。世の中はそう言っているらしいし、誰も

がそういうものだと受け入れているらしい。それが数千年以

上も続いている・・・。もういいのではないか?


 「生」は光、「死」は闇。

 それは、アタマが生み出した、生きている側からの身びい

きのお話しだし、そのお話しはいたずらに人を苦しめる。愚

かにさせる。

 そんなお話しにいつまでもつき合う必要はない。

                   (次回へ続く)

 


2022年4月17日日曜日

満月と薄雲と羊文学



 昨夜、「寝よう」と思って枕もとのスタンドを消したら、

窓の外がやけに明るい。

 街灯の光のような感じはないので外を見てみると、ちょう

ど0時頃なので、天頂に満月が煌々と輝いている。さらに薄

雲がかかって、障子に陽がさしているように乱反射し、面発

光のような効果を生みだしていた。


 面発光というのは、光が広い面で乱反射して回り込み、強

い影を消してしまうことで全体的に明るく感じる現象のこと

を言う。

 薄雲のせいで光と影のコントラストが弱まり、 満月の直射

があれば暗くて見えない部分も見える。その分、明るい部分

のディテールはややぼやけるものの、全体的にはよく見える

ようになっていて、とても明るく見える。満月の夜は明るい

ものだが、こういう明るさは記憶に無い。なんだか不思議な

ものを見ている気になった。そして思う。光が強すぎると、

影の部分は見えない。弱い光がまんべんなく広がる方が、物

事の全体像が見える。

 わたしたちの物の見方も同じだろう。ある視点からの見方

が強くなるほど、裏側の部分はより見えなくなり、物の見え

方は一面的になる。そして、全体を見失い、愚かさは度合い

を増す。


 三週間ほど前に、“羊文学” というバンドを知って、結構ハ

マっている。

 まだ二十代前半の女二人、男一人のスリーピースバンドだ

が、いい音楽を演っている。ユニークだけど、キャッチーな

曲作りのツボを心得ていて、聴いていて気分がいいし、ハー

トに来る。で、なぜここで “羊文学” が出てくるのかという

と、彼らの曲に “あいまいでいいよ” という曲があるからだ。


 曲のサビの部分で「あいまいでいいよ・・ 本当のことは 

後回し」と歌われるのだけれど、それは、世の中や人間関係

に本当のことは無いということを彼らが感じているからでは

ないのだろうか?

 昨夜の満月の光のように、あいまいにしていることで、か

えって全体像がなんとなく見えて、穏やかさと落ち着きが訪

れるのだと・・。


 人や世の中に本当のことを求めたところで、それを知りつ

くすことはできないし、それにこだわることでかえってギク

シャクする。仮に本当のことを知ったところで、それが何な

のか? そんなことは後回しで、気分良く、仲良く過ごせばそ

れでいいんじゃないか?

 「あいまいでいいよ」という歌声は、《 正しいことがある

とすれば、仲良くすることだろう 》という私のハートには、

そうに響く。


 本当のことなどあるのだろうか?

 無いだろうね。


 何が本当で、何が偽りで、何が正しくて、何が誤り

で・・・、そんなことはわたしたちのアタマが自分の都合で

決めているに過ぎない。

 前に書いたことがあるけれど、「1+1=2」というの

も、“「1+1=2」ということにする” という約束の上での話

だ。その「約束」にがんじがらめになって、押しつぶされそ

うで、苦しんだり傷付け合ったりしているのが人間というも

のなのだから、本当のことや正しいことはあいまいにしてい

る方が賢明だ。


 「本当のことは 後回し」
 

 じゃぁ何を先にするか?

 「本当の “本当のこと”」だろう。

 それは何か?

 わたしたちは「気分のイイことがイイ」ということ。
 

 本当のことも、正しいことも後回し。いや、それは所詮、

お話し。

 しあわせになるのに理由はいらない。

 気分良くなるのに理由はいらない。

 いま気分良くすればいい。

 いましあわせになればいい。


 世の中のこと、アタマのお話しは、後回し。

 もしもみんながそうすれば、後回しどころか、世の中のこ

とは生きることの雑事になる。


 薄雲を透る月明かりのように、あいまいの方がイイ。
  
 「本当のことは後回し・・・」

 この世が終わってからでもイイんじゃないだろうか。

 いや、その時はじめて分かるのでは?



