2022年4月24日日曜日

命の自転



 今日のタイトルを見て「何のこと?」と思われることだろ

う。単に「生と死」を「昼と夜」になぞらえてみただけで

す。ただの思い付きで、特に深い意味はない。なので、別に 

“命の公転” でもいいのです。「夏と冬」に例えてもいい。ど

ちらにせよ、命は生まれてそして死んで行く。そしてまた、

あらたな生が動き始める。

 わたしたちは生まれて死んで行く。つまるところ、それだ

けのことです。身も蓋も無い言い草ですが、結局のところそ

れだけのことです。それだけのことなんだけど、世の中はそ

れでは済ませない。「生まれるのは大歓迎!」「死ぬのは、

あってはならないこと」だと・・・。朝が来れば必ず夜は来

るのにねぇ・・・。


 私のように、「人が死んでも悲しくない」なんていうよう

な異常者の言うことに、耳を貸す人はほとんどいない。いれ

ば、その人も異常者の可能性が強い。ちなみに「異常者」と

いうのは “常識とは異なる者” のことで、決して “アタマのお

かしい者” ということではない(アタマは悪さをするものだ

から、「アタマがおかしいことは良いこと」という可能性も

有る)。


 「死ぬのは、あってはならないこと」。その考えの方が異

常なのは間違いない。

 なぜ「死ぬのは、あってはならないこと」なのか? 生きて

いるものはみんな死ぬではないか? それは「夜が来るなんて

許せない!」と言っているようなものだろう。だったら自転

を止めるのか?そうなったら、 焼け付く昼の中で、人は干か

らびてしまう。人は、夜に逃げ込むことだろう。


 「生」は光で、「死」は闇。そういうイメージが人の世の

常識だ。けれど、そのイメージは、そもそも的を得たものな

のだろうか? 

 逆に「死」は光で、「生」は闇なのかもしれない。なにし

ろ、死んだ人が「死」の実態を語ってくれることは無いの

で、わたしたちは「生」と「死」を比較できない。「生」の

側から勝手に「死」に意味付けをして、「闇」だと思ってい

るというのが実際だ。一度、既成概念から離れて考えてみる

方がいいだろうと思う。本当に「死」は闇なのか? 釈迦は

「生きることは苦」だと言った。だったら「生」の方が闇か

もしれない。


 浄土宗では、死んだら西方浄土から阿弥陀仏が光に包まれ

ながら迎えに来る。悟りを得ることを「光明を得る」ともい

う。死んだら「仏さん」になると呼ばれるのがこの国なのだ

から、「死」は光明ということになる。逆にこの世での迷い

苦しみの日々を「無明長夜」という。「生」は闇だ。だか

ら、宗教や哲学や科学やお金に頼って、それぞれが「生」の

闇を乗り切ろうとしている。「生」が光の側だなんてとても

言えないだろう。


 とはいえ、さっきも書いたように、死んだ人が「死」を語

ってくれることは無い。私も「死」の実態を知らない。生ま

れる前は「死」の世界に居たはずだが、それは憶えていな

い。なので、既成概念から離れて考えてみると言ったところ

で、「死」の側のことが実際に分かるわけでもない。けれ

ど、同じ理由で、既成概念の「死」のイメージにも実際のこ

とは何も無い。「死」を闇とする理由も、本当は無い。

「死」については、何も分からない、誰も知らないというの

が正直な回答だ。

 けれど、わたしたちが「死」から生まれてくることは間違

いないだろう。以前書いたように(『死から生まれてきた』

2019/2)、生物の量に比べて、この世界の無生物の量は圧倒

的に多い。それを考えれば、「生」は物質現象の一つのパタ

ーンに過ぎないと言える。どう考えても、「死」の方が広く

大きい。


 私は何も「死」を礼賛しているのではない。ただ、フェア

に考えたいだけだ。

 殺人も自殺も無い方がいい。事故も無い方がいい。けれど

「死」に対する扱いはフェアじゃないと思う。「死」の側の

証人も弁護士もいないまま、欠席裁判は行われ続け、「死」

は有罪のままこれまで来た。それは、あまりに一方的じゃな

いか。もし冤罪なら、人は途轍もない損失をしているかもし

れないのだ。


 自分の大切な人を亡くすと、わたしたちは苦しむ。なんと

かその苦しみから逃れたいともがく。それが普通だし、誰も

それに異を唱えはしない。けれど、その「死のもたらす苦し

みから逃れたい」という思いは、見方を変えれば「死を受け

入れ、肯定できるようになりたい」ということだ。だけど、

それは難しい。その難しさの大きな理由の一つに、世の中の

識があるだろう。

 子供を亡くした人が、葬式でニコニコしていれば非難され

ることは避けられない。大切な人を亡くしたら、そのことに

打ちのめされなくてはいけないという社会常識が、人を闇に

押し込める。苦しむことを要請されるともいえる。その一方

で、先に書いたように、その苦しみから逃れたいという人の

思いに、異を唱える人はいない。ダブルスタンダードじゃな

いか。


 「まず苦しみなさい。それから妥当な期間を経て、そこか

ら出て来なさい」。世の中はそう言っているらしいし、誰も

がそういうものだと受け入れているらしい。それが数千年以

上も続いている・・・。もういいのではないか?


 「生」は光、「死」は闇。

 それは、アタマが生み出した、生きている側からの身びい

きのお話しだし、そのお話しはいたずらに人を苦しめる。愚

かにさせる。

 そんなお話しにいつまでもつき合う必要はない。

                   (次回へ続く)

 


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