2022年4月3日日曜日

「情報」の正体



  今日、うちの奥さんと話している時、「あなたは何でも頭

に入るから」と言われ(うちの奥さんは、私が賢いと思い違

をしている)、「いやいや、頭に入るんじゃなくて、自分

がそっちへ入るんだ」と、なんとはなしにそんな言葉が口か

ら出た。そして、すぐに「そうだ。そういうことだ」と合点

がいった。


 世界からわたしたちのアタマに入ることは「情報」だけ

ど、わたしたちの方が世界に入って行けば、それは「情報」

ではなく「体験」になる。「情報」と「体験」では大きく違

う。

 「体験」は身に付く。身になる。自分の血肉になる。

 「情報」はどんなに膨大なものであっても、道具にとどま

る。それは自分のものではない。

 けれど「情報化社会」と言われて久しいこの社会では、

「情報」を取り込み続けた結果、血肉となる「体験」が出来

ず、わたしたち自身が「情報」と化しているのではないのだ

ろうか?


 わたしたち(のアタマ)は、世界を「情報」という形で自

分の中に取り込んで行けば、自分が「世界」そのものになれ

ると無意識に感じているのではないだろうか?

 自分の中を、世界のすべての「情報」で満たせば、もう自

分は「世界」だろうと・・・。

 極論を言うなら、わたしたちは全知の完璧な存在になりた

いと思っているのだろう。けれども、当然ながらそれは無

い。


 本来は分けることのできない “世界” というものを、「情

報」として切り分ける。

 それによって、「繋がっている」ということが持っていた 

“何か” が失われ、「情報」を集めれば集める程に、その “何

か” の損失は増えて行く。その失われた厖大な “何か” の欠損

は、意識の上にのぼらないないままに、人を不安にさせて行

く。そして、その不安を埋める為にさらに「情報」を取り込

みたがるという悪循環に陥る・・・。「情報」は麻薬のよう

なものなのだろう。

 「情報」に依存し、「情報」を得ることが生きる目的のよ

うになり、そのことに人生を支配されてしまう人々が社会の

大多数となったのが現代というものなんだろうという気がす

る。


 わたしたちが失ったものは何か?



 

 

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