2022年4月10日日曜日

平和でいること



 春だなぁ。どこからともなく春の匂いが漂ってくる。

 今朝も家のそばでイソヒヨドリやカワラヒワがさえずって

いたけれど、穏やかで気持ちがいい。平和だなぁと心底感じ

る。遠くの国では戦争しているけれど、やっぱり他人事だ。

あちらはあちらのさだめ。こちらはこちらのさだめ。それぞ

れに “いま” を受け止めてゆく・・・。それでいいのではない

だろうか。それだけのことではないだろうか。


 東日本大震災が起き、原発が爆発した時、多くの外国人が

日本から逃げ出した。それはそれでいい。そりゃそうだろう

と思うから。良い時も悪い時も、人はそれぞれのさだめを、

それぞれの事情によって生きるだけのことだろう。そこに社

会的な “正解” のようなものが有るかのように振舞うのは、何

かが違うような気がする。物事がおかしな方へ行きそうな気

もする。


 『木を植えた男』というアニメをご存じだろうか? カナダ

のフレデリック・バックという作家による作品で、フランス

のジャン・ジオノという作家の原作によるものだ。

 「忘れえぬ実在の人について書いて欲しい」と頼まれたジ

オノが、プロバンスの広大な荒野に、たった一人で木を植え

続けて森を再生した農夫のことを書いたものだが、それに感

銘を受けたバックがアニメ化した。後に、その農夫は実在し

ていなかったことが分かったのだが、原作もアニメもそれが

事実かどうかを越えて、見た後に「良いものを見たな・・」

としみじみと思わせてくれる作品だ。


 舞台は1910年代から1940年代で、主人公の農夫 エルゼア

ール・ブッフィエ はたったひとりで荒地に住み、毎日一日

100粒のドングリを植え続ける。そして30年以上の歳月をか

け、森をよみがえらせる。

 その間には第一次世界大戦と第二次世界大戦も起き、せっ

かく育った森の一部が、戦争の為に伐採されるということも

起きたが、ブッフィエは戦争にはまったく関心を示さず(あ

るいは知りもせず)ただただ木を植え続けていた。彼はた

だ、誠実に自分のすべきこと、自分の暮らしを続けるだけだ

った。そしてそれは、結果的に多くの人々に喜びをもたらす

ことになった・・・。そんな物語。


 それで思い出すのが、『老子』の中の理想の国について語

ている部分。


 「それはごく小さな国で、人々は単純に穏やかに暮らし、

旅に出たりもせず、隣の国は犬や鶏の鳴き声が聞こえるほど

近いが、往来も無い・・・」


 さらに〈 君子、その想い、その位を出でず 〉という言葉な

ども思い出す。(こっちは孔子の言葉だけど)

 私は、この「位」は広い意味で、「立場」と捉えたほうが

よいと思っている。自分の分際、居場所。


 現代では、無関心であることは「良くないこと」と言われ

ることが多いだろうけれど、他者に関心を持つことが、かえ

って物事を乱す側面を持つことは否定できないだろう。


 随分前に、《 一人一人が平和になって、初めて社会が平和

になる 》と書いたことがあるけれど、『木を植えた男』のブ

ッフィエのように、ただただ、自分の居場所で自分のすべき

ことに誠実に生きている方が、世の中の為にもなるのではな

いか? その、ひとりの場所の、ひとりの平和が、いつか静か

に、ほんの少しは広がって行くのではないだろうか?


 これまで、社会が人に求めるような “正義” が、世の中を平

にしたことはない。

 少なくとも、私は知らない。


 人は、自分で自分を平和にするしかない。

 社会を平和にする義務などないし、それは出来ないことで

もある。


 作為を捨て、ただ、ひとりで平和でいること。


 それが 78億分の1 であるとしても、そこには確かに平和が

ある。

 それは世界への貢献ではなかろうか?




2022年4月7日木曜日

混沌の時代



 「混沌の時代」などという言葉を時々耳にする。確かに、

いま世の中は色々と混沌としているとは思う。

 物があふれ、人があふれ、情報があふれ、考えがあふれ、

誰もなかなかひと所に落ち着いていられない。面倒な話や、

ろくでもない話が毎日運ばれてきて、誰もが不安を掻き立て

られる。

 「ああ、嫌だ・・・」。誰もがそんな思いを持っているの

だろう・・・、けれど・・・、ほんとうの混沌は良いことか

もしれない。


 『荘子』の逸話の中でも有名な「混沌王」の話というのが

ありますね。(『荘子』の中では、“混沌” ではなく “渾沌” 

と書かれています)

 北の帝と南の帝が会う時に、中央の帝の混沌王に世話にな

った。北の帝と南の帝は、混沌王にお礼をしようと考えた。

混沌王はのっぺらぼうなので、人間のように二つの目、二つ

の耳、二つの鼻の孔、一つの口を付けてあげようと思い、一

日に一つずつ孔をあけてやったところ、七つ目の孔をあけた

ところで混沌王は死んでしまった。

 これは、認識ができるようになり、分別ができるようにな

ると「命」は消えてしまうということの寓意のようです。


 真実が見えない。大切なことが分からない。何が正しいの

か分からない。「混沌の時代」だからそうなのか?


