2021年2月15日月曜日

弱音を吐いていいだろう・・・。



  私は弱虫です。意気地なしで、根性無しで、忍耐力もあま

り無い。これまで生きて来られたのが不思議なくらいだと自

分で思う。若い時は劣等感の塊のようだった。けれど、歳を

取るごとに、まわりにも実は弱い人が結構いるということが

分かってきた。そしてさらに歳を取って、ごく僅かな例外を

除いて、人はみんな弱いということが分かった。みんな強が

っているのだと。


 確か、六歳の時だったと思う。ある日、父親に連れられ

て、尼崎に住む叔父さんの所へ行ったことがあった。

 日が暮れ、尼崎から当時の国鉄に乗って帰ったのだが、電

車に乗ると、酒の入っていた父親は「○○駅に着いたら起こ

してくれ」と言って寝てしまった。


 「えっ! 何? 何駅???」


 当時の私は、神戸と尼崎がどれくらい離れていて、どれく

らいの駅の数が有るかも知らないし、自分の最寄り駅の名

も分かっていなかった。

 父親は怖い人ではないが、起こして聞き直すと、なぜか怒

られるような気がして聞き直せなかった・・・。


 「どうしよう・・。どこで起こしたらいいんだろう・・。

乗り越したらどうしよう・・。どうなるんだろう・・・」


 ほとんど人が乗っていない車両の片隅で、まるでこの世に

ひとり取り残されたように思えて、とてつもなく不安にな

り、窓の外の暗い街と父親の寝顔を交互に見ながら、ひとり

で泣きべそをかいていた。

 結局、最寄り駅の手前で父親が目を覚まし、普通に電車を

降りたと記憶しているが、あの時の不安感はいまだに心の奥

に残っている気がする。

 いまにして思えば、あの時、私の自我は、初めて不安を感

じたのだろう。


 自分は独りだ・・・。

 自分は何も知らない・・・。

 自分は何の力も持っていない・・・。


 それから数年後。私の父親は自ら命を絶ち、それによっ

て、あの時私が抱えた不安は、解消される機会を持てないま

ま、私の心の中に封じ込められてしまったように思う。

 私は、心の中で、ずっと泣きべそをかいたまま生きて来た

ようだ。

 そして、ずっと強がってきたようだ。弱さを認めると、心

が潰れてしまいそうに思えて・・・。 


 でももういい。自分だけではなく、誰もが弱いことを私は

もう知っている。

 人の弱さを受け入れる。

 自分の弱さも受け入れる。

 強がりごっこは辞めよう。それは無益だ。


 「弱音を吐くな」と言うな。

 「泣かないで」と言うな。

 「がんばれ」と言うな。

 「強くなれ」と言うな。

 「生きて」と言うな。


 弱音を吐いてもいい。

 泣いてもいい。

 がんばれなくてもいい。

 強くなれなくてもいい。

 生きられなくてもいい・・・。


 人はそれでいいのではないか?


 素直に自分であることが許されないから、自分ではない

かけの自分を取り繕わなければならない・・・。何の為?

 素直に自分であれるなら、そのせいで生きられなかったと

ても仕方がない。だって、それが〈自分〉なのだから。


 強がりごっこで、見かけの自分になって生きる。それは、

人としてあるべき姿なのか?


 異議を唱えたい。
 

 人は、もう何千年もの間、不安を打ち消そうとバカな強が

りを続けて来た。

 もうやめてみてもいい時が来たのではないか?

 不安を受け入れ、弱音を吐き、泣きたくなれば泣き、見せ

かけの強さを繕わず、生きることにしがみつくのをやめてい

いのではないだろうか?


 その時。生身の、はだかの、違う意味での強さが、命の持

つ力のようなものが現われるような気がするのだが・・・。


 「もう、弱音を吐いていいだろう・・・

 そんな気がする。






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