2021年2月27日土曜日

生きているってなんだろう?



 ここのところ気温が上がって来て、草木の芽が動き始め

た。

 バラの葉が開きはじめ、センニンソウが芽吹き、キンモク

セイの新芽も伸び始めている。

 道端ではヒメオドリコソウやホトケノザやオオイヌノフグ

リの花もちらほらと見かけるようになった。彼らにはもうす

でに春である。

 そういう植物たちのそばをアリが動き回り、それを見てい

る私の背後ではスズメやメジロが鳴き、目の端をノラ猫が歩

いて行く。すこし向こうの道では男性がイヌを散歩させてい

る・・・。かなり暖かさを増した陽の光を背中に浴びながら

思う。

 「生きているってなんだろうな・・・」


 もう結構長く生きているのに「生きてるってなんだろう

な・・・」というのは、この期におよんでという感がある

が、正直なところ、生きているってなんだろう?


 若い時にももちろんそう思うことは度々あったし、これま

でにも、折につけそういう想いを何度となく抱いてきたけれ

ど、今回は何やら感覚が違う。どうもこの頃は「生きてい

る」という感じが希薄なのだ。自分が生きているという感じ

ではなく、「自分とかいうところの “この人間” のストーリー

を見ている」ような感覚で日々を過ごしている。


 ほんとうに、生きているってなんだろうと思う。

 外を見れば、車が走り回り、ジョギングをする人がいた

り、みなそれぞれに何処かへ向かい、あれやこれやと動いて

いる。

 さまざまな生き物がいて活動し、木は背を伸ばし、花は咲

く。

 そこにはそれぞれに目的が有るのだが、よくよく考えれ

ば、それは表面的な事でしかない。つまるところ、「生きて

いるから、生きている」というのが、生きていることの真実

だろう。

 生きているってなんだろう?


 窓の外を見ると、遠くを飛行機が西へ飛んで行く・・・。

あの中には何百人かの人が乗っているのだろうが、彼らにも

目的がある。けれど本当のところは、わけも分からず、止む

にやまれず、目的の場所を目指して移動しているのだ。その

一方、すこし視線を落とせば、そこには陽だまりでネコが寝

ている・・・。

 生きているってなんだろう?


 窓の外にメジロが来た。始終あたりを警戒しながら、ミカ

ンをついばむ。

 「生きているってなんだ?」

 訊けるものなら訊いてみたいところだが・・・。


 生きていることが何なのかを知ることも叶わないまま、わ

けも分からず、止むにやまれず生きて行く。それはそれでい

いんだが、ネコやメジロや虫や花の生き方はともかく、人間

が、みずからの大層なお話しの中でうろつき回る事について

は、時折り止めてみたい。そう思う。その “お話し” が「生き

ていること」とは直接関係が無いことだけは確かだと思う

し、それにかまけていることは「生きている」の外に身を置

くことだろうから。


 「生きている」が “何か” は知らない。

 けれども、ネコやメジロや花の側に立てば、「生きてい

る」を感じることだろう。


 窓の外、メジロがまだミカンを突っついている・・・。ア

イツは、いま生きている。




2021年2月15日月曜日

弱音を吐いていいだろう・・・。



  私は弱虫です。意気地なしで、根性無しで、忍耐力もあま

り無い。これまで生きて来られたのが不思議なくらいだと自

分で思う。若い時は劣等感の塊のようだった。けれど、歳を

取るごとに、まわりにも実は弱い人が結構いるということが

分かってきた。そしてさらに歳を取って、ごく僅かな例外を

除いて、人はみんな弱いということが分かった。みんな強が

っているのだと。


 確か、六歳の時だったと思う。ある日、父親に連れられ

て、尼崎に住む叔父さんの所へ行ったことがあった。

 日が暮れ、尼崎から当時の国鉄に乗って帰ったのだが、電

車に乗ると、酒の入っていた父親は「○○駅に着いたら起こ

してくれ」と言って寝てしまった。


 「えっ! 何? 何駅???」


 当時の私は、神戸と尼崎がどれくらい離れていて、どれく

らいの駅の数が有るかも知らないし、自分の最寄り駅の名

も分かっていなかった。

 父親は怖い人ではないが、起こして聞き直すと、なぜか怒

られるような気がして聞き直せなかった・・・。


 「どうしよう・・。どこで起こしたらいいんだろう・・。

乗り越したらどうしよう・・。どうなるんだろう・・・」


 ほとんど人が乗っていない車両の片隅で、まるでこの世に

ひとり取り残されたように思えて、とてつもなく不安にな

り、窓の外の暗い街と父親の寝顔を交互に見ながら、ひとり

で泣きべそをかいていた。

 結局、最寄り駅の手前で父親が目を覚まし、普通に電車を

降りたと記憶しているが、あの時の不安感はいまだに心の奥

に残っている気がする。

 いまにして思えば、あの時、私の自我は、初めて不安を感

じたのだろう。


 自分は独りだ・・・。

 自分は何も知らない・・・。

 自分は何の力も持っていない・・・。


 それから数年後。私の父親は自ら命を絶ち、それによっ

て、あの時私が抱えた不安は、解消される機会を持てないま

ま、私の心の中に封じ込められてしまったように思う。

 私は、心の中で、ずっと泣きべそをかいたまま生きて来た

ようだ。

 そして、ずっと強がってきたようだ。弱さを認めると、心

が潰れてしまいそうに思えて・・・。 


 でももういい。自分だけではなく、誰もが弱いことを私は

もう知っている。

 人の弱さを受け入れる。

 自分の弱さも受け入れる。

 強がりごっこは辞めよう。それは無益だ。


 「弱音を吐くな」と言うな。

 「泣かないで」と言うな。

 「がんばれ」と言うな。

 「強くなれ」と言うな。

 「生きて」と言うな。


 弱音を吐いてもいい。

 泣いてもいい。

 がんばれなくてもいい。

 強くなれなくてもいい。

 生きられなくてもいい・・・。


 人はそれでいいのではないか?


