2022年4月10日日曜日

平和でいること



 春だなぁ。どこからともなく春の匂いが漂ってくる。

 今朝も家のそばでイソヒヨドリやカワラヒワがさえずって

いたけれど、穏やかで気持ちがいい。平和だなぁと心底感じ

る。遠くの国では戦争しているけれど、やっぱり他人事だ。

あちらはあちらのさだめ。こちらはこちらのさだめ。それぞ

れに “いま” を受け止めてゆく・・・。それでいいのではない

だろうか。それだけのことではないだろうか。


 東日本大震災が起き、原発が爆発した時、多くの外国人が

日本から逃げ出した。それはそれでいい。そりゃそうだろう

と思うから。良い時も悪い時も、人はそれぞれのさだめを、

それぞれの事情によって生きるだけのことだろう。そこに社

会的な “正解” のようなものが有るかのように振舞うのは、何

かが違うような気がする。物事がおかしな方へ行きそうな気

もする。


 『木を植えた男』というアニメをご存じだろうか? カナダ

のフレデリック・バックという作家による作品で、フランス

のジャン・ジオノという作家の原作によるものだ。

 「忘れえぬ実在の人について書いて欲しい」と頼まれたジ

オノが、プロバンスの広大な荒野に、たった一人で木を植え

続けて森を再生した農夫のことを書いたものだが、それに感

銘を受けたバックがアニメ化した。後に、その農夫は実在し

ていなかったことが分かったのだが、原作もアニメもそれが

事実かどうかを越えて、見た後に「良いものを見たな・・」

としみじみと思わせてくれる作品だ。


 舞台は1910年代から1940年代で、主人公の農夫 エルゼア

ール・ブッフィエ はたったひとりで荒地に住み、毎日一日

100粒のドングリを植え続ける。そして30年以上の歳月をか

け、森をよみがえらせる。

 その間には第一次世界大戦と第二次世界大戦も起き、せっ

かく育った森の一部が、戦争の為に伐採されるということも

起きたが、ブッフィエは戦争にはまったく関心を示さず(あ

るいは知りもせず)ただただ木を植え続けていた。彼はた

だ、誠実に自分のすべきこと、自分の暮らしを続けるだけだ

った。そしてそれは、結果的に多くの人々に喜びをもたらす

ことになった・・・。そんな物語。


 それで思い出すのが、『老子』の中の理想の国について語

ている部分。


 「それはごく小さな国で、人々は単純に穏やかに暮らし、

旅に出たりもせず、隣の国は犬や鶏の鳴き声が聞こえるほど

近いが、往来も無い・・・」


 さらに〈 君子、その想い、その位を出でず 〉という言葉な

ども思い出す。(こっちは孔子の言葉だけど)

 私は、この「位」は広い意味で、「立場」と捉えたほうが

よいと思っている。自分の分際、居場所。


 現代では、無関心であることは「良くないこと」と言われ

ることが多いだろうけれど、他者に関心を持つことが、かえ

って物事を乱す側面を持つことは否定できないだろう。


 随分前に、《 一人一人が平和になって、初めて社会が平和

になる 》と書いたことがあるけれど、『木を植えた男』のブ

ッフィエのように、ただただ、自分の居場所で自分のすべき

ことに誠実に生きている方が、世の中の為にもなるのではな

いか? その、ひとりの場所の、ひとりの平和が、いつか静か

に、ほんの少しは広がって行くのではないだろうか?


 これまで、社会が人に求めるような “正義” が、世の中を平

にしたことはない。

 少なくとも、私は知らない。


 人は、自分で自分を平和にするしかない。

 社会を平和にする義務などないし、それは出来ないことで

もある。


 作為を捨て、ただ、ひとりで平和でいること。


 それが 78億分の1 であるとしても、そこには確かに平和が

ある。

 それは世界への貢献ではなかろうか?




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