 真実を見ようとするから混沌とするのでは?

 大切なことをつかもうとするから混沌とするのでは?

 正しいことを知ろうとするから混沌とするのでは?


 混沌王はのっぺらぼうです。「混沌」という名に反して、

その容貌は単純そのものです。北の帝と南の帝が、そこに分

別を持ち込んでしまったが為に、「混沌」は収拾のつかない

「無秩序」に変貌してしまい息絶えた。混沌を混沌のままに

しておけば、それは最も単純なのだと荘子は言っているので

しょう。それが、命というものの真の姿なのだと。


 現代は、あらゆるものを徹底的にコントロールしようとし

ている時代。それなのに「混沌の時代」と言われる。なぜ

か?

 コントロールする為に分別し、際限なく細分化して来たの

で、世界は手に負えなく複雑になってしまった。「手に負え

ない複雑さ」とは、「無秩序」のことでしょう?

 「混沌の時代」というより、真相は「無秩序の時代」なの

でしょう。一見コントロールされているように見えるけれ

ど、誰も行き着く先を知らないのだから・・・。「どこへ行

く気だよ・・・」と私は思ってるけど。


 理知で認識できない「命」を、混沌のままに受け入れる事

を嫌って分別したために、人は「無秩序」を生みだし、

「命」からはぐれてしまった。


 「七竅(しちきょう)穿(うが)たれて、混沌死す」


 「混沌」は、分別無しの “まるごと全部” のことであって、

無秩序のことではない。


 人は生きている限り、認識し分別をしなければしようがな

い。ただ、それが行き過ぎれば「命」を失う。せめて孔をあ

けるのは六つまでにしておいた方がいいだろう。特に、口は

あけない方が賢明だ。口をあけるとしゃべりだすからね。無

秩序が加速する。目・耳・鼻だけなら受け取るだけだから、

大した問題も生み出さないだろう。むしろ、「命」に楽しさ

が加わるのかもしれない。


 「六竅穿たれて、混沌笑う」


 そんなことかもしれない。と、私は口から出まかせを書き

続ける。




 

 
 

 
 
  

2022年4月3日日曜日

「情報」の正体



  今日、うちの奥さんと話している時、「あなたは何でも頭

に入るから」と言われ(うちの奥さんは、私が賢いと思い違

をしている)、「いやいや、頭に入るんじゃなくて、自分

がそっちへ入るんだ」と、なんとはなしにそんな言葉が口か

ら出た。そして、すぐに「そうだ。そういうことだ」と合点

がいった。


 世界からわたしたちのアタマに入ることは「情報」だけ

ど、わたしたちの方が世界に入って行けば、それは「情報」

ではなく「体験」になる。「情報」と「体験」では大きく違

う。

 「体験」は身に付く。身になる。自分の血肉になる。

 「情報」はどんなに膨大なものであっても、道具にとどま

る。それは自分のものではない。

 けれど「情報化社会」と言われて久しいこの社会では、

「情報」を取り込み続けた結果、血肉となる「体験」が出来

ず、わたしたち自身が「情報」と化しているのではないのだ

ろうか?


 わたしたち(のアタマ)は、世界を「情報」という形で自

分の中に取り込んで行けば、自分が「世界」そのものになれ

ると無意識に感じているのではないだろうか?

 自分の中を、世界のすべての「情報」で満たせば、もう自

分は「世界」だろうと・・・。

 極論を言うなら、わたしたちは全知の完璧な存在になりた

いと思っているのだろう。けれども、当然ながらそれは無

い。


 本来は分けることのできない “世界” というものを、「情

報」として切り分ける。

 それによって、「繋がっている」ということが持っていた 

“何か” が失われ、「情報」を集めれば集める程に、その “何

か” の損失は増えて行く。その失われた厖大な “何か” の欠損

は、意識の上にのぼらないないままに、人を不安にさせて行

く。そして、その不安を埋める為にさらに「情報」を取り込

みたがるという悪循環に陥る・・・。「情報」は麻薬のよう

なものなのだろう。

 「情報」に依存し、「情報」を得ることが生きる目的のよ

うになり、そのことに人生を支配されてしまう人々が社会の

大多数となったのが現代というものなんだろうという気がす

る。


 わたしたちが失ったものは何か?