 素直に自分であることが許されないから、自分ではない

かけの自分を取り繕わなければならない・・・。何の為?

 素直に自分であれるなら、そのせいで生きられなかったと

ても仕方がない。だって、それが〈自分〉なのだから。


 強がりごっこで、見かけの自分になって生きる。それは、

人としてあるべき姿なのか?


 異議を唱えたい。
 

 人は、もう何千年もの間、不安を打ち消そうとバカな強が

りを続けて来た。

 もうやめてみてもいい時が来たのではないか?

 不安を受け入れ、弱音を吐き、泣きたくなれば泣き、見せ

かけの強さを繕わず、生きることにしがみつくのをやめてい

いのではないだろうか?


 その時。生身の、はだかの、違う意味での強さが、命の持

つ力のようなものが現われるような気がするのだが・・・。


 「もう、弱音を吐いていいだろう・・・

 そんな気がする。






2021年2月6日土曜日

ササユリ



  今日は暖かな一日。三月並みの気温だそうで、空も快晴。

午前中は、通販で注文していたササユリの球根が昨日届いて

いたので、それを鉢に植えた。ササユリの栽培は少々難易度

が高いそうなので上手く咲いてくれるのかは分からないけ

ど、まぁ後は運次第かな。


 その昔は、神戸の六甲山でもササユリは普通に見られた

(子供の頃に見た記憶もある)けれど、この頃はほぼ絶滅状

態だろう。私が六甲山で最後にササユリを見たのは、7~8年

前のことだろうか。獲られてしまうということもあるけど、

六甲山の環境が変わったことが大きいのだろう。それは、環

境破壊ということではなく、逆に六甲の森が深くなったせい

で、山全体がササユリにとっては少し暗すぎるということに

なったのだろうと思う。


 「自然を守れ」という言葉はよく耳にする。私もその方が

いいとは思う。けれど、自然というものは人間の都合とは無

関係に存在しているので、自然を守った結果が、人間にとっ

ては不都合だったり、結果が人にとっては残念だったりもす

る。


 高度成長期には、日本中で川が汚れ、工業地帯や都市部の

川はドブ川と言われた。

 このままではいけないと、川をきれいにする取り組みが行

われ、人々の意識も高まり、今は都会の川でもすごくキレイ

になったし、そのおかげで海の赤潮の発生も激減した。とこ

ろが、川がきれいになり過ぎ、海に流れ込む水が清浄になり

過ぎたおかげで、大阪湾ではイカナゴが撮れなくなり神戸の

風物詩でもある「いかなごのくぎ煮」が作れなくなってき

た。有明海などでは海苔が育ちにくくなっているともいう。

そして、自然を守った結果、六甲山ではササユリのような生

態の植物が消えようとしている。

 「自然を守れ」

 けど、「自然」とは何なのか?


 私の場合、道端のアスファルトのすきまに生えている草に

も自然を感じる。「自然」とは人間のコントロールの外にあ

る存在だと考えているのだが、よくよく考えてみると、人間

がコントロールしきれるものなど存在しない。そういう意味

では「自然」でないものは無い。


 東京の真ん中には、次々と高層ビルができる。そのビルは

出来た瞬間から、いや、建築工事の始まった瞬間から、自然

の力に圧迫され始める。

 重力、風雨、温度、湿度、紫外線、塩分 etc ・・・。た

だ、そこに起きる変化が、人間の感覚では捉えにくいものな

ので気付かないだけであって、どのような人工物も、生み出

された瞬間に「自然」の一部になってしまうのだ。

 さらに言うならば、わたしたちがアタマで考えていること

も、五感からの入力に大きく影響されているし、脳を創った

のも「自然」なのだから、わたしたちの思考すら「自然」の

働きに他ならない。

 わたしたちが守るべき「自然」など無い。

 わたしたちが壊せる「自然」も無い。

 「自然」の一片でしかないわたしたちには、「自然」を壊

すことも守ることもできない。

 「自然を守れ」という想いは、「自然」から分離してしま

っているように感じられ、不安になってしまうわたしたちの

アタマが、その不安を打ち消そうとする足掻きなのだろう。

守りたいのは「自分」なのだ。


 そうであれば、「自分」を守る為にすべきことは分かる。

自分の “思考” をおとなしくさせればいい。“思考” によって

「自然」からの分離感が生まれるのだから。

 そして “思考” をおとなしくさせることで、いわゆる “自

然” を壊すことも、ましになるだろうし・・・。


 この夏、我が家でササユリは咲くだろうか?

 咲いてくれれば、あの気品のある花は、私の中の分離感を

かなり薄めてくれることだろう。